見出し画像

『エノナカノ世界』第1回

 名前を呼ばれた気がして彼女は振り返った。
「なあに?」
 最愛の男を前に微笑む。彼はうつむきがちに、けれどもはっきりとした声で話があると言った。大事な内容であることは火を見るよりも明らかだ。
 ついにこの時が来たのか。きっと彼はポケットから指輪の入った小箱を取り出すに違いない。
 夢見る彼女に彼は世界の終わりを告げる。

          *

 ぼんやりとした意識の中で川瀬奈子は天井を見つめていた。
 薄汚れた天井と様々な色で汚れた壁に見覚えはないが、鼻をつくこのにおいは知っている。
 絵の具のにおい――彼の匂いだ。
 彼女は恋人の気配を求めて起き上がろうとして、激しい頭痛に襲われた。
「うっ」
 しかしおかげで目が覚めた。
「ここ……どこ?」
 左手で側頭葉を押さえながら、ゆっくりと起き上がる。絵の具まみれの部屋はどこかのアトリエのようで、カラフルに染まった家具からはみ出した画材やガラクタが至る所に転がっている。奈子が眠っていたのは硬いソファの上だった。
「え?」
 奈子は視界に胡坐をかいた男の背中をとらえた。ひどくクセのついた黒髪の彼は、これまた元の色が分からないような塗料まみれの服を着ている。この部屋同様、見覚えはない。
 奈子はそろそろと男に近づく。その手元を覗き込んで……彼女はぎょっとした。
「わ!」
「ああ、おはよう」
 男はたった今奈子に気づいたかのように挨拶する。その声は低く澄んでいるものの、抑揚が足りない。
「おはようで合ってるのかな? 今何時?」
 ずいぶんと呑気な質問である。が、おかげで奈子は硬直を解くことが出来た。ぎこちなく腕時計をのぞき込み、
「一時十七分」
 と答える。尋ねておいて男は興味なさそうに呟いた。
「そっか、やっぱり昼過ぎてたか」
「あの、あなた誰?」
 奈子の問いかけに何故か男は首を傾げた。そして三秒後、理解したとばかりに手を叩いて立ち上がる。
「確かに俺はあんたの名前を聞いていない。なんて言うんだ?」
「え?」
「名前だよ」
 奈子は目を白黒させてとっさに出てきた言葉を口にする。
「人に名前を聞くときは」
「自分から名乗るんだろ。あんたが先に聞いたんだ」
「……ああ」
 言われてみればそうである。
「川瀬奈子、です」
「なこ?」
「はい」
「そう」
 え、それだけ? 拍子抜けすると同時に更なる言葉が飛んできた。
「たき」
「え?」
「俺の名前、片倉瀧」
「……そうですか」
「ほら」
 彼は、片倉瀧はニッと笑った。
「名前なんか聞いたって『そう』としか言えない」
「ですね」
 奈子もつられて愛想笑いを浮かべるが、彼女は名前だけ聞いて納得できる状況になかった。
「で、あなた誰なんですか?」
「誰って言われても」
 瀧は名前以外の答えを用意していない様だった。仕方がない、聞きたくもない質問をしよう。
「あの……何してるんですか?」
「今現在は奈子と会話している」
「まあそうなんですけど」
 少し、いやだいぶ、彼は頭がおかしいのかもしれない。でなければ「こんなこと」はしない。奈子は足元に視線を向けた。先程まで彼が向き合っていた「あるもの」に彼女は怯えたのである。実際の使用例など見たことないがそれは――七輪と練炭。
 本当は今すぐにでも逃げ出したい。だがそのためには頭のいかれた男の脇を強行突破しなければならない。確認できる唯一の出口は彼の向こう側にあり、絵の具のにおいが充満しているということは換気もなされていない「おあつらえむき」の状態である。
 文字通り頭を抱えている彼女に瀧は尋ねた。
「頭痛がひどい?」
 それもある。原因に覚えがあるのかと奈子は身を固くするが、彼は事もなげに言った。
「二日酔いって大変そうだな」
「はい?」
「あーなるほど。覚えてないと」
 奈子は記憶の糸を辿る。
 そうだ、昨夜は確かに酒を飲んだ。彼氏に突然の別れを切り出され、人生初のヤケ酒に手を出したのである。
「あんた、この世の終わりみたいなツラしてたもんな」
 瀧はいやに嬉しそうだった。声音もわずかに抑揚が広がる。
「あの状態の奈子を拾ったことに関しては、保護してくれたと感謝されてもいいくらいだ」
「拾った……?」
「そう、あんたは俺の拾得物」
「拾得物?」
 いったいどんな状態だったのか、どうしたってこんな危機的状況に陥ってしまったのだ?
「お、落ち着いて聞いて下さい」
「落ち着くのはあんただよ」
「あたしは、あなたと心中する気ないですから」
「ほう?」
 実際、瀧は落ち着いた様子で続きを促す。
「確かに失恋して失意のどん底だったのは認めます。でも、あたしはまだ死にたくありません。あなたも、生きていればいいことあると思います」
「そうか、彼氏と心中はあきらめたか」
「……」
 奈子は絶句する。酒の力でとんでもないことを口走ってしまったようだ。こうなると瀧の表情が読めないのが恐ろしい。
「俺が誰かって、最初聞いたな?」
「あ、はい」
「当ててみる?」
「え?」
「シゴト、見てわかる?」
 戸惑いながらも奈子は頭を働かせる。まったく状況はつかめないままだが、ここは確かにアトリエである。
「……芸術関係?」
「具体的には?」
 目についたのは白いキャンバスとイーゼル、そして絵の具のにおい。瀧の服も絵の具まみれである。
「画家とか?」
「に、見える?」
 奈子は頷いた。見えるか見えないかはこの際どうでもいい。
 瀧は足元の炭の塊を一つ手に取ってみせた。思ったよりも小ぶりで細長い。
「これ、お絵かき用の黒炭。分かる?」
 分かる。奈子はホッと溜め息をついた。
 よく見ればスケッチの残骸のような黒く塗りつぶされた紙も散らばっているではないか。それにこの七輪、既に煤で汚れているから喫緊で購入されたわけでもないだろう。この部屋には美術室にありそうな石膏像からただの空き缶までありとあらゆるガラクタが揃っている。別に七輪くらい……。
「そうそう、これも拾ってきたんだ」
 拾ってきた?
 奈子は再びハッとする。
「拾ったとか拾得物とか何考えてるんですか! 見ず知らずの女の子連れ帰るとか正気ですか?」
「さあ?」
 しれっと瀧は答えた。さあ、だって?
「まさか何か下心」
「下心か。あるよ」
 瀧の発言に奈子はゾッと身をすくませる。
 大丈夫、服は着ているし腕時計までそのままだった。酔っていた時の記憶はないけれど、何かあったとは思えない。
 瀧の視線がじっとりと奈子を這う。思わず身体が震えた。
「いや……」
 しかし、瀧の口から出てきた言葉は警戒中の奈子には予想外であった。
「あんたの肖像権が欲しい」
「……は?」
「まあ、要するにモデルかな?」
 もでる?
 キョトンと瀧を見つめる。瀧の方もそれ以上説明するでもなく、初めから変わらぬ感情の薄い顔で奈子を見つめている。
 バタン。
 その膠着状態を破ったのは第三者の闖入だった。

                              <続く>

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?