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【短編小説】「『おはよう』を届けるアプリ」(8,376字)

「おはよう!」

 明るくはつらつとした声で私は目を覚ました。
 部屋には誰もいない。私は狭いアパートでひとり暮らしだった。

「おはよう」、その声を私に届けたのはスマートフォンのアプリだった。
「おはよ、誰かさん」

 私は返事をして、仕事へ行く支度をはじめた。

   ※

 朝起きて出社するまで誰の声も聞かない生活が続いていた。
 私は四人兄弟の一番上で、にぎやかな家庭に育った。朝起きて誰からも「おはよう」と声をかけられない日々はもの寂しくて、慣れるまでに相当の時間がかかった。

 社会人になってから、もうじき一年が経とうとしていた。
 バスの行列に並び、
 満員電車に揺られ、
 駅を行きかう人々の間をすり抜け、
 上司のセクハラを愛想笑いでごまかし、ようやく仕事に取り掛かる。そんな毎日が続いていた。

「この書類の整理、昨日のうちにやっておくよう頼んだはずよね?」

 始業するとすぐに、意地悪な先輩の片岡さんが突っかかってくるので、私は平謝りして取り掛かったばかりの仕事を脇によけて、書類の整理に取り掛かる。ちなみにそんな仕事は誓って頼まれたことはない。

 この会社では、新人職員にめんどうな仕事を押し付けてもよいという暗黙のルールがあるようだった。ちなみにその新人職員も、私のほかには同期が一人残っているだけで、あとは皆、辞めてしまった。

「もうサイアク、絶対こんな会社辞めてやる」

 お昼休み、私はいつものようにその同期と一緒に昼食を食べに出た。同期の絵里奈のいつものグチに、私は同調する。

「絵里奈も片岡さんから仕事押し付けられた? 私も朝一で書類の整理頼まれて、どこに片づければいいか分かんない書類多くて、結局昼まで終わらなかったよ~」
「マジ? 私は総務の岡田からだよ。有紀は片岡に目つけられてるからね」
「やっぱり絵里奈もそう思う? ここんとこ毎日仕事押し付けられてるもん。あー、なにか楽しいことでもないかなー」

 私が肩を落としていると、絵里奈がスマホの画面をこちらに向けて言った。

「楽しいことか分かんないけどさ、有紀って兄弟が多かったから、朝起きて誰にも“おはよう”って言えないのが寂しいって言ってなかった?」

 絵里奈のスマホの画面を見ると、『おはよう!コミュニケーションズ』というアプリが表示されていた。聞いたことのないアプリだった。

「なにこれ?」
「これに登録して時間を設定しておくとね、毎朝、その時間に誰かからの“おはよう”って声がリアルタイムで届くんだよ。私、これでイケボの“おはよう”を聞くのが楽しみなんだ。有紀もやってみなよ。案外ストレス解消にもなるかもよ」
「え、でも絶対にイケメンボイスの“おはよう”が届くの?」
「誰の“おはよう”が届くかはランダムだから、イケボは稀だね。おじさんの声なんかはまだよくて、ぶりっこな“おはよう”が聞こえた日には朝から殺意が沸くよ」

 なにかを思い出したのか絵里奈は拳を震わせた。
 昼休みが終わり会社に戻ると、私はまた片岡さんから仕事を押し付けられ、結局、本来の自分の仕事に手を付けたのは午後三時を過ぎたころだった。

 定時の五時になると片岡さんは「お疲れさまでした」も言わずに帰っていった。
 結局、私は午後十時まで仕事をして、くたくたになって家に帰りついたのは十一時過ぎだった。

 ベッドに入るころには日付が変わっていた。
 私は目を閉じて、ふと、昼に絵里奈が言っていたことを思い出した。

「毎朝、誰かからの“おはよう”って声がリアルタイムで届くんだよ」

 私は『おはよう!コミュニケーションズ』(通称『おは・コミ』とダウンロード画面に書いてあった)をダウンロードすると、アプリを起動させた。

 シンプルなアプリだった。

 メインは“おはようを届ける”、“おはようを受け取る”の二種類のボタンしかないようで、あとは設定や課金のボタンが小さくあるだけだった。

 私は“おはようを受け取る”のボタンを押した。
 時間が午前四時から午前十時までの間で選べるようだったので、私はいつも起きている七時に設定した。
 これで、七時に誰かの「おはよう」が私に届けられるのだろうか。

