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連作短編『愛とiと』1-後編

「あ、待って。一緒に帰ろう」
 声を掛けてきたのは斉川だった。ウチの学校は最寄り駅がほぼ一択なので、電車通学の帰り道は必然的にそこまで同じになる。
「坂下なら今日は――」
「分かってるよ。もう、意地悪」
 斉川がくりくりした目で僕を見上げる。ちっちゃこい彼女は、身長だけなら僕とも釣り合うんだけど。
「枦田くんさ、氷山さんとはどういう仲なの?」
「……ヒヤマさん?」
 僕がその名を思い出すのとほぼ同時に、斉川が口を尖らせた。
「なんだ、そういうんじゃないんだ」
 あからさまに彼女はがっかりしていた。平気で僕の隣に立つ斉川に「彼女も相当では……」と思ったこともあったが、単に僕は眼中にないだけらしい。
「最近よく話してる気がするんだけど」
「話してるというか話しかけられてるというか……俺にもよく分からない」
 あれから何度か寝ているところを叩き起こされたが、別段それ以上のコミュニケーションはない。
「あ! ね、噂をすれば」
「他人を指差すなよ」
 斉川が示す先には確かに氷山がいた。女子の中では頭一つ高い背丈と長いポニーテールは後ろ姿でも見つけやすい。
「どうせなら本人に聞いてみようか」
「え、ちょっと――」
「氷山さん!」
 飛び出そうとする斉川を思わず引き留めてしまった。慌ててその手を放して、もろ手を挙げる。
「ごめん」
「枦田くんが謝るところでもないでしょう」
 我が野球部のマネージャーは男に腕を掴まれたくらい気にも留めない。いや、これも相手が僕だからか。
「そうね。枦田くんの恋路は枦田くんにお任せしましょう」
「全然、そういうんじゃないけど」
「どうかな」
 意味ありげに彼女が笑う。
「なんとなくだけどね、二人お似合いに見えるの」
 訳が分からない。
 少々動揺した僕はまた要らないことを口走ってしまう。
「そっちこそ」
「え?」
「お似合いじゃないか」
 俯く彼女の横顔は見ていられないほど可愛かった。
 斉川綾乃は可愛い。彼女はウチのマドンナだ。
 これはもう僕だけでなく野球部員の総意である。彼女の恋心が部内で一番ポテンシャルの高い男に向いているのは、しかもその男だけが斉川の可愛さに気付いていないのは、複雑ながらも実に都合のいい状況だった。
 時に冷やかし、時にやっかみ、安心して見ていられる。
 けれどもそれは僕らにとって都合がいいだけで、斉川からすれば結構キツイんじゃないかと思ったりもする。
「斉川と坂下が『付き合ってない』こと知ってるの、逆に野球部だけじゃない?」
「ね……みんな何か、勘違いしてるよね」
 名簿順の席次で斉川と坂下もお隣さんになる。部活が同じなら話題には事欠かないし奴は天然のタラシである。二人が「仲良さそうに一緒にいる」現場の目撃者はいくらでもいるわけだ。
「いっそ付き合っちまえばいいのに」
 半ば本気でそう思うのは、時々斉川が見ていられなくなるからだ。
「無理だよ」
「そこまできっぱり言わなくても」
「お互い様でしょう?」
 一足先に地下鉄の階段を下りていった氷山の後ろ姿を、彼女は再び指差した。

 ピピピピッ、ピピピピッ

 目覚まし時計の音を感じるのとその音が消えるのは、いつもながらほぼ同時だった。
「仁、目覚まし掛けないでっていつも言ってるじゃん」
「……その目覚まし止めないでって、俺もいつも言ってるじゃん」
「だって、うるさいんだもん」
 言いながら友ちゃんが布団に潜り込む。
「おやすみ」
「……はい、おやすみ」
 羨ましいと思ってはいけない。
 彼女のライフスタイルを真似たところで、得られるのは学校を休んだ罪悪感だけだ。僕に引きこもりの才能はない。
「仁……」
「何?」
「行ってらっしゃい」
 ニッコリ笑った姉には敵わない。それにこれ以上構っていたらまた遅刻する。
「朝でも昼でもいいけど起きたらちゃんと飯食えよ」
 一応そう声を掛けてから僕は家を出た。
 教室に着くと、氷山の不躾な視線が飛んできた。
「……何?」
「今日は遅刻せずに来られたのね」
「そこまで言いますか」
「何って言うから思ったことを答えたんだけど」
 彼女が表情を曇らせる。
「ごめんなさい。さすがに言い過ぎたかしら?」
「え?」
「お節介なのは自覚してたわ」
「……もしかして、良かれと思って起こしてたわけ?」
「だってあなた、ずっと寝てる割に起きてる時の授業態度は悪くないんだもの。聞く気があるなら起こした方がいいかなって」
 僕が朝起きられないのも日中睡魔に襲われるのも主に宵っ張りの友ちゃんのせいである。が、言い訳したって仕方がない。慢性的に寝不足の人間なんていくらでもいるのだ。
「一つだけ聞いていい?」
「何?」
「最初に起こした時さ、俺のこと『仁』って呼んだじゃん」
「……そうね」
「あれ、何で?」
 坂下みたいにしれっと返されたらと思うと少々怖かったが、ありがたいことに彼女はちょっと気恥ずかしそうな表情を見せた。
「読めなかったの、あなたの名字」
「……ああ」
 確かに僕の名字はちょっと珍しい。
 おまけに「櫨田」と書くのが面倒くさいのでノートにも上履きにも略字で「枦田」と記している。字形が簡単な割に全く読めない自覚はある。
「分からなくてとっさに下の名前が」
「そうきたか」
 そこで名前を呼んでしまう彼女はやっぱり変わっている気もするが、少なくともタチの悪い無自覚ではないだろう。
「で、何て読むの?」
「え?」
「あなたの名前」
「……さすがにもう分かってるだろ?」
「さあ? クラスメイトの名前なんて、さして興味ないもの」
 氷山の言葉は悪戯じみていた。本当に興味がないのならここでわざわざ聞くものか。
「じゃあ仁でいいよ」
 我ながら、彼女のお株を奪うつっけんどんな口調だった。目の前の笑顔が以前ほど冷ややかでないのがせめてもの救いである。
 難読漢字の答え合わせはもう少しお待ち願いたい。

                           〈第一話、了〉

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