『アンビバレント』

 ぐつぐつと煮える鍋をつつきながら浅倉彩美は嘯いた。
「私が幸せになれないのって、私が幸せだからだと思うんだよね」
「先輩は十分幸せそうに見えますけど」
「それだよ」
 向かいに座る渡辺聡介の言葉に、待ってましたとばかり彼女は噛みついた。学生時代、女子がこぞって「可愛い」と目の保養にした後輩は、二十三になったはずだが相変わらずそうは見えない。
「契約だけど仕事は好きだし、実家だから衣食住の心配はないし、毎日楽しすぎて恋愛とかする暇がない」
「先輩の趣味、引きこもりですもんね」
「読書と映画鑑賞ね。ところで私たち、何で別々の鍋つついてるの?」
 一人用の小ぶりな土鍋に、彩美は今一度視線を落とす。
「このご時世ですからね、お店側の対策ってやつでしょう」
「そして御一人様でも堂々と生きていける世界が出来上がるのか。そうだよね、御一人様最高だよね」
 その言葉に聡介が首を捻る。
「じゃあ何で僕を呼んだんですか?」
「さっきも言ったでしょう。契約社員に振られる仕事がとにかく黙々と作業なの。しかも正社員の方がリモートが進んでるから、最近はオフィスもスッカスカ。仕事は好きだし一人の時間も楽しいけど、そろそろ他人としゃべらないと精神衛生的にやばいと思って」
「つまり僕である必要性はないんですね」
「実際、君は八番目の男だよ」
「……は?」
 彩美が悪戯じみた笑顔を見せる。
「仲のいい同期から順番に連絡して、忙しいとか既読スルーとかそもそも東京にいないとか、振られ振られて聡介くん」
「そうだったんですか」
「結果こうして聡介くんと鍋つつけるって、かなりラッキーだとは思ってるけど」
 彼女は満ち足りた溜め息を漏らす。
 顔だけじゃない、テンポのいい突っ込みも相変わらずだ。
「ホントいい男だわ」
「そうでもないですよ」
「女子の山なしオチなし中身なしの話を遮らずに聞ける男はだいたいいい男だよ」
「その基準、悪い男に引っ掛かりそうなので今すぐ改めた方がいいです」
「じゃあ聡介くんは悪い男なの?」
 瞬間、聡介が言葉に詰まり沈黙が訪れた。ぐつぐつと煮え続ける鍋の音だけがその場を支配する。
「……たぶん、そうですね」
「へえ」
「先輩が今密かに抱いているであろう期待には、全く応えるつもりがないので」
 今度は彩美が絶句する番だった。
「ていうか二十四にもなってそんな回りくどいアプローチはないでしょう。本当はそのスッカスカのオフィスに、ちょっとくらい気になる男がいたとかないですよね?」
「……嘘は、吐いてないよ」
「むしろその方が問題でしょう。八番目って僕のことどんだけ甘く見てるんですか」
「だって聡介くんは、可愛い後輩だから」
「だったら可愛い後輩のままでいさせてくださいよ。これでも気を遣ってあげてるんですから」
「だって……」
「何ですか?」
「だって私は、悪い男にすら引っ掛からない女だから」
 聡介が鼻で笑う。
「確かに先輩、めちゃくちゃ面倒くさそうですもんね」
「うん。自分でもそう思う」
 そしてまた彩美が自嘲気味に笑った。
「基本的に一人が好きだからほっといてほしいけど、時々こんなふうにワーッと話を聞いてくれる彼氏か親友が欲しいの」
「親友?」
「だって話を聞いてもらう分には男の子でも女の子でもいいでしょう?」
「その先は?」
「へ?」
「……まさか先輩、その先はなしですか?」
「ああ! あります。あるけど……あまりに現実味がなかったから。そっちはおまけみたいな」
「おまけって」
 聡介が苦笑する。
「先輩、僕はいい男でも都合のいい男でもないのでそろそろ帰りますね」
 椅子の背に掛けていたコートを聡介が手に取る。彩美は慌てて声を上げた。
「待って!」
「何ですか?」
「あの、至らないところはどうにか……できるよう善処するから、またご飯誘ってもいいかな?」
「嫌です」
 彼はぴしゃりと言った。
「そっか……」
「たぶん先輩の一番面倒くさいところはこの回りくどいご機嫌伺いなので、今度は僕が誘います」
「え?」
「あ、でも気が向いたらですよ。その前に先輩からパワハラめいたメールをもらっても、もう可愛い後輩に戻る義理もないので」
「それは、たぶん大丈夫。聡介くんから連絡が来ると分かってれば、一年でも二年でも待てる気がする。もともと御一人様が性に合ってるんだし」
「一年か。その頃にはさすがに同じ鍋をつつけますかね」
「つつけるようになってるといいね」
「どうせ分けても意味ないんだし」
「へ?」
「この期に及んで僕が話を聞くだけの都合のいい男に成り下がるわけがないでしょう」
 聡介が満面の笑みを浮かべた。それを見た彩美は急にしどろもどろな反応を見せる。
「あ、あの……聡介くん?」
「まあ、それも気が向いたらですけどね。別に僕は先輩がいいわけじゃないんで」
 さらりと言葉を翻す彼に、次は頬を膨らませる。
「……どうしてそういうことを言うかな」
「また変に期待されても困るので」
 彼女が払うと言ったはずの食事代をテーブルに置いて、聡介は先に店を出た。残された彩美は空っぽになりながらもぐらぐらと煮立つ鍋を見つめて呟いた。
「やばい。逆に惚れるわ」

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