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『エノナカノ世界』第4回

 片倉結良は周囲に誰もいないことを確認すると、そっとアトリエに足を踏み入れた。電灯を点けるわけにもいかないのでケータイ電話のライトを頼りに歩を進める。部屋の隅に置かれたキャンバスを見つけると、躊躇うことなく覗き込んだ。
 そこには奈子がいた。
 もちろん絵である。結良が素人なりに絵を評価しようとする人間であれば「今にも動き出しそうな」とか「息遣いが聞こえてくるような」といった紋切り型でそのリアルを称え、安っぽい言葉で芸術を語ってしまったかもしれない。しかし彼女はキャンバスの中に完成間近の奈子がいるだけで十分だった。その価値を決めるのは別の人間でいい。
 結良は満足して踵を返し、その場から立ち去ろうとした。だがしかし――
 カチッと音がして照明が光を放つ。彼女はまぶしさに一瞬目を瞑り、再び開くと、そこにはいかれた弟の姿があった。
「何してるの?」
 はっきりと怒りの色が見える。普段は感情を見せないだけに、それは滑稽だと結良は思った。
「なんだか日記見られた女子高生みたいね」
「日記を見られた女子高生って――」
「まず怒る。対して意味もなく怒る。ピッタリの比喩でしょう?」
 だが、結良が笑っていられるのもそこまでだった。瀧は結良の腕をつかんで力任せに引っ張った。彼女は短い悲鳴を上げ、前につんのめる。入れ替わるように前に出た瀧を振り返って見上げると、彼はイーゼルごとキャンバスをなぎ倒していた。
「ちょっと」
 結良は慌ててキャンバスを拾い上げる。傷でも付いたら値段に響くかもしれない。
「何するの!」
 日記を見られた女子高生は、衝動的にそれを破り捨てることがあるだろうか?
「別に結良が描いたんじゃないんだから、そんな心配することもないだろ」
「あんたが心配しないからでしょうが」
「だからって結良にされる義理は」
「残念ながらあるの」
 結良は倒れたイーゼルを起こして、キャンバスを戻した。絵の中の奈子は何事もなかったようにそこにいる。
 瀧は黙ってその様子を見ていた。
「瀧、完成したらちゃんとあたしに言いなさいよ」
「……それって、この絵を売るため?」
 当然だ。
「言っとくけど、あたしが同居して面倒見てあげてるのは姉弟の情とかじゃないのよ」
 瀧の労働とも呼べない労働を稼ぎに換えるには姉の力が必要だったし、結良にしたって画材の他に金の使い道がない弟の収入を考えれば天秤は彼の方へ傾く。結局のところ、二人の関係はお金でつながっている。
 ただしそれは、瀧が絵を描いているという前提があってのことだ。
「この絵はいくらになるかしらね?」
「……奈子に、値段が付くのか」
 彼のその呟きに結良は初めて興味を引いた。
 曲がりなりにも瀧が自分で連れてきたモデルの彼女は、ようやく新居を見つけて出ていったばかりだ。完成したら見せてくださいと言い残して。
「あの子のこと、だいぶ気に入ったみたいね。好きなの?」
「気に入ったから拾ってきたんだ」
「それは被写体としてでしょう。女としてはどうなの?」
 瀧が虚を突かれた表情をする。
「ウソ。ヤダ。あんたでもそんな顔するんだ」
「……どんな顔?」
 改めて聞かれると答えに困るが、悪い顔ではなかった。珍しく好意的に見える顔だった。
「ふうん。あんたが惚れた女なら、こっちも気合入れて値段を吊り上げようじゃないの」
「何で?」
 無表情に戻った瀧が尋ねる。今度は結良が虚を突かれた。
「何でって、そういうことじゃないの? あの子に値段が付くのなら高い方がいいでしょう」
「……別に」
 彼女の口から溜め息が漏れる。
 ああ、結局この男は絵描きなのだ。お金の価値が分からない。
「もういいわ。とにかくあんたは描きなさい。まともに働く気がないのならせめてその手で稼いでちょうだい」
 反応の薄い瀧を結良はキャンバスの前に立たせる。
「ちゃんと描くのよね? もうすぐ完成するのよね?」
「……」
「瀧!」
 詰問に対して、瀧はやや間を置いて頷く。
「じゃ、文句はないわ」
 結良はアトリエを後にした。
 残された瀧はじっとキャンバスを見つめる。
 あの日の、出会った時そのままの奈子がここにいる。結良は瀧の絵に感想を持たないが、意外にもそれは、彼にとってありがたいことだった。瀧はキャンバスに奈子を描いた。それ以上でも以下でもないのだから。けれども。
 ――好きなの?
 そんな感情、とっくの昔に忘れたはずだ。描けば描くほど自分自身が空っぽになっていって、だからこそ何ものにも惑わされずにキャンバスに向かうことができたのではなかったか。そんな自分が彼女のことを好きだなんて、そんなこと――
「あれ?」
 キャンバスの奈子が歪んでいた。

