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『エノナカノ世界』最終回

 片倉瀧は暗闇の中にいた。
 実際のそこはアトリエだとか、黒いのはただのペンキだとか、そういったことにあまり意味はない。真っ黒の海に平たい四角形が沈みかけていて、けれどもそのキャンバスだけはしっかりと彼の目にも認識されているのだった。
「瀧」
 名前を呼ばれて振り返る。姉の冷たい視線を浴びる。
「これは何?」
「奈子を描いたキャンバス」
「いいえ、金にならなかったゴミよ」
 不快感を覚えたが、そういう見方もあるのだろう。大衆社会の感覚を持つ結良はいつだって正しい。
「ねえ、あんたは一体いくつゴミを作れば気が済むの? 言ったでしょ。あんたは絵を売らない限り労働報酬を受け取れないのよ。どうしていつも――」
 彼女の言葉を遮ったのは扉の音、奈子が入ってきたのだった。
「何これ?」
 チッと、結良の舌打ちが聞こえる。奈子は眉をひそめ、画家の姉を窺う。
「売れなかったから?」
「は?」
「天多が言ってたの。売れなかった絵は全て真っ黒になっていたって。それも一回や二回じゃない。何度もそういうことがあって、瀧さんは段々描かなくなった」
 結良は奈子と天多の関係を知らない。だから奈子の言葉を理解するのに少しだけ時間がかかった。
「結良さん、あなたが犯人だったの?」
「はあ?」
「だって」
「……あんたバカ?」
 ようやく話が見えて、結良は己が知る真実を語る。
「瀧は自分で描いた絵を自分で真っ黒にしてるの。気に入らないんだが何だが知らないけど、ほっとくとすぐにこのザマ。だからその前にあたしが取り上げた絵だけが売れてるの。奈子ちゃん、あんまり瀧を信用しない方がいいわよ」
 最後は嘲笑だった。
「この男の変人ぶりは見てきたでしょ。あたしよりよっぽど犯人像に当てはまると思うけど」
「でも、それじゃ何で」
「こっちが知りたいわよ。瀧、これちゃんと片付けときなさいよ」
 そう言い捨てて、彼女は去っていった。奈子はおそるおそる、瀧に声を掛ける。
「瀧さん」
 彼は立ち尽くしたままだった。
「どういうこと? これ、瀧さんが自分でやったの?」
 無言のまま瀧は頷いた。
「どうして?」
「……」
「うまく描けなかったの?」
「……」
「そっか、モデルが悪かったのかな。ごめんね」
「違う」
 どうして奈子が謝るんだ?
「できたんだ。完成だよ」
 世界はめちゃくちゃで、真っ暗で、壊れてる。そのままじゃないか。全ての色が混ざり合った黒。全てを飲み込んでしまう暗黒。俺が見たままの奈子だ。そうだろ?
「確かにあたしが瀧さんに拾われてきた時って、こんな状態だったかもしれないけど。でも、瀧さんが描くのは写実画でしょ? 自分でそう言ったよね?」
「ああ。俺は見たままの姿の奈子を描いたんだ」
 そのはずである。
「でも」
「やっぱり世界は壊れてしまった」
 壊れていく様を幾度となく目撃した瀧は、既にズタボロの奈子を見て思ったのだ。彼女ならこれ以上壊れることはないだろう、彼女なら描けるのではないかと。だから拾った。
「結局は同じだった」
「ねえ、何言ってるの?」
 キャンバスの中の奈子を見ておかしいと思った。自分が見ていた奈子と何かが違うのだ。自分が描いていたはずのもの、描きたいと思っていた瞬間がどこにもない。シャッターチャンスを逃した写真と同じように、ピンボケしていて何も残っちゃいない。
「だから、壊したっていうの?」
「壊した? それは違うよ」
 壊れていく現実をそれでも何とか写しとったら、絵の中の世界は真っ黒になっていた。
「じゃあ何、瀧さんの目に映るのはこんな真っ暗で何もない世界だっていうの?」
「そうだよ」
 あっさりと、あまりにもあっさりと瀧が首肯する。
 奈子の絶句は瀧には伝わらなかった。彼にとってはずいぶん前に導き出された結論だったから。
