小説『共感覚の記憶』
「冬の夜の匂いが好き」
小学生の時、同級生がそう言った。
それを聞いて、屈託もなく返事をしたのを覚えている。
「私も好き」
あれからもう何年も経って、常に変わらないと思っていた季節の移り変わりが、どんどんおかしくなっていって、肉体が耐えられないような夏。
意識が霞むほどの暑さの中で気付いた。
その匂いがすぐ思い出せない。
確かにそう言ったのは、記憶にあるのに。
中学生の時はしっかり覚えていた。
しかし、照れくささがあって、屈託もなくそんなことを言えなくなってきた。
ひどく陳腐に思えたからだ。夜の匂いというものがあったとして、それを好きだと「感じる」というのは、別に特別なことでも何でもない。ごくありふれたことだ。
「あのアイドルが好き」とか、そういうことと同じ。
高校生になると、深く「感じる」ことが、生きるのに邪魔になってきた。
生活を送るうえで、いちいち日常の些細なことに感傷に浸っていたら、めくるめく毎日、降りかかる現実に対処できない。
夜空を見て感傷に浸ったり、好きな音楽を聴いて泣いている暇はないのだ。
感動することは脊髄反射みたいなものだ。感動して涙が出ることは、暑いと汗が出ることと同じ。
だから私は好きな音楽を聴くことをやめた。一時的にやめたつもりだった。感動なんていつでも出来る。これは若さからの驕りだった。
現実と格闘するのも馬鹿らしくなって、それでも重たく苦しい毎日の憩いとして、好きな音楽を聴き直せるようになった。
もう涙が出るほどではなくなった。
私は身体を壊していた。
現実に身を窶して忘れていたけど、そういえば、そもそもが、繊細なのだ。音楽で泣いて他のことが手につかないくらいには。
これは可憐さのひけらかしではない。
繊細すぎるのは、体毛が濃すぎるようなものだ。繊細さが尊ばれるというのは、脱毛の広告が氾濫する世間の中でも、毛が濃すぎる人が好きという人も確かにいる、という程度の局地性だ。
稼ぐには鈍感な方がいい。生きるには鈍感な方がいい。
岡崎京子の評伝で「彼女は呼吸するように音楽を聴いていた」と、さも素晴らしいことのように書かれていた。
それは岡崎京子の感性の実績の裏付けであって、私もそうだった、と主張したところで、どうにもならない。私の感性はどこかに行ってしまった。あるいは虐待して殺してしまったか。
家では常に母が音楽を流していた。洋楽が多かったが、日本語の歌詞は意味が分かってしまうので、私はそれを非難するかのように、ヘッドフォンで音楽を聴いていた。(音に過敏なせいだと気付いたのは大分後になってからだ。)
感動から必死に身を遠ざけようとしていた高校生の頃、母は朝からオリジナル・ラヴとか流していた。こっちは多感な年ごろだ。全てを呪っていた頃だ。『接吻』の歌詞から逃れたくて、学校に出かけて行った。
せめて、『接吻』のような世界が、大人になったら待っていればよかったのに。
今でも、呪っている。音楽は、個人的なものだ。
最近、朝の散歩が儀式のようになっている。
もはや感性のための神聖な習慣を実践できる条件は、早朝か深夜の公園にしかなくなっていた。健康のための運動習慣というのは建前で、私は霊感を得ようとしていた。個人的な物語のために。
私はシビュラであり、祭司であるから、儀式で流す音楽を選ぶDJでもなければならなかった。音楽は感情を動かす未知の作用ではなく、感情を動かすための道具という身分に成り下がっていた。
音楽への不名誉を恥じて、インターネットラジオを流す。せめてもの謙虚さだ。それはある程度私の意図から離れて、偶然に啓示を乞う。味の分からない紅茶占いに似ている。ヘッドフォンから、たまたま流れてきた曲は『Wait For Me』……
砂浜。
波が泡立って金色に煌めく光、陽が傾いている。
誰かの横顔が見える気がした。
砂浜を見つめている誰か。
これは、ホール&オーツの曲だ。
僅かな知識の中でもこの名前がすぐ出てくるのは、母が流していた洋楽の中でも白人による曲が珍しかったのと(彼女は流しているCDのジャケットを立てかけておく習慣があった)、やはり「大人になったら到来すべき世界」を歌っていたからだ。(彼らは英語だから、また、通学前に聴かされていなかったから、呪われなかった。)
その砂浜の情景はMVかと思ったが、私はホール&オーツのMVをほどんど観たことがないこと、そしてその情景には別に見覚えがあることに気付いた。
もっともっと幼いころ……小学生にまでさかのぼる。
私はその砂浜をひたすら思い描いていた。
