見出し画像

『エノナカノ世界』第2回

「瀧、生きてる?」
 物騒な挨拶と共に現れた女性は、女の奈子が見てもきれいな人だった。パーマのかかった長い髪をかきあげ、胸元のあいた黒のワンピースはそのスタイルの良さを強調している。ただ美人だというよりは、色っぽいというか艶めかしいというか……裾から覗ける脚なんてエロいという言葉が相応しい。
「あらオジャマ?」
 女が首を傾げる。むしろ奈子の方がそう言って逃げ出したくなったが、彼女はすぐに奈子から目を離して瀧に詰め寄った。
「あんたまた変なもの拾ってきて」
「変なもの?」
「これよ!」
 そう言って指差したのは煤けた七輪……ではなった。彼女の人差し指はビシッと奈子に向かって伸びていたのである。
「これとは何ですか!」
 溜まらず声を上げると、女はキッと睨みつけてきた。
「だってオジャマな感じじゃないんでしょ?」
「え?」
「それならそれで驚きだわね。で、あんた誰? 何でここにいるわけ?」
 気圧されて奈子が答える。
「えっと、川瀬奈子です」
「名前なんて聞いたってしょうがないの」
 確かにそれは学習済みだ。
「その、瀧さん? が、モデルになってほしいと言ってきて」
「やっぱり瀧が拾ってきたわけじゃない」
 この人たちの認識はそうなのだ。と、奈子は納得できないままに頷いた。
 奈子の降参を受けて話の矛先が替わる。
「瀧!」
「今ので、ほぼ全部だ。俺は奈子を拾った。モデルにしたいと言った。以上」
「モデルねえ。あんたホントに描くの?」
「その気だけど」
「あの、あたしまだ引き受けたわけじゃ……ないんですけど」
 二人の視線を浴びて奈子の反論はずいぶんと弱々しくなってしまった。一人増えても膠着状態は変わらない。
「ちょうどいいや」
 それを最初に放棄したのは瀧だった。
「ゆら、商談は大好きだろ。話まとめといてよ」
「ちょっと、この社会不適合者!」
 出ていく男の背中に、彼女の罵声が虚しく響く。
 美女はユラと名乗った。
「片倉結良、瀧とはきょうだい」
 言われてみれば似ている……とは、ならない。瀧はやや面長で意図的に感情を殺したような目と浅黒い肌が印象的。一方の結良は雪のような白い肌で、丸顔に形よく張り付いた目が明らかに苛立ちを募らせている。
「あの、聞いてもいいですか?」
「何よ?」
 オーバーなくらい頭をかきむしる。揺れる柔らかい髪は瀧のネコっ毛に似ているかもしれない。
「瀧さんって……ホントに画家なんですか?」
「え、そこから?」
 奈子はコクコクと頷いた。だって彼との会話はあまり会話になっていない。
「画家って絵を描いて生活しているあの画家?」
「あんた知らないの? 片倉瀧って言ったらその業界ではけっこう有名なのよ」
 その業界にいない奈子は知らない。でも……彼なら知っていただろうか?
「ホントに?」
「嘘ついてどうすんの? 何、詐欺? どんな詐欺よ? 絵で稼げてなかったらあの男があんたの絵を描いて何の得になるわけ?」
 そんなことあたしが知りたい。と、奈子は思う。信用する根拠が何一つないここまでの流れを疑う根拠が持てたら話は早い。逃げるのみだ。
「で、モデルやるの? やらないの?」
 何が「で」なのか。いまだ自身の置かれた状況が呑み込めない奈子はポカンと結良を見つめるばかりである。
「さっさと決めなさい! 優柔不断は一番損するのよ」
「は、はい」
 相手の勢いに押される形で奈子は首を縦に振っていた。結良が満足げに微笑んだ。