 ま、こんなものでストレスが減るだなんて、甘すぎるよね。そんなことを考えながら、私は眠りについた。

「おはよう!」

 突然聞こえた声に、私はベッドから飛び起きた。
 男の声だった。不審者? と一瞬思うが、すぐに昨日の絵里奈とのやり取りを思い出した。

「毎朝、誰かからの“おはよう”って声がリアルタイムで届くんだよ」

 顔も名前も知らない人が、私だけのために「おはよう!」って言ったんだ。
 私は嬉しくなって、「お、おはよう」とスマホに向けて声をかけていた。“おはようを届ける”ボタンは押していないので、私の声は誰にも届かないにも関わらず。

 男性の声だった。イケボだっただろうか。そう言われたらイケボだった気もする。年齢は二十代? ひょっとすると同い年かもしれない。もしかしたらこの近所に住んでいたりして?

 朝から私の気持ちは明らかに浮かれていた。満員電車に揺られていても、この中に私に「おはよう」を言った人がいるんじゃないかと思うと落ち着かなかった。
 片岡さんから嫌な仕事を押し付けられても、「私、やります!」と元気よく答えることができた。それが良いことなのかはよく分からないけれど……。

「なんかいいことあったの? 明らかににやにやしてるけど」

 絵里奈は鋭かった。いや、私が分かりやすすぎるだけかもしれない。

「実は……」私は絵里奈に今朝あったことを話した。
「あはは、有紀って相変わらず分かりやすいね」
「えー、それってどういう意味よ」
「単純っていう意味よ」

 絵里奈は悪びれもせずに言った。

「でも、気をつけてね。私、“おはよう”の声に一耳ぼれして、廃課金者になっちゃった子知ってるから」
「なによ一耳ぼれって」
「一耳聞いて恋に落ちることよ」

 私たちは笑って、会社へと戻った。
 その日は片岡さんが仕事を押し付けてくるのはいつものこととして、誤発注が発覚するなどして社内は大変な騒ぎで私もパニックになっていた。終電で帰れたのは奇跡といってよかった。
 私は極度の疲労でぼーっとする頭で家に帰った。電車の中でも目は半分くらいしか開いていなかったと思う。

 気づかなかったけど、夕方頃にお母さんから着信があっていた。明日は土曜日だから明日の朝電話をしよう。そう考えて、私はお風呂にも入らずメイクも落とさずにベッドに倒れ込んだ。

 それでも、『おは・コミ』を立ち上げて、九時に「おはよう」が届けられるように設定することだけは欠かさなかった。

   ※

「あんた、本当に大丈夫なん?」

 電話の向こうのお母さんの声には不安が滲んでいた。

「大丈夫大丈夫、まだ新人だからそりゃ失敗もするけど、仕事にもだんだん慣れてきたし、いろんな仕事も任せられるようになってきたし」主に雑用だけど。
「そう言うけど、あんたは頑張りすぎるとこがあるけん心配で……。それに、亮ちゃんのこともあるしね」
「亮ちゃんのことは言わんでって!」

 その名前を聞いて、私はつい大声を出していた。

「あ、ごめん」私は取り繕った。それでも、弟の亮ちゃんの名前をこんな流れで出してほしくはなかった。
「あんたの思いも分かるけど、何ヵ月かに一回、青い顔をして実家に帰ってきて、一日中寝とるあんたを見てると心配なんよ。仕事、夜中まであって忙しいとやろ」
「忙しいけど、そんなすぐ辞めれんたい。こんな私をせっかく拾ってくれたとこやけ」
「そこまで言うならこれ以上言わんけど、辛くなったらいつでも帰ってくるんよ」
「分かっとるよ。それじゃあ、お母さんも体に気を付けてね」

 私は電話を切ると、がっくりとうなだれた。
 地方から上京するまで、私はずっと実家で暮らしていた。都会で初めての一人暮らしをして、小さな印刷会社――しかもいわゆるブラック企業に勤める私を心配するお母さんの気持ちはよく分かった。

 それでも、私はまだ仕事を辞めたいとは思わなかった。私がいなくなれば会社の皆も困るだろうし、一年ほどで辞めたら次に働く場所はないと、職場の上司もよく口にしていた。

 それに、私には『おは・コミ』だってある。
 今日は読書が趣味な可愛らしい女子中学生(たぶん)が、私に「おはよう」を届けてくれた。
 誰かの「おはよう」があるだけで、私はまだまだ頑張れそうな気がした。