「この世界に色を持つモノなんて、きっともうないんだ」
 瀧は黒いキャンバスを拾い上げた。まだ乾いていないペンキは彼をべたべたと汚していく。自身をも真っ黒に染めてしまえば、単純な黒の世界が完成するだろう。それは瀧にとって魅力的だった。そもそもこんな世界で自分だけがいくつもの絵の具(いろ)を持っていること自体おかしいのだ。
 長い、沈黙が流れる。
 奈子は何度も頭の中で反芻し、確信を持って尋ねた。
「じゃあさ、最初に描こうとした『あたし』は何だったの?」
「……え?」
「描きかけを見せてはくれなかったけど、瀧さんは確かに色と形のある『あたし』を描こうとしていた。そういう『あたし』が見えていたんだよね?」
「……」
「ねえ、気付いてるでしょ。瀧さんの言葉、矛盾してるよ。本当はちゃんとした絵が描きたいんでしょう? でも描けなくて、だから黒く塗り潰して御託並べたんだ」
 違う。
「そうでしょ? 天多も言ってた」
「……あまた?」
「すごく、感受性が強い人だって」
 どうしてここで望月天多が登場するのか、分かっていても考えるのは奈子の言葉が聞くに堪えないからだった。
「世界が壊れるって、要するに変化するって事でしょ。そりゃあ変わるよ。あたしも、これまで瀧さんが描いてきたものも」
 あたしなんて最悪の出会いだったしね。と彼女が笑う。
「でも、描いてくうちに変わっていったら、それが全部絵に反映されたらぐちゃぐちゃになっちゃう。だから瀧さんの絵は写真と同じなんだ。その瞬間だけを切り取ろうとした。完成するまで見るなっていうのも、そういうことでしょう? できるだけその時間を留めておきたいから」
 奈子のその笑みには余裕さえ感じられる。
「教えて。何を描こうとしていたの?」
「……」
「瀧さん!」
「……奈子だよ。失恋のどん底にいた捨て犬みたいな奈子の絵だ」
 もちろん真っ黒なんかじゃない。出会った時の奈子の姿は全て覚えている。
「見たかったな。あたし、酔っぱらっちゃって全然覚えてないんだもん」
 瀧だって描こうとしたのだ。
 それなのに、その時の奈子を描いていたはずなのに、別の何かが入り込んでしまった。直しても直しても何かが違う、壊れている。そこでまたペンキをかけてみたのだ。そしたらきれいに収まった。だから――
「きっとこれが正解なんだ」
 彼がこの手段を使ったのは一度や二度ではない、ということに奈子はハッとする。
「初めてペンキをかけた時は、どうして?」
「どうしてだろうね?」
 ひらりと問い返した瀧に彼女は強く訴える。
「あたしが聞いてるの! 瀧さんは時々そうやって他人に言葉を預けてしまうけれど、あなたの話をしてるんだよ?」
「……俺の、言葉が欲しい?」
「当たり前じゃない」
 奈子が頷いて、ようやく瀧は自分の言葉を探し始める。
「あれは……あれは、描いてるうちに黒くなってったんだ。色がぐちゃぐちゃに混ざって」
 黒が、あふれ出してしまった。
 なんて瀟洒な言い回しは彼の口から出てこない。
「最終的に絵の具じゃ足りなくなって、だからペンキを使った」
 あの真っ黒なキャンバスが事件とされ、一番驚いたのは瀧自身だった。
 けれども描くしかできない彼に真相を告げる機会は訪れず、気付いたのはそれを奇行と捉えるような姉だけ。結良は弟の絵を金額に直してさばき始めた。
「じゃあ、瀧さんはどうしたいの?」
「俺?」
「あまり描かなくなったっていうのは、やっぱり結良さんが勝手に売っちゃうから? 売れなくても本当は……抽象画? 印象派? そういう絵が描きたいの?」
 聞かれても瀧には分からなかった。自分は見たままを書いているだけなのだから。
「自分が描きたいものすら分からないの?」
「だって――」
 彼が呑み込んだ言葉を、奈子はしっかりと探り当てた。
「そっか、絵を描くのに自分は要らないって話してたね。あの時は写実画に個性は必要なのかって言い方だったけど」
