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連作短編『愛とiと』3-前編

三、氷山新希

 スーッと空気の漏れる音が聞こえて隣を見ると、やはり仁が寝息を立てていた。相変わらず幸せそうな顔をしている。私は笑いをこらえて隣の席を軽く蹴る。
 ゴン。
 鈍い響きに驚いて彼が目を覚ます。もう何度、このやりとりを繰り返しただろうか。
 中間試験が終わった頃から彼の遅刻癖は鳴りを潜めている。が、代わりに授業中の居眠りが増えている。つまりは早起きした分だけ眠気に負けているということだ。なんて素直な体質だろう。
「サインコサインを教えてください」
 期末試験を控えたある日、仁は唐突に切り出した。
「……私が?」
「ダメ?」
「いいけど」
 この男がつるんでいる野球部員にそういうことの担当がいた気がする。まあいいか。
「でもサインコサインって、一体あなた三角関数をどこまで理解しているの?」
 苦笑する彼のために私は数Ⅰの教科書を引っ張り出す羽目になった。図書室ではうるさくしてしまいそうなので、逆に会場は教室とする。
「普通は声より人目を気にするんだけどなあ」
「何が?」
「……やっぱり氷山ってどこかの優等生と発想が似てるのかな」
「坂下徹のこと?」
 仁が驚愕の表情でこちらを見つめる。思わず溜め息が漏れた。
「あのね、あなたも私もこの教室で三ヶ月を過ごしているのよ。そりゃ私はあまり他人に興味がないけれど、あの優等生もどきがどんな状況かくらいは分かってるわ」
 でなければ、仁が私に勉強を教えてほしいと言うこともなかっただろう。
「どうして柚原にはまるかなあ」
「馬鹿だからじゃない?」
 そんなことより三角関数だと私は教科書をめくる。
 同じようにノートをめくっていた仁が、ふと複素数の計算式に手を止めた。
「氷山、ガウス平面って知ってる?」
「え?」
 横軸が実数aで縦軸が虚数biの座標平面のことである。と、口で説明しても分からないだろうからノートに書いてみる。
「これがどうかしたの?」
「さすが、坂下を優等生もどきと言う奴は違うな」
「どういう意味?」
「前にウチで勉強会を開いた時、茶々入れに来た姉貴が『ガウス平面に感動した』って言い出したんだ。でも、俺も坂下も何のことか分からなくて」
「そのお姉さん、なかなかいいセンスしてるわね」
 ガウス平面は複素数を具体的にイメージするのに便利だ。実数と虚数を平面上の二つの数直線で示すことで視覚的に表すことができるから。
「そうか。アイは目に見えるのか」
「所詮は概念だけどね」
 そしてようやく三角関数のページに辿り着く。
「ところで、単位円が分からないってあなたどれだけ授業中に寝てたわけ?」
 半径1の狭い世界。
 私の学校生活もそんなものだと思っていた。

「荒木楽です。よろしゅうお願いします」
 試験明けに現れた転校生の顔を見て、開いた口が塞がらなかった。何故この男がここに?
「前は大阪におったけど、実際のところチャキチャキの江戸っ子やから大阪弁はこれやで」
 と言って人差し指でバツ印を作ってみせる。意味が分からない。
 荒木楽は記憶にあるよりも背が高く、日焼けしていて、何より愛想が良かった。人並みに制服を着崩して洒落っ気のある眼鏡をかけて、おそらく「格好いい」と言われる男の部類に入っていた。
 ……違和感しかない。
 自己紹介を終えた彼は、転校生用に設えた窓際の一番後ろの席に座り――すぐさま戻ってきた。
「後ろやと見えへんのやけど」
 先生に伝えて最前に座る仁をじっと見つめる。仁は特に何を言うでもなく荷物をまとめて教室の後ろへ消えてしまう。
「おおきに」
 ドカッと隣に座った彼は全力の笑顔を私に向けた。
「久しぶりやな、氷山」
「……そうね」
「全然変わってへんからすぐ分かったわ」
 今にも身を乗り出さんとする彼が、なんだか尻尾を振る大型犬に見えてくる。
「楽は変わったわね。一瞬、誰だか分からなかったわ」
「せやろ? 俺、この二年で身長十五センチは伸びたんやで」
 外見はすっかり変わっているくせに、その犬っぽさは見れば見るほど既視感があった。
 昼休みになると、楽は待ってましたとばかりこちらへ話しかけてくる。
「氷山、誰か野球部員知らへん?」
 知っている。ある程度展開を予測していた私は席を立ち、教室の後ろになった彼の席へと向かった。楽が少し意外そうな顔してついてくる。
「仁」
 案の定、仁は昼寝中だった。休み時間に申し訳ないけれど叩き起こさせてもらう。
「楽が野球部に入りたいんだって」
「……へ?」
「楽が野球部に入りたいんだって」
「え、何で?」
「何でって野球が好きだからでしょう。まだ寝ぼけてるの?」
 軽く後ろへ振り返ると、それを合図にしたように楽が割って入ってくる。
「そやねん。俺めっちゃ野球好きやねん」
「あ、そう」
 仁は頷いて、それから首を傾げた。
「でもウチの野球部、笑っちゃうくらい弱いけど大丈夫?」
「別にええよ。野球ができれば」
「じゃあマネージャーに話を通しとくから、とりあえず放課後に部室に来てくれ」
「おおきに。えっと――」
 楽が名前を尋ねると、彼はそっけなく答えた。
「枦田仁」
「ハシタ?」
「ああ」
 ちらりと仁がこちらを見たような気がした。

                              <続く>

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