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連作短編『愛とiと』4-後編

「アイって一体何なんだ?」
 枦田くんの投げやりな問いにあたしはぼそっと答えた。
「2乗するとマイナス1になる数、らしいね」
「坂下と同じようなことを……」
「え?」
 聞き返すと彼は「悪い」と呟いて俯いてしまった。そんな腫れ物に触るような反応をしないでほしい。
「もう虚数とか記憶の彼方だよね」
 無駄に明るい調子で言ってみる。はかどらない課題を前に、手より口の方が動いてしまう。
「枦田くんは結局、氷山さんと付き合ってるの?」
「ド直球だな」
「氷山さんより答えてくれそうだからさ」
「うーん、その評価はどうなんだろう……」
 苦笑しながらやっぱり枦田くんは答えてくれた。
「実は俺もその答えを知りたい」
「え?」
「告白はしたんだ。ただ、はっきりした返事をもらってなくて」
 あたしは彼の顔をまじまじと見つめてしまった。
「何?」
「枦田くん、告白とかするんだ」
「そりゃ――」
 ガラガラ。と、教室の前のドアが開いて荒木くんが入ってきた。
「お二人さんいつまでやっとんねん」
 頭を突き合わせているあたしたちを見て彼が言う。
「それとも俺、お邪魔やった?」
「そんなわけないだろ!」
 反射的に全力否定する枦田くんを笑顔でかわして、荒木くんはあたしの隣に座った。
「これが補習の課題?」
「あ、うん」
「斉川も数学苦手なんやな」
 プリントを覗き込んだかと思うと「貸して」とシャーペンを手に取ってすらすら答えを書き込んでいく。
「ほい、コレ先生に出してきい。練習始めるんにも斉川がおらんとどこに何があるかも分からへん」
「ごめん」
「別に補習くらいで謝らんでも――」
「新部長の教育がなってなくて」
「……そっちか」
 四月の時点では、みんな次の部長は坂下くんだろうとなんとなく思っていたのだ。それが白紙撤回されたことを荒木くんだけが知らない。
「この答え、俺も写していい?」
 返事を待つまでもなく枦田くんが答案を覗き込んでいる。
「なんか俺の周りって無駄に勉強のできる奴が多い気がするんだけど」
 それ、すごく同感。
「学校の勉強は取っ掛かりさえ掴めばそんなに難しくあらへんよ」
「その取っ掛かりが俺には永久に見つからない気がする」
 それも、すごく同感。
「ほな、部室で部長と待っとるから、なるべく早く来てや」
 荒木くんはそう言って教室を出ていった。
「……移籍チームを間違えた助っ人外国人って感じ」
「俺も今、同じようなこと考えたわ」
 なんとも呑気な同意である。
「いいの? 枦田くん」
「何が?」
「強力なライバルでしょ?」
 あたしが聞いても答えてくれたんだから、枦田くんだって知っているはずだ。氷山さんと荒木くんが中学の同級生だってこと。
「うーん」
 それなのに、彼の苦笑にはなんだか余裕さえ感じる。
「いや、今までもハイスペック男が隣にいたからさ。おかげで変に自分と比べて焦ったりはないかな」
「でも告白の返事はもらってないんでしょう?」
「そうだけど、何某かの好意は感じるからさ。アイって見えるらしいし?」
「愛が見える?」
「何とか平面って虚数の話」
 ……どうしよう。
「なんか急に枦田くんの方が坂下くんよりも男前に見えてきたんだけど」
「今頃気付いたか」
 そんな返しまで覚えちゃって。枦田くんはあたしが思っていた以上に大人である。
「でも、ホントごめんな」
「え、何が?」
「坂下があんな男で」
 それは彼が謝ることじゃない。あたしが勝手に「あんな男」に惚れたのだ。
「いやでも、やっぱり責任感じるんだよ。斉川をマネージャーに誘ったのも俺だし」
「……何それ?」
「今だから言うけどさ。あの時、斉川に一目惚れした俺が坂下に声掛けろって無茶ぶりして……まさか本当にマネージャーをやるとは思わなかった」
「それって」
 あの時、あたしを迎えに来てくれた王子様は――
「ごめん」
「何で斉川が謝るの?」
「……なんとなく、気付いてたから」
 枦田くんの気持ちは分かっていた。それなのに、あたしは気付かないふりをしたのだ。
「野球部の連中は多かれ少なかれ斉川に惚れてるよ。そんなことにいちいち気を遣わなくていいってところまで俺たちの総意」
 約一名を除いてか。
 と、彼はまた苦い顔をする。
「だから坂下のことは、斉川の好きなようにしてくれて構わないから」
「好きなようにって」
「戻ってきてほしいんだろ? 野球部に」
 ……どうしよう。本格的に枦田くんの方が坂下くんより格好いいことに気付いてしまった。
「もっと早く気付きたかった」
「え?」
 枦田くんの気持ちにきちんと向き合っていたら、もしかしたら今頃は――
「ま、俺がこんなこと言えるのも、氷山にガッツリ怒られたからなんだけど」
「氷山……さん?」
「俺たちが怒ってたら斉川が板挟みになるだけだって。あいつやっぱりお節介だよな」
 そっか、枦田くんを変えたのは氷山さんなのだ。
「……言った通り、だったでしょう?」
「ん?」
「二人お似合いだと思うって」
 照れくさそうに笑う枦田くんは、きっと最初からあたしには勿体ない男だったのだ。

 結局、坂下くんが帰ってきたのは夏休みも終わる頃だった。
 八月最後の週にふらりと現れて、気付けば以前と変わらない調子で練習に参加していた。枦田くんは宣言通り部員たちをとりなしていたし、さすがに居心地悪そうな坂下くんには荒木くんがフォローに回っていた。彼の転校時期はウチにとってもベストだったのかもしれない。
 新学期に入ると、坂下くんと柚原さんが別れていたことも判明する。
 いや、実際には誰が何を言ったわけでもないんだけど。あれだけアピールの激しかった柚原さんが大人しくなったからそう解釈せざるを得なかったのだ。それに――
「それ、ピアス?」
 休みの間に伸びた髪に隠れて、彼の右耳には小さな銀色の輪が鈍く光っていた。
「どうして急に?」
 氷山さんが「もどき」と呼ぼうが坂下くんは優等生だ。服装規定だって今まで破ったことはなかった。
「……バツかな」
「バツ?」
「そう。最後に美里に空けてもらった」
 最後という言葉もさることながら、耳元に触れた際の愁いを帯びた微笑が堪らなかった。特別天然記念物なんて部員に揶揄されていた無邪気な笑顔とは大違い。
 ……やばい、格好いい。
 どんなに御託を並べたところで、私はこの顔に惚れているらしい。

                          〈第四話、了〉

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