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誰かを好きになるということ

思えば、ぼくたちは、生まれてからこれまで何度誰かを好きになっただろうか。自分より好きになって、自分より大切だと思える人に何度出会えただろうか。「好き」なんていうシンプルな感情に「利害」や「損得」、さらには「嫉妬」や「不安」、「期待」といったものを混ぜ合わせては複雑化してしまう。いつの間にか誰かを好きになることを面倒に感じてしまうほど、恋愛というものに距離を取るようになった。

「もう恋なんてしない」なんて、そんなことは言わないし思わない、絶対。だけれど一定の距離を保つほどに、どうやって恋をすればいいのかわからなくなる。人を好きになるスイッチなんてどこにもないから、簡単に「好き・好きじゃない」の判断はできない。ただひたすらに同じことを繰り返して、積み重ねて、お互いの信頼関係を積み上げながら歩み寄っていくしかない。

なんて言いながらも、恋愛上の駆け引きだとか上下関係だとか、そういうことは苦手だ。「押してダメなら引く」「惚れたもん負け」……しゃらくせぇ。会いたいなら会いたい。好きなら好き。ぼくは、お互いが素直でいられる人と一緒にいたい。「男だからどう」とか「女だからこう」とか、そんなことできれば考えたくない。好きな人とは、いつだって同じ目線で同じ歩幅で同じペースでいたい。だけれどすべて同じなんて難しいから、お互いに合わせることや支えることが大事なんだと思う。

世の中は、男女平等を謳っているけれど、きっと平等になることなんてない。人間一人ひとりに違いがあるのだから。得手不得手もある。育ってきた環境も、体の大きさも、好きな教科も食べ物も何もかも違う。性の形だって人それぞれだ。違って当たり前のこの世界を無理矢理同じにしようとするのは好きじゃない。お互いの違いを理解して、助け合って補い合って、平等よりも均等を保ってほしいと思う。だからいっそ「男女平等」なんて言葉は、この世からなくなればいい。なくなったとき初めて、ぼくらは同じ目線に立てるんじゃないだろうか。

人を好きになるには、自分のことを知ってもらう必要があって、相手のことを知る必要がある。それは、お互いの同じ部分と違う部分を探す作業だと思う。人は、同じ部分が多ければ多いほど共感するし親近感が湧いてくるものだろう。だけれど同じ部分を見つけることばかりに気を取られてしまうと、いざ違いが見つかったときに修正が難しい。共通点は大切かもしれないけれど、ぼくは違いを愛せる人になりたい。


誰かを好きになるということ。


それは、きみとぼくの違いをちゃんと見つめることだ。


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