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『エノナカノ世界』第3回

 条件交渉することもなくモデルを引き受けてしまったことを奈子は後悔していた。結良は奈子を頷かせてから物を言う。
『あいつ頭おかしいから気をつけなさいね。裸婦画を描くなんて言い出したらさっさと逃げてもいいわよ』
 笑顔で話せる神経が分からない。お金の代わりに寝床を提供されたことも、何だか囲い込まれた気がする。しかし瀧は何も言ってこない。不安が一周まわったところで、奈子はアトリエを訪ねた。
「何か用?」
「何って、モデルはいいの?」
 彼は相変わらずの無表情で首を傾げた。
「言わなかった?」
「何を?」
「モデルは『要するに』だ。俺は肖像権が欲しいのであって、目の前に立ってもらう必要はない」
 それはちょっと、要しすぎではないだろうか。
 とにもかくにも奈子は自分が自由の身であることを知った。
「もう描き始めてるの?」
 聞くと瀧は視線を巡らせる。それを追いかけるとイーゼルに乗ったキャンバス、散乱した絵の具のチューブ、汚れてはいるが現役に違いないパレットと絵筆などが奈子の目に飛び込んできた。ただしキャンバスは後ろ向きで、何が描いてあるのかは分からない。
「見てもいい?」
「ダメ」
 珍しく、はっきりとした拒絶が返ってくる。
「どうして?」
「奈子にはそれ見て俺に感想を漏らさない自信があるか? 黙ってるだけじゃなく表情にも出さない」
「……ないかな」
「だろ? だから描きかけはダメ」
「じゃあ、完成したのは? 他の作品とか」
「奈子にはここに俺の作品があるように見えるか?」
 描きかけのそれ以外にキャンバスは見当たらない。
「じゃあ無いんだろうな」
「どうして?」
「世界が壊れたから」
 奈子はキョトンと瀧を見つめた。彼はニッと胡散臭く笑う。
「結良が片っ端から売り飛ばしちまうんだ。俺の手元に置いといても、それはただのゴミになるだけだって」
「ゴミって」
「でもきっと正しいんだ。だって結良はちゃんと買い手を見つけてくる。俺にはできないことだ」
 絵を描いて生活している、とは絵を売るということ。確かにそうだ。
「瀧さんってどんな絵描くの?」
「どんな絵描くと思う?」
「うーん、なんかこう……抽象画?」
 捻り出してみたのだが、瀧は笑うばかりである。
「何よ?」
「傍から見たら何が描かれているのか分からないような抽象画に、肖像権だなんだって後から言われることはないだろう。俺が描くのは誰がどう見ても奈子の絵さ」
 言われてみればそうかもしれない。
「意外?」
「まあ」
「俺も不思議なんだ」
 彼はキャンバスを、アトリエを、それから奈子を見つめた。
「……俺って頭おかしいのかな?」
「はい?」
「よく言われるんだ。芸術家っていうのは他の人とは考え方がちょっと違うくらいが丁度いい。君は頭がおかしいんじゃない、君は個性が強いんだと」
 伸び放題のクセッ毛を放置し何色だかわからないジーンズをはいて絵筆を走らせる姿は普通とは言えない。しかし、絵筆を走らせている限りはおかしくないとも確かに奈子は思う。
「でも俺の作風は目の前のものをそのままキャンバスに閉じ込めていく写実画だ。余計なものは何一つ描かない。ということは、俺の絵のいったいどこに個性が必要なんだ?」
 そんなこと、彼女に答えられるわけがない。
「絵を描くっていうのは目に映る世界をキャンバスに閉じ込めることだろう? ありのままの姿をありのままに描く。そこに俺は存在しない。必要ない。何故って……ほら、カメラだ。カメラがカメラ本体の写真を撮ることはないし、大抵の被写体はカメラを意識するとダメになる。それと同じような理屈だな」
 瀧が一人で頷く。そしてニッと歯を見せた。
「まあ、そういうわけだから俺は裸婦画なんて描かない」
「へ?」
 奈子の身体から一気に力が抜け落ちた。今までの芸術論が全て前振りだった気さえする。結良のタチの悪い冗談を、冗談だと処理するための。
