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おさなごころのふるさと

ヘッダークレジット
HarshLight from San Jose, CA, USA
CC BY 2.0, ウィキメディア・コモンズ経由で

最近はYouTubeで海外のディズニーパークの動画をずっと流している。
日本の、つまりオリエンタルランドが提供しているパークの動画は、BGMか15周年以前のもの以外はほとんど見ない。

いきなりだが
スピリチュアル用語で「波動」という言葉がある。

物理学とか量子力学の定義とは異なり、いわゆる「測定はできないが心や第六感や肌感覚で感じられる”気”」みたいなことで、ウィキペディアでは「波動(オカルト)」という項目がある。そっちの話。

海外ディズニーの動画は、私にとって「波動が上がる」行為であり、それは「バイブス(=テンション)が上がる」という感覚とは少し異なる。

自分が、本来望んでいるような自分に近づけるような感覚なのだ。
多分これを便宜的に「波動が上がる」と言うのだと思う。

「波動」という言葉を誤用だと指摘する人は、一人残らず「性癖」という言葉を原義通りに使っているんですよね?と難癖つけたくなるくらい、「波動」という言葉が感覚的にしっくりくる。
スピの世界では感覚的なものを重要視するし。

スピリチュアル的な世界を100%信じているわけではないけど、「波動」という言葉遣いについては分かりやすいな〜と思う。

諸事情あって、私は好きなキャラクターに対し、絶対に「推し」という言葉を使わないが、みんな軽々しく「推し」と言ってるし、私にも言ってくるので、私も軽々しく「波動」とか言って行こうと思う。
(テスラ缶とかアドレナ〜とから辺は信じてませんので悪しからず。前世やツインレイの話もしっくりこない。あとネサラゲサラ、金融グレートリセットも空想的社会主義に近いなと思ってます。)

話が逸れました。
海外のディズニーパーク、しかもそれもオープン当初とか、せいぜい1980年代までの映像って、すごく牧歌的なんです。
イメージとして、パークの道幅が広くて、アトラクの作りが低くて、みんなまったり過ごしてる感じ。

現在日本の人が想像するパークって、常に混んでて、アトラクションに長時間待たされて、って感じだろうし、ちょっと行ってる人だったら、グッズを獲得するのに熾烈な争いが展開されてるのは知ってるだろうし、やはり抽選とか待ち時間の問題とかいろいろあると思う。

それって、すごく都会的になっちゃったというか、あくせくしてるんですよね。でも、80年代くらいまでのパーク、もちろん日本も含めてだけど、あと東京ディズニーシーの初期の頃とか、かなり長閑かだった

なぜ変わってしまったかは諸説あるだろうけど、とにかく、もう少し落ち着きがあった。
アナハイムのストーリーブックランド・キャナルボートというアトラクションの乗船動画見てたら、ふと「幼心のふるさと」って言葉が出てきたんですよね。

「幼心の〜」で言えば『はてしない物語』の「幼心の君」、ディズニーで言えば『ファイアボール チャーミング』でドロッセルが眠りにつく「おさなごころのゆりかご」ですね。
それを踏襲したワードであることは間違いない。

ディズニーランドは来場者の童心に訴えかける場所で、もちろんウォルト・ディズニー本人の童心に最も響く場所であった。
そして、ディズニーランドが如何に非現実的な場所かというのは、彼の子ども時代を振り返ったとき痛切に分かる。

幼い頃に東京のパークを訪れた身としては、実際の子どもの頃の思い出もあることはあるが、昔の海外のパークの映像を見たとき、そここそが私の心の故郷なのだと思わされる。
もちろん過去のパークなんて実際に訪れたことはないから、記憶はない。
ウォルトの記憶にもなかったように。

おそらく、ディズニー信者というのは、ある種の理想郷に自分の魂が帰属すると感じており、その還るべき場所が、穏やかなパークとして存在しているのだろう。
舞浜信者だったらそれは東京のパークだろうし、私はウォルト信者なので、アナハイムのパークに行ったら「ここが真の魂のふるさと」だと思うのだろう。

ディズニーと言えば、お城のマークである。
企業そのもののシンボルになっている。
そしてどのパークにも必ずお城がある。
王や諸侯がいない国には歴史の過程で生まれる城は存在しない。
アメリカだからこその、架空のモチーフなのだ。

お城はいつからディズニーの中で象徴となったのだろう。
その歴史は古く『白雪姫と七人のこびと』のエンディングで、まさにハッピーエンドの象徴として光り輝くお城が出てくる。
ただしとても遠景なので、リアリティを伴った構造ではない。

『白雪姫』はディズニーの歴史の中で、初の長編アニメーションであり、最初の神話めいた作品で、死と再生、そして永遠がテーマである。
(ヴァグネリアンの中でも最も悪名高いヒトラーが、ディズニー映画のファンというのは納得である。)

死と再生は、「この世に想像力がある限り、ディズニーランドは永久に完成しない」(破壊と創造)というウォルトの言葉にも通じる。
そして彼らは想像力は尽きないと思っているし、「Happily Ever After」というものを絶対に諦めない。
どれだけ時代に合わせたとしても、絶望という選択肢はまず取らない。

私はそれがあまりにも病的に見える。だから好きなんだよな。

また話がずれた。
つまり、かなり概念、形而上的な「ハッピーエンド」の表現だった「城」を、パークに実際に建造してしまったわけである。

思えば……子どもの頃から、幸せな子ども時代が欲しくて仕方なかった。自分はなんて幸せなのだろうと思いたくて仕方なかった。

だから、私のおさなごころは、常に穏やかな躁状態にある、そして記憶の中にはない、理想の中にある、海外のパークを望むのだろう。
きっと多くの人があの場所を、おさなごろのふるさとに還ることを、望んでいる。

狂気とも取れるポジティブさ、幸せへの飽くなき欲求。

まるで、不幸な子ども時代なんて、なかったかのように。

では。

あなたの感じたことって何物にも代えがたいよね、ってことを一人ひとりに伝えたい。感情をおろそかにしたくない。って気持ちでnote書いてます。感性ひろげよう。