          *

 川瀬奈子の携帯に着信が入った頃、彼女は望月天多を元彼だと断言できるようになっていた。
《ちょっと話があるんだけど》
「何? 荷物なら勝手に捨てちゃっていいよ」
 なんて言っても無理だろうな。天多はいい人だから、思い出とか以前に他人のものを捨てる事が出来ない。
《そうじゃなくて》
「じゃあ何? まさかヨリを戻したいとか、考えているんじゃないでしょうね」
《いや、そういうことでもなくて》
 天多の言葉はどうも歯切れが悪い。
「突然何なの? そっちが一方的に突き放したくせに」
《それは俺も悪かったって思ってる……いや、違うんだそういう話をしようとしたわけじゃなくて》
「そういう話はどうでもいいと?」
《そうじゃない!》
「じゃあ何なの!」
《ああもうだから別れようって言ったんだ!》
 ハッと息をつく音が受話器から漏れ、天多はしばらく黙り込んでいた。
「ごめん。あたしこういうとこが重かったわけね」
 埒があかないので奈子は自分から謝った。特に悪いとも重いとも思っていないけれど。
《ホントごめん。俺……奈子のこと好きなんだ。今だって》
「え?」
《急にごめん。でも今しかタイミングがないと思って。俺、本気で奈子に惚れてるんだ》
「じゃあなんで……?」
《うだうだ考えちまう俺が悪いんだ。なんて言うか……怖くなったんだ。今の生活が幸せすぎて、不幸になるのが。奈子のこと好きすぎて疑い始めるのが。正直、奈子のこと少し重いって思ったのも事実だし……奈子のこと、好きすぎて嫌いになりそうだったから、嫌いになる前に別れたいって思ったんだ》
「そんなこと」
《バカだよな。結果的に、すごく傷つけてしまって……ホントに申し訳ないと思ってる》
 気遣い屋が安らげないのは本人の性格の問題だ、なんて今更謝られても困る。
《話は全くの別件なんだ。聞いてくれるか?》
「別件?」
《……片倉瀧って画家、知ってるよな。モデル頼まれたんだろ?》
「え?」
《あいつ、美大の同期なんだ。それで姉の結良さんとは飲み友達みたいなもん》
「そんな偶然」
《俺も驚いたよ。あいつ変人で胡散臭いけど……本当に才能があったんだ。感受性が強くて、それを表現する技術もピカイチで、美大の中でも一握りの天才だった》
「た?」
 天多は過去形でもって話している。
《今は違うってわけじゃなくて、どうだろうな。実際のところよく分からないんだ。しばらく見てないから。あいつのアトリエ、絵が一枚もないだろ?》
「うん」
《真っ黒になったんだ、売れなかった絵は全部。あいつの手元には一枚も残っちゃいない。学生時代からもうずっとそうなんだ》
 どういうこと?
《今だって奈子の絵が危ないかもしれない。もうすぐ完成だって言ってたから》
「え?」
《奈子、こんなこと言えた義理じゃないのはわかってるんだけど》
 天多は本当にずいぶんなお願いをした。
《瀧のこと、救ってやってくれないか?》

                              <続く>

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