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連作短編『愛とiと』おまけ―後編

「友さんは高校の時、どんな学生でした?」
 ようやく口を開いた坂下くんの質問に、あたしはちょっぴり困ってしまった。
「あたし、高校には行ってないんだけど」
「行ってないの?」
「基本的に人がいっぱいいるところが苦手でさ」
 その年齢ってことだとちょうど仁が小学校に通い始めた頃だろうか。弟の勉強する姿を眺めていたら、学校は好きじゃないけど勉強は面白いかもしれないと気が付いた。埃を被っていた義務教育九年分の教科書を一気に読破して、一通りの知識を身に付けたのがあたしの「高校時代」ということになる。
「どうせ学校なんて行きたい人が行くところでしょ?」
「高校はともかく小中は義務教育なんですけど」
「教育が親の義務で子供の権利が学校に行くことだから、ウチの親は図らずも義務を果たしたわけだね」
 実際にあたしを教育に導いたのは仁だ。父親の古いパソコンをネットに繋いで、高校以降に学ぶ知識や今の仕事を手に入れるきっかけを与えてくれたのも仁だった。
 と、そんなことを話すのに気付いたら二駅分くらい歩いている。
「なんか格好いいな」
「格好いい?」
「俺は親とか教師の言われるまま、お手本みたいな人生を歩んできたから。思考回路が似てるって、さっき言ったばっかなのに」
 坂下くんがちょっと淋しそうに呟いた。
 でも、行動決定には本人の特性だけでなく環境という要因がある。親も学校も違うのだから比較してもあまり意味はないし、何より坂下くんはあたしの生き方を格好いいと感じる思考回路があった。
 ……という言葉を頭の中でまとめるのに、また随分と時間を費やした。坂下くんはじっと待っていてくれる。
「それは、友さんは俺にシンパシーを感じてくれるってこと?」
「分からないよ、そんなの」
 あたしは坂下くんのことを全然知らないのだ。
「さっきも言ったけど俺は結構、親とか教師の言葉を素直に受け取ってきたんだ。でも、額面通りの会話は時々齟齬をきたすこともあるみたいで」
「例えば?」
「好きです」
「え?」
「俺は今、この言葉の意味がさっぱり分からなくて困ってる」
「……好きは、好きじゃなくて?」
 坂下くんが苦笑する。
「友さんは好きな人、いる?」
「仁」
「即答だね」
 だって他にいない。ハッキリ言ってあたしはあまり両親が好きではない。
「友さんの『好き』は俺にも理解できる。でも、それとは別の、俺には理解の及ばない『好き』があるらしい」
「うん?」
「いいね、その反応。ホッとする」
 どんな反応かと言えば、あたしはただ話を聞きながら適当に頷いているだけだ。
「俺には愛がないんだって」
「あい?」
 坂下くんがこっくり頷く。
「そのせいで人を傷付けたから、これはその罰なんだ」
 右耳のピアスを指して彼が言う。
「わざわざ罰してもらったのに、痛みなんてないからさ。自分がどんな人間なのかすぐに忘れてしまう」
「どんな人間なの?」
 すると突然、彼はあたしの手を引いて小さな角を曲がった。途端に辺りがもう暗くなっていることに気付く。
「友さんは見てたじゃない」
「何を?」
「体育倉庫の裏で俺がしてたこと」
 言われて、その時の光景が頭に浮かんだ。
 坂下くんが女の子と――
「友さんが先生に捕まった時の声、俺にも聞こえたから」
「……だったら」
「え?」
「もっと早く助けに来てよ」
 坂下くんがぱちくりと瞬きをする。
「ああ、ごめん。最初は友さんだとは思わなくて、ウチの担任が仁を探している時に気が付いた」
「そっか、残念」
「それだけ?」
 彼の手があたしの肩に触れる。それ以外に何かあっただろうか。
「……あ!」
「ん?」
「愛がないのはね、あたしたちの方だよ」
「え?」
「あたしの名前」
 友は「友愛」という言葉から一字とって友なのだ。同様に仁も「仁愛」から一字とっている。
「多くの人と愛し愛されてほしいってことらしいんだけど、愛をとっちゃったからこんな感じに」
「……そう、なんだ」
 坂下くんがほうと息を吐いた。
「仁にも愛はなかったんだ」
「坂下くんは名前、何ていうの?」
「テツです。初志貫徹の徹」
 前にも名乗りましたけど、とちょっと口を尖らせて言う。
「行きましょうか?」
「待って。やっぱり仁に電話してくれない?」
「ああ、そうですね。俺も正確な場所まで覚えてないし」
 彼が携帯電話を手に取る。通話ボタンを押したところであたしに渡してきた。コール音が鳴る間、ちょっとだけドキドキする。
「もしもし、仁?」
《悪い、坂下。今ちょっと立て込んでて》
「あたしだよ」
《……友ちゃん?》
 仁は電話越しにめちゃくちゃ怒鳴ってきた。
《どこにいるんだよ!》
「分かんない」
《え?》
「それが分かったら苦労しなかった。でも坂下くんと一緒に家に向かっているところだから」
《何で坂下?》
「えっと、迷子になった時に――」
 坂下くんが携帯電話を取り上げる。
「その説明は家に着いてからでいいだろ? それより俺、友さんをどこまで送ればいいかな?」
 仁と坂下くんはウチの最寄り駅で落ち合うことで話を付けて、通話を切った。
「仁ってお姉さんのこと『友ちゃん』って呼んでるの?」
「そうだよ」
「ふうん」
 坂下くんはあまり納得していない顔で頷いた。
「そう言えばさ」
「ん?」
「友愛には確か『兄弟愛』って意味があったよね」
「へ?」
 そう言う彼はきれいな顔で笑っていた。

