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「十二国記」王様妄想、反省の書


先日私は、「十二国記」の予告されている短編集が待ち遠しすぎて布団の中で妄想フェーズに入り、十二国記の中の王様になってみたという中学二年生のような記事を書きました。

「十二国記」の王に おれはなる!
とか言ってました。

この記事の中で私は、登極した直後は王がいない間に好き勝手をしていた悪辣家臣どもに手を焼くので、そいつらを紙切れ一枚で国官の地位と仙籍から除くことはできないだろうかという、お手軽人事整理を思いついたのでした。
詳しくは上の記事を読んで下さい。

それから一週間、ものすごい勢いでシリーズを、もう何回目か分からないのですが読み返しています。
やっぱり面白いのですもの。

さすがにまだシリーズ全部とはいきませんが、陽子は登極して悪代官…ではなく州候をやっつけて真に朝を運営し始めましたし、幼い泰麒は蓬山に戻って驍宗と出会い、再び蓬莱に姿を消したのち立派に成長して戻り、李斎と共に戴の国に旅立ち、尚隆は六太とともに、珠晶もすったもんだの末玉座を手にしたところまでは読み終えました。

我ながらすごいペースですw
そしてわかってしまったのです。

私の妄想したことは、できる。でもやってはいけないのだと。

まあ、そうでしょうね。
私の妄想の始まりは、「楽をしたい」でしたから。

なぜ「十二国記」の中に、私の妄想した「紙切れ一枚でのさばる官の問題を解決する」場面がないかと言えば、それではちゃんとまつりごとを行う正しい王とは言えないから、でした。

少し具体的に書きましょう。

先の記事の妄想で、問題となったのは「仙籍」です。
どうやって仙になり、また仙を辞めるのか。

仙には二種類あり、今回は国の政に係わる地仙について述べます。
国に係わらない飛仙はまた別の機会があったら書いてみたいと思います。

国を治める要の人事、つまり朝廷のトップ3である三公や州候(国に九つある州のトップ)は王が任命し、罷免します。
その時に、地位だけでなく仙籍名簿に名が載せられ、仙にもなれるのですね。病や寿命のある「人」ではなくなるのです。

任命は直接王が本人と対面しなければならないのか、それとも書面に御璽を押せば(つまり王が承認のハンコを押せば)いいのかは、ちょっと分かりません。
「黄昏の岸 暁の天」の中で、こちらの世界に流されてただの人になってしまったらしい泰麒を「十二国記」の世界に戻すために、尚隆は王として直接迎えに行きました。泰麒を自国の三公の一つに召し上げ二つの世界を行き来できるようにするためです。もちろんそれ以前に、ちゃんと御璽の押された書面は整えています。
この王直々の任命が特殊な場合だったからなのか、三公やほかの仙に任ずるときはいつもなのかは不明です。
この時の様子はこうです

…指を相手の額にかざす。「―延王の権をもって太師に叙す」言うやいなやの弾指…

小野不由美「黄昏の岸 暁の天]より

え?なんかカッコいい一言と共に、これはまさかのおでこにデコピン?
この儀式が必要なの?

「東の海神 西の滄海」を読むと、どうも仙になると外からは見えなくても額に第三の眼が開き、そこが呪力の源となるようなのです。
上の記事でも書きましたが、王となり神籍に入っても、また仙になっても、特別な神通力はなさそうなのですが、そうは言っても不老ほとんど不死だし、言葉に困らないなどの力は得られます。三公ともなるとあちらとこちらの世界を行き来できるようになったりもします。
やはり、王直々の言葉とデコピン、いや指弾のような儀式が必要なのでしょうか。

しかし、与えたその位を取り上げるときはどうやら紙切れ一枚で済むようです。
最終的に陽子も、納得できる根拠を得たうえで直接本人を呼び出すことなく朝内の人事を改めていました。

