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連作短編『愛とiと』5-前編

五、荒木楽

「自分、坂下徹やろ?」
 八月の半ば、部活帰りにその男と居合わせたのは単なる偶然だった。無理に理由を付けるなら、坂下本人ではなくその彼女の家が近かったということになる。
「あ、転校生の――」
「荒木楽や。名前の通り『あら、気楽~』って感じの奴やで」
 鉄板の自己紹介をかますと、彼は実に素直に笑う。なんだか拍子抜けした。
「ようやくウチの四番とご対面やな」
「ウチの……?」
 言われて俺のバットとグローブが目に入ったらしい。坂下は一段声を高くした。
「野球部?」
「そんなに驚くこと?」
「ウチの野球部、笑っちゃうくらい弱いけど大丈夫?」
「……入部の時に全く同じこと言われたわ」
 そう思うなら練習しろよ。なんて、この野球部では誰も言わないらしい。
 俺が転入した朝日野高校野球部は前評判に偽りなしの弱小だ。でも、足りないなりに面白そうな部でもある。これを機に主砲の奪還を目指すのもアリかもしれない。
「坂下、この後ヒマ?」
「え、ああ」
「せやったら茶ぁでもしばこうか」
 大阪の人間が本当にそう言うものか分からないが――少なくとも勉強と野球の二本立ての学校生活では使わなかった――言葉の勢いそのままに俺は坂下を近くのファミレスへ引っ張っていった。

「単刀直入に聞くけど、どうして坂下は部活にけーへんの?」
 ここまで流されるままの坂下は、やってきたアイスコーヒーをじっと見つめている。
「……俺にもよく分からない」
「は?」
「本当に行けないこともあるんだ。俺、美里に呼び出されたら断れないし」
「柚原美里やな」
「知ってるの?」
 アホか、野球部に入ったって言うたばかりやないか!
 そう突っ込んでも良かったのだが、彼があまりに大真面目なので適当に頷いてお茶を濁しておく。
「でも毎回そうだってわけでもないし、綾乃の顔見てるのもつらいし……」
「斉川は多分、大丈夫やで?」
「え?」
「柚原のことはさておき練習には来てほしい言うとったから。できたマネージャーやな」
 彼女がそう望むのであれば、坂下が野球部に復帰するデメリット――例えば、部の雰囲気が悪くなるとか――は最低限に抑えられるだろう。だからこそ俺もこうして彼と話をしている。
「いや、綾乃が良くてもさ……」
 首を傾げ眉を寄せる。そんな仕草がいちいち男前だ。
「楽は好きな女の子っている?」
「何や急に?」
 一瞬、中学時代の氷山新希が頭に浮かんだ。しかし、それが明確なイメージになる前に自ら打ち消しにかかっていた。再会した彼女の視線の先には明らかに別の男がいる。
「急だったかな?」
 アホな顔して考え込む坂下のおかげで助かった。文脈的にはその手の質問でカウンターを食らっても何ら不思議はない。
「美里がさ、俺には愛がないって言うんだ。何だよ愛って? 2乗してマイナス1になる数じゃないのか」
「はい?」
「でもピンと来ていないことが既に俺と美里が噛み合っていないことの証左なのかな、とも思ったり」
「……つまり、坂下が抱えている一番の問題って完全に男と女の話なんか?」
「問題?」
「さっき練習にけーへん理由を自分でもよう分からん言うとったけどな、そこを言語化してできれば解決に向かわせて、最終的に練習に来てくれたらええなと思って俺は話をしてんねん」
「ああ、そっか」
 こいつ、こんなにアホで大丈夫だろうか。
 なんて思ってしまってから、大丈夫ではないことに気付く。勉強ができて運動神経がよくて誰もが羨む男前でも、人間的にポンコツだから問題が起こっている。
「一番の気掛かりが彼女のことで、そのせいで野球どころやないって言われたら、俺はもう話聞くくらいしかできんけど」
 逆に言えば話を聞くことならできる。
 特に坂下の場合、柚原と付き合い出してからチームメイトは敵ばかりなのだ。話を聞いてやる相手が必要なのかもしれない。
「で、柚原が何なん?」
 聞かれて彼は考え考え話し始める。
 それは、身も蓋もない言い方をすれば、坂下が性欲を持て余しているという話だった。
「俺は美里が好きだからそういう気持ちが起こるものだと思うんだけど、彼女に言わせると違うんだって」
「どう違うん?」
「よく分からない」
 一番大事なところじゃないか。
「付き合ってと言ったのも俺にキスをしたのも美里なんだ。それなのに何でその先の合意形成ができないんだろう?」
 好きな女はいるのかという質問にさえ答えられなかった男に、そんな高度な問いを投げないでほしい。
「よう分からんけど、愛情表現の問題やないの?」
「愛情表現?」
「柚原は『愛がない』とまで言うたんやろ? ちゃんと言葉とか行動で好きやって伝えんと、やっぱり女の子としてはその先は不安なんとちゃう?」
 そもそも俺はまだ「その先」に現実味を持てない。見かけによらず前のめりな坂下よりも、意外と慎重派な柚原の方が共感できたりして。
「ちゃんと好きだとか言うてへんのやろ?」
「あ、うん。言ってない」
 頷く前に反省しろ。
「まあ、きちんと合意形成を図ろうとしている辺り坂下はまだまともやとは思うけどな」
「……図らないって選択肢もあるのか?」
「ないわ!」
 慌てて否定する。真顔で怖いこと聞かないでくれ。
「絶対にあかん。そんなことしたら最悪警察に捕まるからな」
「だよな。ビックリした」
 ビックリしたのはこっちである。やはり坂下徹は人間的にポンコツらしい。
「坂下の話は俺が聞いてやるさかい、坂下はちゃんと柚原の話を聞き」
 それでも素直に頷く彼を、斉川が憎めないのも分かる気がする。

                              <続く>

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