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連作短編『愛とiと』2-前編

二、坂下徹

 部活をやっている生徒も帰り始める午後六時過ぎ、二年A組の教室の明かりはいまだ煌々と光っていた。一瞬「あれ?」と思ったが、俺が足を踏み入れるとその謎はすぐに解ける。
「あ、来た来た。遅ーい」
 彼女は俺の隣の席、つまり綾乃の机に座って退屈そうに足をブラブラさせていた。
「これ、取りに来たんでしょ?」
 手にしていたのは俺のケータイ。以前「お土産」と言って綾乃がくれたストラップがぶら下がっている。
「すぐ戻ってくるかなって待ってたんだけど、まさか部活の時間丸々待たされるとはね」
「あ、ごめん。ありがとう」
 俺が受け取ろうとすると、彼女はそれを阻止する形でひょいと手を上げた。その不可解な行動に、俺は困って相手を見つめるばかりである。
「ねえ、斉川さんとは何でもないってホント?」
「……え?」
「斉川さんとは何でもないってホント?」
「綾乃が何……?」
「分かってるくせに」
 いや、何のことかさっぱり――
「斉川綾乃はただの野球部のマネージャー、ってことでオーケー?」
「はあ?」
「あ、もういいわ」
 彼女は行き場を失っていた俺の右手にケータイを握らせた。
「付き合ってくれない?」

「なあ、一体アイって何なんだ……?」
 枦田仁がこの世の終わりみたいな顔して聞いてくる。そんなテンションでする質問じゃない。
「2乗するとマイナス1になる数」
「そうやっていつも女を煙に巻いているわけだ」
「……何言ってんの?」
「だって坂下はコイって言ったらコイ科の淡水魚を思い浮かべる男だろう」
「だから?」
「一体いつになったら自覚するんだ?」
 脱線した会話を続ける彼は掌でシャーペンを弄んでいた。
「自覚がないのは仁の方だろ」
「は?」
「このままじゃ赤点だぞ。iの話はどこへ行った?」
 試験前になって虚数が分からないと泣きついてきたのは仁だ。授業中はぐうすか寝てるくせに危機感を抱いて勉強会を開くというのは何だか矛盾している気がする。
「2乗するとマイナス1になる数って言われてもなあ」
 仁がテーブルに頬杖を突く。
「そんなもの実在しないんだろう?」
「実在しないから虚数なんだよ」
 複素数の計算方法ならまだ説明できるが、定義については「そう決まっている」としか言えない。だから無理にでも納得してもらうしかない。
「仁、お腹空いた」
「……え?」
 突然の声に振り返るとそこには女性が立っていた。
「ゆ……あ、姉貴」
「あねき?」
 そうだ、仁のお姉さん。枦田家で勉強会を開くと度々見かける顔である。彼女の方も覚えがあるようで俺の顔を見て「あ」と声を漏らした。
「前にも見たことある。えっと――」
「坂下徹です」
「そうそう、坂下くんだ」
「姉貴、今勉強中だからちょっと待って」
「分かった」
 友さんがのそのそと仁の隣に座る。
「……待ってって言ったよね」
「うん」
 随分と圧の強い待ち方である。
「あ、複素数の勉強?」
 仁の教科書を引き寄せて彼女が言う。結果的には待てていない。
「あたしガウス平面に感動したんだ」
「ガウス平面?」
「うん」
 パラパラとページをめくっていた彼女の手が止まる。
「あれ? ない、ガウス平面が」
 そして助けを求めるように仁を見た。
 更に仁がこちらを見る。
「いやいや、俺も知らないから」
「何でだろう? ゆとり教育かな?」
 再びパラパラし始めた手元から、仁が教科書を取り上げる。
「ごめん、やっぱり部屋で待っててくれない?」
 あからさまに「部屋」を強調しつつ、扉の方を指差して言う。
「うん、分かった」
 入ってきた時と同じようにのそのそ歩いて彼女が出ていく。何だこの数十秒間のやりとりは?
「……あの人って何者?」
「枦田友、俺の姉貴」
「それは分かるけど」
「パソコン一台で大金を稼ぐ働く引きこもり。だから放っとくとすぐに昼夜逆転して、変な時間に起き出してお腹空いたとか言い出すんだよ」
 俺が気になったのは「そこ」だったろうか。よく分からなくなってしまった。
「いいや、虚数に戻ろう」
「それがいい」
 というわけで演習問題に取り掛かる。個人的にはxがiになった方程式と大差ないと思うのだが、仁はその小さな違い――簡単に言うと積の符号――に何度も引っ掛かる。
「何で答えがマイナスなんだ?」
「今iを2乗したじゃないか」
 悪戦苦闘する仁に付き合うのが俺は意外と好きだ。何故って、こんなふうに努力することが俺には絶対にできないから。
 いわゆる器用貧乏って奴だろう。
 昔から勉強もスポーツも要領よくこなせていたが、別に得意ってわけでもなかった。だから難関私立なんて目指すこともなく公立高校で優等生に落ち着いたし、弱小野球部で四番を打っている。
 努力はしない。できない。
 頑張って失敗することが実は怖くてたまらないのだ。
「仁は頑張るよなあ……」
「何?」
「ここ、間違ってる」
 仁はきっと「やればできる」って言葉を信じている。できる保証なんかどこにもないのに。
「……違うか」
「え、また間違えた?」
「いや……お前さ、ちゃんとやればできるんだから、もう少し真面目に授業聞けよな」
 仁は、都立の上級校に合格するくらいには成功体験を積み重ねている。それを「器用にこなしただけ」だと思っている俺の方がひねているのだ。きっと。
「坂下」
「何?」
「ケータイ鳴ってる」
 鞄の中の振動音に気付いたのは仁の方が先だった。取り出してみると、少し意外な相手からの電話であった。
「もしもし?」
《徹、今何してる?》
「何って試験勉強」
《え? 徹ってめっちゃ頭いいじゃん。まだ勉強するの?》
「……どっちかと言うと教える側?」
《ああなるほど。ね、あたしの試験勉強にも付き合ってよ》
「いいけど」
《ホント? じゃ、また明日》
「明日?」
《時間とか後でメールするから》
「え、ちょっと――」
 一方的に、電話が切れる。
「誰?」
「美里」
「……だれ?」
 まったく、五月も終わるというのにこの男はまだクラスメイトの名前が覚えられないのか。
「同じクラスの柚原美里」
「……え?」
 仁がまじまじと俺を見つめる。
「柚原って、あの?」
「だからクラスメイトの」
「何で?」
「なんか勉強教えてほしいって」
「いやいや、何でそれを柚原が坂下に頼むわけ?」
「……勉強ができるから?」
 そんなこと俺に言わせないでくれ。
「いやでも柚原――」
「あのさ、彼女が電話してきた理由なんて結局のところ彼女にしか分かんないんだよ」
 仁がまた、じっと俺を見つめる。
「じゃあ、何で柚原が坂下の連絡先を知ってるの?」
 それなら先日、忘れ物のケータイを届けてくれたからだ。放課後ずっと自分を待っていた相手の帰り道くらい付き合うのが礼儀だし、連絡先を聞かれたら断る理由がない。
「付き合って、ねえ……」
 仁の表情が虚数と向き合っていた時と同じくらい、険しいものになっている。
「なんか坂下の真骨頂を見たわ」
「は?」
「まあ、お前のことだからあんまり心配はしないけどさ」
 彼は何故か少し怒ったように俺を睨んだ。
「斉川には言うなよ」

                              <続く>

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