今は断片的にしか思い出せないが、夕方以外の場面も……いや、その砂浜は舞台の一部であって、もっと広がりのある一つの箱庭のような世界をひたすら考えていた。
その世界……仮に「黄昏」と名付けよう。こういう恥ずかしいことは、大人になると当たり前ではなく、貴重な機会になってしまったのだから。
子どもの私は講じることができるありとあらゆる手段で「黄昏」を表現しようとした。
レゴブロックを使って、「黄昏」を作り上げた。今でも思い出せる、「パラディサ」というシリーズが、「黄昏」にぴったりだったのだ。映画で言えば、絶好のロケ地だ。
私は「黄昏」には絶対に「男女の愛」が必要なのだと考えていた。それは直観的な使命だった。
そしてコンセプトアートやシナリオを作った。誇れる量の落書きだ。しかし、分からないことは紙に降ろすことができなかった。
ひたすらレゴを操って、「黄昏」で起こるべきことは何なのか、見極めようとした。
今思うと……それは「来るべき世界」だったのだろう。大人になったら、自分が迎えられるはずの世界。
「黄昏」のことは、誰にも話さなかった。話しても、この重大さは伝わらないだろうと思われた。
また、何かから影響を受けたということも思い出せない。ただ、心の中にある場所や人々を表出していたとしか、言いようがない。
今はもう失われた、個人的な物語だ。
「黄昏」を目に浮かべながら、『Wait For Me』を聴き終わって、ふと妙な考えが浮かんだ。
これは母の記憶なのでは?
『Wait For Me』のリリースは1979年。彼女はリアルタイムでこの曲を聴いていたはずだが、その頃には多分私が生まれる予定もまだ立ってなかったはずだ。
母は好きな曲を何度でも、今でも聴いている人だから、リリース時から私が独り立ちするまで、折に触れこの曲を流していた。恐らく、私が彼女のお腹にいる頃もだ。
母にそんな思い出が?
確かに、母は海が好きだ。だが、多分、昔よりずっと人間が嫌いになってしまっている。
母に、父との出会いのことも聞いたことはない。両親の仲が悪いのもさることながら、幼いころから母にそのように接するのは失礼な気がしていた。
それでも、美しかった母に、かつてそのような思い出があったのではないかと思うことは、私にとっては慰めになるアイディアだった。
彼女の美貌や幸せを奪い去った一因には私を育てた苦労もあるのだ……。
それに、もしかしたら、感覚は共有されうるのかもしれない。
大切にしている感覚、好きだと「感じる」こと、それは、本来だったら、屈託なく、他人と分かち合えるものだったはずだ。
もしそれが、音楽によって呼び覚まされるものだとしたら?
それが、肉体と、遺伝子と、結びついていたら?
そんなことを思わせるほど、「黄昏」の由来は分からないし、遠くなってしまった。
幼い私にとって大切な、そして来たるべき世界、あるいは、若き日の母の記憶であってほしいと思うほど、今とかけ離れた美しい世界。
今では、他人と感覚を共有すること、自分の感じていることを他人に伝えていることすら、難しくなってしまった。
きっと、心を開いていないと、感覚は他人には伝わらないのだ。
それは繊細な性質であればこそ仔細に捉えることができたが、繊細であればこそ他人に傷つき、心を閉ざしてしまうのだ。
「他人」なんて言葉を使わないといけない時点で、もうダメなのだ。
そして、もし感覚が、記憶が、血で継承されるとしても、この血は私の代で終わらせるつもりだった。
母のようになりたくはないし、私のような子どもも生まれてほしくない。
そして結局、『接吻』も『Wait For Me』も、私にとっては、感傷的な懐メロでしかないのだ。
「黄昏」のイメージは受け継がれない。
大切にしていた感覚も、伝えたいと持っていた使命も、冬の匂いのことも、それが好きだったということも、陳腐ではなく、私だけのものだとようやく気付いたのに、誰に伝えることが出来なくなってしまった。
冬の匂いを感じた記憶。
それを同じように感じていると教えてもらった時、幸せだと感じたから、きっと今でも覚えているのだろう。
感覚、記憶、幸福。
自分の中の感覚とやらを、後生大事に、思い出そうと足掻く虚しさ。
本当は、誰かと同じように感じ分かち合うことこそが、一番の望みだと分かっているのに……。
あなたの感じたことって何物にも代えがたいよね、ってことを一人ひとりに伝えたい。感情をおろそかにしたくない。って気持ちでnote書いてます。感性ひろげよう。