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集団生産が個人に負ける

ソニーやホンダなど、世界的な製品開発能力を発揮した企業は別にして
街場の中小企業の創業者などは

「カリスマ性」でもなんでもいいから、人を集めることができて、その集めた人を適材適所な組織にデザインして、いい管理職を置く。気持ちをひとつにして業務にあたる…

そういうことを実現できる人が創業者になれたし尊敬された。

「立志伝中の人物」ってやつ。

小さな工房に「管理職」はいなかったかもしれないが、親方に「みんな」を率いていく能力は要求された。「みんな」がついていきたくなるような人物だということだ。

とにかく「まず集団を形成できる」こと。それから優秀な機械を導入できることなり、いいマニュアルが描けることだった。

それが「集団生産」の時代。
それが生産力だった。

ところが今は、急激に、そういう時代が終わろうとしている。

これからは、なんでもできる「個人」が「AI」をパートナーに、できるだけ広範のことを「一人で」やるか、社会や企業そのもの、あるいは「製品」そのものを無人な生産システムごと、発案、構築しちゃえる人が、産業革命のときの蒸気機関みたいな存在になる。

集団より個人の生産力が高くなる。

末端までの「合議と納得」というプロセスがない分だけ、滅茶苦茶、仕事が早い。

恐ろしい。

「集団的な農耕」が伝来した「弥生時代」依頼のメジャーなバージョンアップということになるのかもしれない。少なくとも「アップデート」な変化ではない。

1980年代。徹夜仕事はあっても、それは個人的なことで、まさか深夜の2時に「打ち合わせが済んじゃう」ってことは、まずあり得なかった。
打ち合わせは、それなりの人数がわざわざ集まる日程や時刻を設定して
「お手元の資料をご覧ください」なんてやってたんだ。「お手元の資料」がパワポに変わっても「集まる」が変わらないんだから、大差がない。

でも今は「一人」の意思が動かす範囲もでかいから、ヘタすると数人で再開発街区を動かしてしまう。だから「会議」の必要もなく「打ち合わせ」的な軽さで大きなプロジェクトを進めることができる。

未だに「お手元の資料」でやってるところとの二極化だ。
残酷なほど「売上」に響いてくる。

だから、最終的には1時間かけて通勤してる会社だっていうだけで、非効率ということになり、淘汰されてしまうのかもしれない。

どうしよう。

1961年生まれの僕が高齢になる頃には、ショッピング・モールの「お掃除じいちゃん」な仕事も無くなっているだろう。たぶんお掃除ロボットのプログラムをいじって「バグ」をクリーニングすることくらいができないと仕事はない。しかも年金では喰っていけないのに、イタズラに長命なんだ。

どうしよう。

オロオロしている間に、どんどん時代は変化していく。

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