 少し余裕の出てきた彼女は、あることを申し出た。
「ねえ、描いてるとこ見ちゃダメ?」
 瀧は眉をひそめた。明らかに嫌そうだ。
「絵の方は見ないから。ね?」
 奈子がモデルを引き受けた、というかアトリエにやってきた理由の一つはそこにあった。彼女はどうしても彼が絵を描くところを見たかったのである。もしかしたら酔った彼女が瀧についていったのも彼が画家だったからかもしれない。
「じゃあ、瀧さんが描いてる間あたしはずっとこっちのソファに座ってる。ほら、ちょうど画家とモデルの位置関係でしょ? 瀧さんがキャンバスをしまうまでちゃんとソファにいるから」
「……それなら、まあ」
 奈子は顔をほころばせた。
 キャンバスに向かう瀧は先程までと違う表情を見せた。やはり描いている時は真剣そのものである。冷静にじっとキャンバスを見つめ、ゆったりと筆を動かす。モデルが目の前にいなくても良いと言うだけあって、その手に迷いはない。
 奈子はそんな画家の姿に見惚れていた。否、瀧にではなく男が絵を描く行為に見惚れていたのである。
「――で、なんで泣いてるの?」
「え?」
 気付くと奈子は涙を流していた。
「ごめんなさい、何でもないの」
「何でもない奴が泣くのか?」
 泣くわけがない。隠しておく必要もないかと奈子は白状した。
「天多を思い出していたの」
「あまた?」
「彼氏っていうか、元彼になっちゃうのか。その人、実は美術の先生なんだ。だから、瀧さんと最初にあったときから色々と思うところがあって」
「天多、美術教師……」
「もういいの。いつまでもそんなこと言ってたって――」
「そいつの絵、見たことある?」
 奈子は頷いた。鉛筆デッサンで自分の絵を描いてもらったこともある。何度も何度も柔らかくなぞるような描き方をする。昔描いたという絵は淡い色遣いの優しい雰囲気がする絵だった。彼の人の良さが表れたものかもしれない。
「すごくいい人なの。優しくて気遣い屋なの。だからその分あたしも尽くしてたっていうか」
 同棲していた頃は家事も全部引き受けて彼の面倒をみていた。もちろん好きでやっていたのだ。それが裏目に出た。
「重いんだって」
 別れを切り出した時でさえ、彼は奈子を気遣うそぶりを見せた。最後まで天多は自分と一緒にいて安らぐことはなかったのだ。そう思ったら悲しくて悔しくて家を飛び出した。そしてお酒に逃げたのである。
 ポン、と何かが奈子の頭上に置かれた。見上げてみるとそれは瀧の右手であった。
「え?」
 ポンポン、と彼の右手は二度上下した。
「なんか、いい位置にあったから」
 そんな訳がない。この位置関係になるまでに少なくとも彼は筆とパレットを置いて数歩近寄る必要があったはずだから。
 更に瀧は奈子の隣に腰を下ろした。ソファは小ぶりで、二人の距離はなかなかに近い。奈子が離れようか迷っていると、瀧はキャンバスを指示した。
「約束」
 片付けるまではソファにいる。奈子は自分でそう言った。
「ずるい」
 言葉と裏腹に彼女は笑っていた。何故だろう。話してスッキリできたから? 瀧が彼なりの優しさらしきものを見せてくれたから? でも彼なりの優しさらしきものって、ちょっと曖昧すぎない?
 瀧は奈子の方を見ないし、表情も変えない。ただ前方中空を見つめている。
「ありがとう」
「何が?」
「うーん、拾ってくれたこと?」
「それには及ばない」
 それもそうだ。明日にでも新しいアパートを見つけようと奈子は思った。
「天多のことはまだ好きだけど、次には進める気がする」
「そう」
 瀧は立ち上がり、キャンバスをどかしにかかった。その彼の口元が、わずかに動いたように奈子には見えた。
「え?」
 まさか、何かの間違いだろう。だって瀧がそんなことを言う理由はないのだから。
 ――俺は嫌いだ。

                              <続く>

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