 奈子はひたと瀧を見据える。
「あなたが描いた絵の中にあなたがいないはずがないでしょう。キャンバスはいわば、瀧さんの世界だよ」
「……奈子は、そう思うんだな」
「瀧さんだってそう思ってるよ。でなきゃ真っ黒にして逃げ出したりしないでしょう」
 違う。反射的に呟いてから、瀧は何が違うのか考える。
「つまり奈子は、俺の世界が真っ暗だと言うんだな」
「え?」
「だって、俺がキャンバスの前で試行錯誤を重ねるほど、世界はぐちゃぐちゃになって壊れていく」
「それは違うってさっき」
「言ってない」
「そんなわけ――」
「あるさ」
 瀧は淡々と奈子の反論を潰しにかかる。
「確かに俺が描こうとしたものは色を持っていたかもしれない。でも、結局のところ俺は『これ』を正解だと感じているんだ。つまり俺にとって世界は真っ暗ってことじゃないか」
「そんなことないよ」
 彼女はなおも食い下がった。
「あたしは瀧さんと出会って変わった。瀧さんもあたしと出会って変わった。瀧さんの言葉を使えば『壊れた』ことになるけれど、どん底にいたあたしがこれ以上悪い方に行くわけがないじゃない」
 絵の中の世界に訪れた変化は決して悪いものではない。と、奈子は信じている。
「この絵がぐちゃぐちゃになるほどの思いは――混沌としていたとしても――真っ暗闇ではなかったはずなの。ねえ、もう一度よく考えてみて。あなたは何を描こうとしていたの?」
「それは……」
 キャンバスは真っ黒だった。それは瀧が黒のペンキを選んだからである。もし彼が別の色を選択すれば当然キャンバスは別の色を帯びる。奈子はこれが黒ではなく黒に近しい別の色で、ぶちまけるのではなく描きこんでいけば何かしらの形をとったのではないかと指摘している。
 つまりそれは、瀧の画家としての力量不足を指摘しているに過ぎないのだった。
「答えられるくらいなら、こんな物作ってないよ」
 身体に染み付いた一本調子でそう言うと、途端に奈子の声からも力が抜け落ちてしまった。
「この期に及んでまだはぐらかすの? ここまであたしたちが積み重ねてきた会話は何だったの?」
 それを知っているのは奈子だ。ここまでずっと意見を述べてきたのは彼女の方だから。
「もう分からないよ。あたしには無理」
 奈子には諦観の色が見えた。それはいったい何色だろうなどと瀧は考えてみる。考えている間に彼女はアトリエを出ていった。
 瀧は一人になった。
 奈子の後ろ姿を見て彼は一抹の淋しさを覚えた。何故だろうかと考えて、結良の問いが蘇る。
 ――好きなの?
 もちろん気に入ったから拾ってきた。ボロボロの彼女ならば安心して触れる事が出来た。けれども彼女は思っていたよりも強かったのだ。奈子がアトリエを訪ねたその時から、何かが変わってしまっていた。やはり好きになったのだろうか。天多に嫉妬したのだろうか。
 感情はキャンバスに現れていた。奈子の指摘した通りだ。完成像は見えなくなって、瀧はキャンバスにあたった。しかしそれを認めるのにはもっと勇気がいる。彼は目をそむける一番簡単な方法を選んだ。
 残されたのは真っ黒のキャンバス一枚だった。
「ああ……」
 黒の中には全ての色が含まれる。
 それを一つずつ掬い取って彼女に送ることは可能だろうか。彼女の言うように混沌の中から光を見つけ出すことは。奈子は自分と向き合おうとしてくれた。
 ならば、もう一度。
 瀧は新しいキャンバスを手に取った。しかし、彼の手にはペンキがべっとりとついたままだった。彼にはもはや黒しか残されていなかった。目を背けている間に、全ては手遅れになっていた。
「そうか、世界は俺が壊したんだ」
 瀧の嗚咽がアトリエにひっそりと響いた。

                              〈了〉

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