会社員でよかったこと〜人生は戦いだ
会社員でよかったと思ったことはない。確かに楽しかったことはあったが、はっきり言ってその数は辛かった思い出より圧倒的に少ない。我慢強さが身に付いたとか、コミュニケーション能力が上がったとか、社会のしきたりを学ぶことができたとか、そんなことをおっしゃる方もおられるとは思うが、別にそれはその人が持って生まれた能力であり、会社員でなかったとしても学習できることだ。個人的なことを言えば、確かに技術者としてスキルは上がったと思うが、それは会社にいたからそうなったと言う訳ではない。
先輩や上司からはたくさんお世話になった。厳しくも愛情を持って育てていただき、一端の社会人にしていただいたことは感謝している。しかし会社員でよかったということとは関係はない。もう一度人生をやり直せるなら、私は会社員にはなりたいとは思わない。
何が私をそう思わせるのだろうか。おそらく私が私らしく生きてこられなかったからかもしれない。それを他人のせいにするつもりはないが、会社と言う組織に属する限り抗うことはできなかったことも事実だ。
人と競争してきた。そうしたかった訳ではない。自分と他人を比べて、昇格が早いとか遅いとか、上司から好かれているとか好かれていないとか、ボーナスをたくさんもらっているとかそうでないとか・・・、そんな話は切りがない。その比較に何の意味があったのだろうか。
人を利用してきた。そうしたかった訳ではない。部下を教育すると言う名目で仕事を押し付けた。自分が楽をするために同僚に仕事を振った。楽しくもない飲み会を度々開いて上司に媚びを売り、目に掛けてもらった。そんな愚行に何の意味があったのだろうか。
人を蹴落としてきた。そうしたかった訳ではない。自分がいることで同じ部署で仕事をしたがっていた同僚が他部署へ移動させられた。その同僚の気持ちなど察することなどなかった。気に入らない同僚の陰口を散々言った。その話が噂となって広まることなど気にもしなかった。いつも誰かの足を引っ張って自分だけが浮かばれようとしていた。足を引っ張られた人がどんなに傷つくか考えもしないで。こんな悪行に何の意味があったのだろうか。
こんな世界にどっぷり浸ってきた。会社の中では、そんなことが毎日当たり前のように繰り返されている。会社員が会社員として生きるために必要なことだと自分に言い聞かせて、30年以上サラリーマンを続けてきた。しかし何年やっても慣れることができない。正直もううんざりだ。
私が卑下する世界を知ることなく私が年を重ねていたら、私はどんなに良い人生を歩んで来れただろうか。信頼し合える仲間と自分のやりたい仕事に打ち込んで、だれも傷つけることなく、何のストレスも感じることなく、毎日を平穏無事に生きていた・・・。果たしてそうだっただろうか。
“人生は戦い”だと言う人がいる。私もそう思う。戦いとは何も人と戦うことだけを意味するわけではない。大きな災害にあって生活の全てを奪われ、どん底に突き落とされることがある。長引く戦争が起きていつ命果てるかもしれない恐怖の中で、未来への希望など持てない時がある。大切な人を失くし、失意の中で生きる希望を失うことがある。スポーツ選手であれば、スランプから抜け出せなくてもがき苦しむことがある。
こんな絶望的な失意の中からでも人は立ち上がる。何度でも、何度でも、未来を切り開くために、愛する人を守るために立ち上がる。これを“人生の戦い”と呼ばずして何と表現するのか。
少なからず私も戦ってきた。自分の存在意義がわからなくなるような失意の底から、何度も這い上がってきた。この戦いに勝敗などない。強いて言うなら家族が笑顔でいてくれるかどうか、勝敗を測れるものはそれくらいしかない。もし私が卑下する世界を知らずにいたら、“人生の戦い”にあっという間に押しつぶされていただろう。
なぜ立ち上がれたのか。そう、私が卑下する世界が私を強くしてくれていたのである。皮肉なことだ。しかし感謝しなければならないのだろう。
「通勤電車の詩」を読んでいただきありがとうございます。 サラリーマンの作家活動を応援していただけたらうれしいです。夢に一歩でも近づけるように頑張りたいです。よろしくお願いします。