見出し画像

連作短編『愛とiと』1-前編

一、枦田仁

「その遅刻癖、何とかならないの?」
 彼女が僕に向けた最初の言葉がそれだった。
「え?」
 一瞬、頭が真っ白になる。
 何も言えずに突っ立っていると、彼女は前方を指差し、次いで目の前の椅子を示した。授業中の教室、バタバタ入ってきた僕、周囲からの視線――それだけ辛うじて理解した僕は、黙って自分の席に着いたのだった。

 夢の中まで声が届く。
「……きて……きたら。仁、起きなさいよ!」
「あと、五分……」
「は?」
 冷めた声音にハッとする。
「何言ってるの?」
 そこには見知らぬ美女が立っていた。
 こちらに向けられた切れ長の目と薄い唇が冷ややかな笑みを浮かべる。瞬きと同時に震えるまつ毛は、化粧っ気もないのにバサバサと存在感がある。
「……」
「……」
 いや、見覚えくらいあるではないか。
 つい最近クラスメイトになった女子の顔だった。慌てて口元のよだれを拭い取って、僕は教室の前を見た。
「もしかして、授業終わった?」
「とっくに」
 先生だけでなく生徒もあらかた姿が見えない。日直が黒板に残された『虚数i』を消し去っているところだった。
「居眠りもここまで来ると特殊能力ね」
 彼女は既に帰り支度を済ませたようで、そのまま教室を出ていった。遅れて僕も真っ白のノートを鞄にしまい、部室へと向かう。
 ……何て名前だったかな?
 僕はまだ彼女の名前すら記憶になかった。一週間前に始業式を迎え、クラス替えと名簿順の都合で隣の席に決まったばかり。それが今朝、教室へ入ってきたところをいきなりガツンと言われたのだ。美女が構ってくるのは悪い気はしないが、何せ理解不能である。
 部室のドアを開くと、坂下徹が練習着に着替えているところだった。
「遅かったな」
「置いてくなよ」
 群れなきゃ生きていけない女子ではないけれど、クラスメイトに置いていかれたのでそう言ってみる。返しも実にドライだった。
「仁が寝こけてるからだろ」
 そうだけど、それだけじゃない。僕は彼女との一連のやり取りを坂下に伝えてみる。
「……そりゃ仁があまりにだらしないもんで思わずイライラ」
「ハッ」
 健全な男子高生なら「そりゃ仁に気があるんだよ」と僕を勘違いさせるところだが、この男は間違ってもそんなことは言わない。それが彼のいいところでも悪いところでもある。
 彼女が「だらしのない相手にイライラした」のは分かる。制服の着こなしからつっけんどんなしゃべり方まで、傍目の印象は完全に堅物の優等生だ。
「でもさ、わざわざ声掛ける? 俺が居眠りしたところで別に誰に迷惑かけたわけでもじゃないじゃん」
「遅刻の方は何度か授業を止めてるけどな」
「あ……」
 坂下が苦笑する。
「あと名前、氷山新希」
「え?」
「隣の奴くらい覚えとけよ」
 さらりと言われてからこいつも優等生だったことを思い出す。しかもかなりの男前で、他人との距離感がちょっとおかしい。
「……なあ、坂下は何で俺のこと『仁』って呼ぶんだ?」
「は?」
 高校生にもなると「名前呼び」は意図しないとできない気がするが、この男はそれを平然とやってのけるのだ。
「お前の名前が仁だから、だろ?」
「ああ、うん。そうだな」
 だからと言って周囲の名字呼びは特に気にならないらしい。美形で今一つ空気の読めない優等生――誰かさんとばっちりキャラが被っている。
「坂下くん、枦田くん。まだ着替えてる?」
 不意に、扉の向こうから声がする。我が野球部マネージャーの斉川綾乃だった。
「入っていい?」
「あ、大丈夫」
 先に着替えを終えていた坂下が間髪を容れずに答えた。
 ……いや、別に大丈夫だけどさ。この場合は遅れてきた僕の都合で答えるものじゃない?
「ごめん綾乃、お待たせ」
 と、頼まれていないのにドアを開ける。
 前言撤回。この無自覚タラシの特別天然記念物とキャラが被る人間が、そう簡単にいるわけがない。

 遡ること約一年、野球部に入ったばかりの僕と坂下は当時の部長から特別任務を仰せつかった。
「単刀直入に言う。坂下、一年女子からマネージャーを捕まえられないか?」
 直入が過ぎるだろう、と思った隣でぽかんとしている男前を見て僕はちょっぴり悲しくなった。こいつ、無自覚か。
 そして部長も同じ思いを抱いたらしい。僕の肩をポンと叩いて、二人まとめて部室から放り出した。
「頼んだぞ、枦田」
 まあ、意図は分かる。選手が九人ギリギリの弱小野球部だろうがマネージャーは欲しいし、せっかく上等な釣り餌が入ったのだから使うに越したことはない。坂下徹は分かりやすく二物も三物も与えられた男だった。
「とりあえず部活に入ってない女子に片っ端から声かけていけばいいの?」
「それはそうなんだけどさ――」
 向かいから歩いてくる彼女を見て、僕は言葉を詰まらせた。
「仁?」
 くりくりした瞳、華やかな笑顔。ふんわりとしたショートヘアを揺らし、アルトサックスを携えて歩く彼女に僕は一目惚れした。
 それが斉川綾乃である。
「あの子にしよう」
「へ?」
「マネージャー」
「いや、どう見ても吹奏楽部」
「行ってこい」
 勢いで送り出したのだが、僕はまさか彼女が快諾するなんて思わなかった。
「あ、あたしでよければ……野球は全然わかんないけど」
 すぐさま音楽室を飛び出した斉川の姿に疑う余地はなかった。つまり彼女も坂下に一目惚れをしたのだ。
 しかし、相手は無自覚タラシの特別天然記念物である。
 斉川はいまだ坂下に想いを伝えられていないし、僕も奴に嫉妬できるほど自信やプライドを持ち合わせていない。きっとこの男は意識せぬ間に多くの好意と敵意を打ち砕いてきたのだろう。恐ろしく鈍感な笑顔にそんなことを考えた。

                              <続く>

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?