見出し画像

アウトプットを積み重ねた母がくれたもの

先日義母から電話があった。
「あんたたちが海外赴任したのはいつからだっけ?」

突然のお問い合わせ。彼女(85歳)は最近歌集を出そうとしている。その歌の並びを、ある程度年代順にしたいのだそうだ。

2001年からだと教えるも、あまりピンとこないご様子。そこで、「アメリカでテロがあった年だよ。」と一言添えると、急に記憶がよみがえった模様。

彼女はマシンガントークの人である。そこから出るわ出るわ、当時の思い出。まず「ああ、ほんじゃあたしがトルコに行ったのもその頃じゃん。お土産屋のおっちゃんたちが、みんなテロのせいで観光客が来ないで困るって、ビン・ラディンに怒ってたよ。」とのこと。

つわものである。私たちの赴任先に遊びにおいでと誘ったが、もう行ったことがあるからいい、と一蹴。あの時期そんなところに行ってたんかいw。

その他、当時とその前後のこと(タケノコを取りに山に入って足を骨折したこととか、当時まだ存命だった私の両親がお見舞いに来てくれたこととか、etc.)をあれこれ喋った後、とうとう、私たちの赴任に関する、歌集に載せると思しき歌をすべて読み上げ始めた。
少し前から夫(つまり彼女の息子)にも聞かせようと、通話をオープンにしておいた。

いつも彼女の電話は、ほぼ最初の10秒で用事は終わり、あとはず―っと彼女がしゃべりたいことを喋るので、大体聞き流しながら面白がっているのだが、彼女がつらつらと読み上げる歌を聞くうちある一首で、私と夫は図らずも顔を見合わせて、ふはははと笑いながらちょっと涙ぐんでしまったのである。

歌として覚えきれなかったが、内容はこうだ。

見送りの展望デッキで、私たちが乗った便がどの飛行機か分からないので、全部のJALに手を振った。

というもの。

いつも全力投球で裏表なしの小柄な彼女が、全力で無心に、広い展望デッキで手を振っている姿が浮かんだ。夫は「ありがてーなぁ」と言った。私もありがたい、という言葉では表しきれない、母の気持ちが胸に迫った。

もう一つ、歌の「卯月七日」という言葉が耳に残っている。そうか、私たちが旅立ったのは4月7日だったのか。

彼女が歌集を作るという話は聞いていた。もっと前は、短歌の仲間がみんな歌集を出すのだけれど、お金もかかるし自分はやめておこうか、とあまり積極的ではなかった。
私も正直、素人の個人歌集に何の意味があるのかと思っていた。
けれど今回のやり取りで、その歌集から彼女の人柄や人生のみならず、私たちの人生(の一部)までが立ちあがってきたのである。

その歌集には義兄夫婦の結婚のときの歌や、そこに生まれた孫(もう独立して結婚間近)が生まれたときの歌も入るそうだ。(あんたたちの結婚式の歌はないよ、とのことw)

私は日記というものが苦手である。自分だけが読むための文章を書くのが、こっぱずかしいのである。どういうテンションで書いたらいいのかわからない。そしてとてもじゃないが読み返せない、蕁麻疹ものである。
あくまでも私の場合( ̄^ ̄)ゞ
だから、メモ・備忘録はともかくこれまで自分の人生を振り返れる(というと大げさだが)ようなものを一つも残していない。

けれど、義母がアウトプットし続けたものが私たち夫婦にもたらした、鮮烈な「なにか」を経験し、それがどんなに意味のあるものかがはっきりと分かった。

日常の日記のようなものは書けないだろう。本当に書けるのは、読書や猫や自分が面白いと思うものについてだろう。
けれど、書き続けていればいつか積もって、義母の歌集のように意味を持つ日がくるかもしれない。

今回この文章は書きたいから書いたのではない。「書こう!」と決意して書いたのである。「noteを書き続けよう」と思ったから。

義母の歌集が出来上がって手に取る日を、心から楽しみに待つ。



この記事が参加している募集

#noteのつづけ方

38,453件

お読みいただきありがとうございます。楽しんでいただけたなら嬉しいです😆サポート、本と猫に使えたらいいなぁ、と思っています。もしよければよろしくお願いします❗️