          *

「――え? それ放っておいていいんですか?」
 酔った勢いも相俟って、望月天多は口早に尋ねた。が、問われた結良の方は真顔で首を傾げている。
「何か問題あるかしら?」
「だって……瀧は今、そのモデルの子と一つ屋根の下ってことでしょう?」
 別れた男と同棲していたから行くところがないと言う女の子にモデル代として宿を提供した。その理屈はまあいいとしても――天多としては本当はその点も突っ込みたいが――家に泊めるなら結良が外に出てしまうのはまずいだろう。
 しかし目の前の美女は鼻を鳴らす。
「あれが何かするような男に見える?」
「それは、見えないけど……」
 自身と結良は片倉瀧という男を知っている。が、いきなりモデルを頼まれた女の子はどうだろう。天多は考えずにはいられない。
「結良さん、何で俺と酒飲んでるんですか?」
「あんたが彼女と別れたって泣き言ぬかすからでしょう。まったくどいつもこいつも」
「あ、そっか……すみません」
 そういう状況なら早いとこ帰した方がいいだろうか。でも、結良だって今日は飲みながらこぼしている。
「あの子も垂れ流してくるのよ。失恋話」
「モデルさんですか?」
「そう。自分じゃラブラブだと思い込んでいて『話がある』って言われた時はプロポーズを予測したんだと。それが気付いたら別れ話」
 イタイ。
 けれども天多は笑えなかった。まったく他人事に聞こえなかったのだ。彼もまた、恋人とすれ違ってばかりだ。
「ま、そんな女だから瀧が気に入ったのかもね」
 片倉瀧が気に入った女の子。
「見てみたいな」
「どっち、モデルを? それとも瀧の絵?」
「両方ですけど、どっちか見れば分かります。瀧の絵って対象をそのまま映し出すから」
「……はあ?」
 結良がきょとんとした顔になる。
 やはり絵のことはてんで分からないらしい。彼女にかかればあの精巧な写実画も「へえ、そっくりね」で片付けられてしまう。あとはもう金額に直さないと価値が分からない。
「まったく。瀧はホントにすごい絵を描くんですからね」
 結良は何も言わない。そこで彼はもう一言付け加えた。
「描くときは、すごいんです」
「何なのあいつは?」
 稀代の天才、だと天多は思っている。
 瀧の作風を正統と取るか色物と取るかは意見が分かれるところだろうが、実力があるのは間違いない。
「ずっと不思議なんですけど、結良さんって弟に対して辛辣過ぎません?」
 結良は明らかに不快な表情を見せた。豊かな黒髪にゆさゆさと指を通す。
「あれがまともじゃないんだから、まともに対処する必要はないでしょ。だいたい画家とか作家とか、芸術家なんて呼ばれる奴らは奇跡的に稼ぎがあるだけでニートと同じよ」
「でも実際稼ぎはあるわけだから」
「だからあんたはアマちゃんなのよ。そういうのは自分できちんと描いて、売って、稼いでから言ってちょうだい」
 彼女の言うことも一理ある。何故なら瀧は――
「描けば売れるんですけどね」
「描かない」
 道楽と割り切っているならともかく、絵を生業とするからにはまず描かねば話にならない。作品の売り込みだって仕事の内なのに、まるで姉に任せきりなのだ。
「まあ描く気になったんだからいいじゃないですか?」
「ダメよ!」
 結良はぴしゃりと言った。
「描いてもその絵がちゃんと売れるまでは安心できないんだから。だいたい、あたしがあの社会不適合者の面倒見てやってるのはあいつの絵が高く売れるからよ? あれがホントに稼ぎのないプー太郎だったらのたれ死んでも知ったこっちゃないんだから」
 出た、結良さんの拝金主義。
 そんな天多の心の声を、結良は彼の視線から汲み取ったらしい。
「何よ?」
「気持ちは分かりますけど、そういう扱われ方をするから瀧も描きたくなくなるんじゃないですか? 俺だったら嫌ですもん。絵は売れてナンボなんて考えは」
「そうは言ったってね、生きるのにはお金がかかるの」
「瀧ならかすみを食って生きていけそうな気がする」