 結局そこから近くの駅まで歩いて、電車に乗った。だいぶ都心から離れたので座ろうと思えば座れるくらいに空いていた。電車を降りて改札を抜けると、すぐ目の前で仁が待っていた。
「姉貴!」
 第一声は「姉貴」だった。ごく稀にそう呼ばれることがある。
「ホントどこ行ってたんだよ」
「そもそも今日どこへ何しに行ったかについてはこの前――」
「あ、うん。ごめん。そこを聞きたかったんじゃない」
 仁はあたしの言葉を制止して坂下くんの方へ目を向ける。彼はこのまま折り返すつもりなので改札内に残っている。
「姉がお世話になったみたいで」
「いや、こちらこそ楽しかったよ」
「え?」
「友さん、またデートしようね」
 坂下くんはニッコリ笑って、さっと踵を返して階段を下っていった。
「……友ちゃん、デートって何?」
「さあ?」
 可能な限り歩いて帰ることだろうか。
「大丈夫? 何もされてないよな?」
「何もって?」
「……」
 言葉に詰まった仁が方向転換して歩き出す。
「ああ、ここまで送ってくれたよ」
「それだけなら、いいけど」
 仁の後ろをついていく。坂下くんの時より歩きやすいことに気が付いて、それが二人の歩幅――ひいては背丈の違いであると知る。
 坂下くんは、背が高かったな。
「……ねえ仁」
「そうだ、友ちゃん」
「え?」
「外出ついでにケータイ買ったら? そろそろ持ってもいいんじゃないの?」
「……」
「ハッキリ言おう。持っててくれると俺が安心できる」
「……別にいいけど、仁が勝手に買ってくれたっていいんだよ」
「携帯電話には契約書っていう高いハードルがあるんだよ」
 彼がいかに未成年という身分が不自由であるかについて語り始めたのですっかり話すタイミングを失ってしまった。
 だけ、ではなかったかもしれない。
 坂下くんはあたしの手を引いて歩き、あたしの肩に触れた。本当に「それだけ」だったかもしれないけれど「その先」も見ていた通りだとしたら――
「友ちゃん?」
「へ?」
「やっぱり今日は無理せず帰る? 相当歩いたよね?」
「ううん、大丈夫」
 ……言わなくてもいいか。
 それは坂下くんが「やらなかった」ことなのだ。
 初めての小さな秘密にドキドキしながら、あたしは弟の隣を歩いていく。

                              〈了〉

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