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感謝の代わりに言葉を

人の関心は、基本的に自分自身に向いているのではないかと思う。だから芸能人など人の関心を集められる人は、本当にすごいのだろう。その人の生き方や価値観がたとえ自分と違っても、すんなり受け入れられちゃうのは、何よりもすごく、そして怖い。

ぼくは、どれだけ好きな人の言葉でも、それが正しいかどうかの判断は、自分自身でしたいと思っている。「誰々が言うから間違いない」というのは、思考を放棄してしまっているようで怖いのだ。もちろん、人の数だけ正しさはあっていい。押し付けるのがよくないだけで。

普段から、こうして言葉を紡いで一節の文章を書いているわけだけれど、ぼくの言葉が誰かの心を揺れ動かしたり人生を変えたりすることは、きっと、たぶん、ほとんどないと思う。けれど、少しでも誰かに寄り添えたり心の救いになったりしたら嬉しい。もっとそういう文章を書けるようになりたいとも思う。

この考えも、表面上は「人のために」という感じだけれど、結局のところは「自分のため」だ。「よかったよ」「届いたよ」そういう声を耳にすることで、安心や喜びを得たいと思っているのだろう。でも人の心に響くものを書くというのは、そう簡単ではないし意識してできるものでもない。そういうテクニックは、あるのかもしれないけれど。

仮に読んでくれても、感想をもらえることは少ない。だから誰が読んでくれているのかもわからない。「感想を伝える」というアクションを起こさせるほどのものを書けていない、ただそれだけのことなのかもしれない。でも自分の好きなことを書くという軸はブレたくないし、「誰かにアクションしてもらうため」という目的にすり替わってしまわないように気をつけたい。

そんな中で、ぼくがnoteを書くたび、ほとんど毎回、何かしらの感想を送ってくれる人がいる。その多くは肯定的で、その一言にぼくは救われている。ぼくの「書く」の原動力だ。たとえ一人でも、届いている人がいるなら嬉しい。

本当の意味で応援してくれている人は、プライベートでよく会う友達でも、SNSでよく交流するフォロワーでもなく、ちゃんと声にしてくれる人なのかもしれない。そういう人のことは、しっかりと大切にしていきたい。

そしてぼくもまた、心揺さぶられる何かと出会ったとき、素直にちゃんとその思いを伝えられる人でありたい。感謝の代わりに言葉を伝えられる人でありたいと思う。

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