「絵の具やキャンバスを買うのにもお金がかかるのよ」
 反論はない。結良は大きく溜め息を吐いた。
「瀧だってね、それくらい分かってるはずなの。美大に入るまではもう少しまともだったんだから。あんなところに行くから頭がおかしくなったのよ!」
「……結良さん」
 それはないじゃないか。
「俺と瀧は美大の同期です」
「そうだったっけ?」
 でなきゃこんな妖艶美女と、男女の関係でもないのに杯なんて交わせない。男女の関係になりたいともなれるとも思っていないけれど。
「俺だって絵で食べてくことを夢見る美大生でした。すぐに現実見る羽目になりましたけど。そっか。瀧は現実を見る必要がなかったんですね」
 自嘲して笑う彼は現在しがない美術教師である。たいして美術に興味を持たない中学生に絵を描かせ、工作をさせ、誰も聞いてくれない美術史の講義をする仕事だ。
「いいじゃない。教師なんて分かりやすく社会に必要な仕事よ」
「なんか嫌味にしか聞こえないんですけど」
「嫌味じゃないわよ」
 きっぱりと断言する結良は意外にも「天多と同じ地方公務員」だと言う。その業種の濁し方から警察官ではないかと天多は邪推している。交通課のお姉さんはメンタルたくましい美女と相場が決まっているのだ。
「あたしはぜひ瀧にも教師になってほしかったわ。よくあれであんたのことアマちゃんとか呼んでるわよね。瀧の方がよっぽどアマちゃんだっつうの」
 名前からして「アマちゃん」と呼ばれるのは仕方ない。天多は素直に負けを認めた。
「結良さんも瀧も間違っちゃいないんですよね」
「……あんた、もしかしていい奴?」
「今頃気付いたんですか?」
 天多がニッと笑って、結良はムッと口をとがらせる。
「やっぱ今の取り消し」
「え、ちょっと待ってくださいよ」
 しかし彼女は待つことなく人差し指を彼の額に突きつける。
「実はあんたが一番信用ならない男なんじゃないかしら」
「そんな――」
 微笑んだ彼女に見つめられて、カッと身体が火照るのを彼は感じた。きっと酒を飲み過ぎたのだ。そうに違いない。
「なこもこういう男に引っかかったんじゃないかしらね。外面はいいけど裏で何考えてるか分からない感じの」
「やめてください!」
 反射的に叫んでから「あれ?」と、眉を寄せる。
「誰が引っかかるんですか?」
「だからなこ、モデルの子」
 その名前は彼の中で「奈子」と変換され、ナナコやナオコよりも珍しい名前と認識される。
「失恋したての奈子ちゃん、ね」
「あたしは絵になれば、というかお金になれば何だっていいんだけど」
 そんな結良の言葉は天多には聞こえていなかった。
「モデルさんには言ったんですか?」
「何を?」
「瀧が描かなくなった理由」
 彼女は首を捻る。
「そんなものあるの?」
 理由かどうかは分からないが、きっかけのようなものがある。彼らがまだ学生だった頃、瀧は大きな絵画コンクールに出典予定の絵を描いていた。その作品が完成間近に何者かによって真っ黒にされてしまったのだ。それもペンキで。
「瀧の反応は飄々としたものだったけど、普通はショックでしょ? あいつ天才肌の変人だから、嫌われるところからは相当嫌われてただろうし」
「ハッ」
 天多の発言を結良は一笑に付した。
「何ですか?」
「いや? あんたも陰では嫌ってそうだなって」
 再び彼の身体が熱くなる。否定しようとするが、言葉は出てこなかった。
「これだからアマちゃんは」
 結良は目を細めた。
「……もしかして結良さん、犯人を知ってるんですか?」
「あんたこそ、知らないの?」
 彼女は意味深に微笑むばかりである。そして天多の頭の中では、当時の瀧の言葉がこだましていた。
 ――犯人なんて……そんなの本人にしか分からないだろ。

                              <続く>

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?