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連作短編『愛とiと』おまけ―前編

番外編、枦田友

 辿り着いた先は学校の裏手だった。
 体育館の倉庫の陰で、見知った「顔」を見つけた。ホッとして、嬉しくなって、彼に声を掛けようとしたら別の顔が現れた。こちらは知らない女の子で、二人は何かを話し始めた。自分の足が動かなくなる。
 あたしは仕方なくその一部始終を眺めていた。センセイに声を掛けられるまで――。

「いい加減仁を呼んでよ。それが一番手っ取り早いんだから」
 センセイが冷たい笑顔を浮かべて「お姉さん」と口を開く。
「弟さんは何年何組かご存知ですか?」
「……分かんない」
「学年も?」
「自分の年齢も怪しいのに弟の年なんか覚えてないよ」
 姉というものは弟の学年とクラスを覚えていなければならないのだろうか。だったら「姉」でなくてもいい。そもそもあたしにとって仁は「弟」というより「保護者」だ。
「では住所や電話番号は?」
「……それが分かればあたしだってもう少し別の方法を考えたわ」
 迷子になって初めて気が付いた。住所という意味においても自分の家がどこにあるのか分からないのだ。これでは誰かに話しかけることができたとしても道を尋ねることはできない。
「行き先を間違えないようにすることで精いっぱいで帰り道の心配まで頭が回らなかった。ホント痛恨の極みだわ」
「……何をおっしゃっているんですか?」
 しかし途方に暮れていたあたしに奇跡は起こった。見覚えのあるもの、弟と同じ制服を着ている人と遭遇したのだ。背に腹は代えられない。あたしはその男の子から半ば強引にこの学校の情報を聞き出した。
「ええ、確かにウチの生徒から『怪しい女の人に学校のことを聞かれた』と連絡がありました。だから見回りをしていたんです」
「え、そんなことわざわざ学校に報告したの? あの男の子大丈夫かな?」
「他人の心配している場合ですか」
「だったら早く仁を呼んでよ」
 そうでもしない限り、あたしは家に帰れないのだ。
「せめてご自身の身元を証明して頂けませんか」
「え?」
 センセイはものすごく苦い表情を隠すことなく言った。
「ハッキリ言ってここまでの話には何の信憑性もありません」
「……何で?」
「何でって、二十歳を過ぎた大人に迷子になったと言われても困ります」
「困っているのはあたしなんだけど。それに方向音痴の人なんていっぱいいるでしょう」
「自分の住所が分からない人はいません」
「とっさに出てこない人は意外といると思うけどな」
「そういう問題ではありません」
 うん、あたしもそういう問題じゃないと思う。
「確認なら仁に取ってもらえばいいじゃない」
 至極真っ当な主張にセンセイが溜め息を吐く。
「実は我々もこのままでは埒が明かないと思い、先程当該生徒の担任にあなたの話をしました」
「なら――」
「本人はとっくに帰っていました」
「……はあ?」
 センセイは悪びれることなく言った。
「もう下校時刻は過ぎていますからね」
「え、じゃああたしはどうやって帰ればいいの?」
「とにかく、あなたが彼の姉であることを証明できないのであれば、お引き取り頂くか警察に相談するしかありません」
「お引き取り頂くって、そもそもあなたがあたしを引き留めたんじゃない」
 学校に着いてすぐに校内を探せば仁が見つかったかもしれないのに。あたしが途方に暮れたその時――
 職員室のドアが開いた。
「あ、やっぱり友さんだ」
 入ってきた男の子の顔には見覚えがある。
「サカシタくん、どうしたの?」
「……そうだ、坂下くんだ!」
 弟が勉強会を開くたびウチに連れて来たお友達、確かにそんなような名前だった。
「仁のお姉さんが職員室で暴れてるって聞いたもんで」
「あ、暴れてなんかないよ」
「そうでしょうね」
 坂下くんがにっこり微笑むと、さっきから話の噛み合わなかったセンセイも、周りでちらちらと冷ややかな視線を送っていたオトナたちも手のひらを返した。
「じゃあ枦田くんのお姉さんで間違いないのね?」
「はい。あ、仁には俺から連絡入れときましょうか?」
「助かるわ」
 なんて、あっさり釈放されたのである。

 仁と坂下くんのクラスは二年A組だそうだ。せっかく教えてもらったけれど、あと数ヶ月もすれば変わってしまうであろう情報に興味が持てない。
「友さん、ケータイ持ってないんですか?」
「え?」
「そうか。持ってたらさっさと仁に連絡してますね」
 聞くまでもなかった、と坂下くんが一人納得する。
「家で仕事していると必要ないものですか?」
「うん、基本パソコンしか使わないね」
 今の今まで携帯電話の必要性を感じたことはなかった。
 坂下くんがじっと自身の携帯電話を見つめている。黒い無機質なそれを、彼は使うことなくポケットに押し込んだ。
「どうしたの?」
「友さんは家に帰れれば特に問題ないんですよね?」
「そうだけど」
「じゃあ、ちょっと俺と寄り道しません?」
「……どこに?」
 坂下くんは一瞬だけ考えて答えを出した。
「思い付きそうにないんで、とりあえず歩いて帰りましょうか。行けるところまで」
「それができるならそのつもりだけど」
 もともと電車はあまり好きではない。特にこれから、ラッシュアワーだっけ? 人込みなんてまっぴらだ。
「なるほど。じゃあ行きましょう」
 坂下くんが歩き出したのでついていく。
「……友さんってたぶん今、俺のこと百パーセント信用してますよね」
「へ?」
「仁に連絡するって言ったのにしてないし、迷子ならどこに向かっているか分からないわけでしょう?」
「うん、今は坂下くんだけが頼りだね」
 すると何故か彼は笑い出した。
「いいな、それ。分かりやすくて」
「分かりやすい?」
「いや、たぶん友さんって俺と思考回路が似ています」
「そうなの?」
「そんな気がします」
 よく分からないけれど、笑っているのだからそれで悪い気はしないのだろう。
 程なくして大きな通りに出た。これが地下鉄と並行して走っている道であり、しばらくは辿って行けば問題ないと言う。
「他に何か気になることとかあります?」
「え?」
「これから長い散歩になるので、何か話題があればと思って」
「そう言われると、職員室で会った時から気になってたんだけど」
 こちらを向いた坂下くんに対して、あたしは自分の右耳を指差した。
「痛くないの?」
「はい?」
「ピアス」
 以前ウチで見かけた時は気にならなかったから、きっと最近空けたものだろう。
「残念ながら、痛くないんです」
「……残念なの?」
「そうですね。できればずっと痛みを引きずっていたかった」
「どうして?」
「……バツだから、かな?」
「ばつ?」
「はい。それに俺、初めてピアスして登校した時に怒られるより先に心配されちゃって……それがすごく、嫌だった」
 それだけ言って坂下くんは口を閉ざした。
「話題にならなかった?」
「そんなことは。ただ、きちんと説明するのは難しいなって考えてました」
「そっか」
 彼の頭の中で次の言葉が生まれるまで、あたしたちはずっと黙って歩いていた。

                              <続く>

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