泰麒の場合も、便宜上の雁国太師の措置を解除するときは、ふらりと六太がやってきて、出発間際の泰麒に「…そういうわけなんで、仙籍からは抜くぞ…」の一言でした。
もちろん別の所で書面での処理もしたのでしょうが、国のナンバー2とはいえ王ではない六太の、さらりとした一言で終わり、特に儀式めいたものの必要性もないようです。

つまり任命はともかく、任を解く時は王が本人に何かせずともよく、実質紙切れ一枚で済むようなのです。
「東の海神 西の滄海」を読むと国中の仙籍名簿は王宮にあるようですので、王がその気になれば、国中のどの役人でも、王宮にいながら罷免するのは可能のようです。

それでは、なぜ陽子は悪い州候と郷長の現状を知った時に王宮に戻ってそうしなかったのか。また尚隆は反乱を起こした元州候やその息子を、朝廷内からリモート粛清しなかったのか。

陽子と尚隆で事情は異なりますし、彼らの思いや考えは物語を読んでいただくしかないのですが、ざっくり言ってしまえば「悪の大本を断ち、正しくまつりごとを行うため」

物慣れない新しい王には、ある事ないこと吹き込み実権を握らせまいとする佞臣どもが立ちふさがります。彼等の庇護のもとで国を食い荒らす悪い役人が国の各地にいます。そいつらの目障りになり、讒言や濡れ衣のターゲットになるきちんとした人たちも・・・
王宮内にいたまま証拠もなく人づての話で、大事な国の官を紙切れ一枚で軽々しく動かすことはできません。
陽子はこちらの世界で育ち、また王になって間もないため国や政の実情を知らず、そのままでは様々な判断を下せない。良き王であろうと苦しみ、結果野に下り国の実情を直接知り、またそこで信頼できる仲間を得、王としての道を歩み始めました。

尚隆にはもう少しふてぶてしい思惑がありました。
のほほんと無能の王をなんと30年も装い、荒れ果てた国がやっと豊かになってきて、搾取できるものがない間は身を潜めていた、新王を舐めた役人たちがまた好き勝手を始めようとしたところを、一網打尽作戦。
(ストーリーの中心の敵、斡由あつゆはちょっと目的が違ったようですけれど)

それにさすがの尚隆も、最初の30年は民の暮らしを潤す政策が最優先、朝廷内の勢力争いなんかに係わっている余裕がなかったようですが、その一つをとっても政の本質を見失わない王だなぁと思います。
そして30年も無能を装えるのは不老長寿の神籍であればこそですね。
尚隆は500年かけて雁という大国を造っていきます。

結局陽子も尚隆も、宮廷内にぬくぬくと収まらずに野に下り、現場を自分の眼で見て判断する現場主義の王様。
朝が調い、王の意を正しく汲んだ信頼できる臣下が増えてくればそうしなくてもすむようになっていくのでしょうが、王となった最初の段階で、この二人の王様は大事な大変なところを人任せにせず、労をいとわなかったのでした。民のために。

余談ですが、陽子と尚隆と二人ともが「国への反乱軍」に潜り込んで「逆賊」になっていたのが面白いところ。
王である自分に対する反乱軍の一員、捕まったらおおごとですねw


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今回王の任命権を中心に書いてきましたが、シリーズの中には中枢以外の下の方の官は、やっぱり下部組織の長が任命してもいいだとか、任命された官を辞するときは仙籍も返上するのが普通だとか、仙籍や官の任命について書かれている箇所がいくつもありました。


・・・というわけで、反省の書としてもう一度要旨をまとめます。

  • 王は国官、家臣を紙切れ一枚で罷免することはできる。

  • しかし公正な王であろうとした場合、きちんとした根拠もないまま軽々しくそれらの任命や罷免を行ってはならない。

以上です。
できるけどやっちゃいけないこともありました。
「楽をして王様になりたい」という私の根底を覆す結論が出てしまいました。残念です。

そうでなければ、ちゃんとした王様にも人の心を打つ物語にもなりませんね。
反省しています。

以上、「十二国記」王様妄想、反省の書でした。

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