 仕事を初めてから一年半が過ぎ、私の仕事はさらに過酷さを増していた。
 今年は言ったばかりの新人職員は全員が半年以内に辞めてしまった。というか四月の時点で新入社員の半数が辞めていた。

 私はへとへとだったけど、絵里奈もグチを言いながらもなんとか続けていたし、毎朝誰かから届く「おはよう」を聞くと、今日も一日頑張ろう、という気になれた。

 今日の「おはよう」は誰から届いたんだろう。
 職場に向かいながらそんなことを考えるのが楽しみだった。仕事で電話をかけていて、似た声のがいると、「今朝私に“おはよう”って言いませんでした?」と言いたくてたまらなくなった。

「有紀ってほんと単純だよね~」

 お昼ご飯を食べているとき、絵里奈は心底うらやましそうに言った。

「そうかな? どの辺が?」
「おはようの一言だけでそんなに頑張れる子、いまどきいないって」
「そうかな~? じゃあ絵里奈はもうやってないの? イケボに“おはよう”って言ってもらうんじゃなかったの?」
「もうとっくに辞めちゃったよ。だって私好みのイケボなんてそうそういないし」

 確かに五十代口ひげあり執事風のイケボなど、そうそう出会うことはあるまい。そもそもそれはイケボに含まれるのか、という気もするが。

「でも、私もちょっとマンネリのところはあるかも。もう色んな人の声を聞いたから、ひょっとしてあの日と同じ人かな、っていうときもあるし。あ、それはそれでもちろん嬉しいんだけどね」
「じゃあさ、課金してみれば? 私も一回しかしたことないけど、まだ見ぬ出会いがあるかもよ」

 絵里奈は悪戯っぽく笑ってみせた。

   ※

 課金は初めてで不安だったけど、電話料金と一緒に払えるようで私はそうすることにした。
 課金ボタンを押すと、一〇〇円、一〇〇〇円、一〇〇〇〇円と選択できる画面になった。一〇〇〇〇円の課金だったらどんな人からの「おはよう」が届くんだろう。私は興味をひかれながらも、一〇〇円のボタンを押した。

 その夜、私は興奮してなかなか寝付くことができなかった。

「おはよう」が届く直前の朝六時五十五分。私はスマホの前で正座してそのときを待った。

 六時五十九分五十五秒、五十六秒、五十七秒、五十八秒、五十九秒……

「ナマステー」

 来た! ただ……“なますて”って言った? “おはよう”じゃなくて?
 そこで私はぴんときた。インドなどで使われているヒンディー語では、“ナマステ”という言葉が“おはよう”、や“こんにちは”などの意味を含んだ挨拶だったはずだ。

 私は興奮した。このアプリ、世界中にユーザーがいて、課金することで世界中の人から「おはよう」が届けられるのだ!
 ただ、注意書きで世界の人からのメッセージは必ずしもリアルタイムではない場合がある、と書かれていた。それもそうだ、世界には時差というものがある。日本は朝でもインドは今同じ時間ではないはずだった。

 次の日は「アンニョン ハセヨ」、その次の日は「アロハ カカヒアカ」、「ボン ジュ―」、「ゴーオンダイン」、「グーテン モルゲン」、「スマラト パギ」、「グッド モーニング」……

 私は一気に世界中の人とつながった気になれた。仕事は辛いけど、それは幸せな日々と言えた。こうなると、気になるのは一〇〇〇円と一〇〇〇〇円の課金だった。

 一〇〇〇円くらいなら、しばらく昼ご飯をお弁当にして節約すればいっか――。
 気づけば、私は一〇〇〇円の課金ボタンを押していた。

「EHほA#&RI9*3rfjえf」

 翌日、スマホから聞こえてきたのはそんな意味不明なメッセージだった。
 騙された!? 私がショックを受けていると、スマホから意味不明なメッセージにあわせて電子的な声が聞こえてきた。それは映画の副音声のような感じだった。私はすぐにそれが意味不明なメッセージを訳しているものだと気が付いた。

「チキュウノミナサン オハヨウゴザイマス ギンガハチガエド ワタシタチハトモダチ キョウモ ガンバッテイキマショウ」

 それはそのまま受け取れば宇宙人からのメッセージだった。私は爆笑した。
 運営の遊び心なのか本当に宇宙人からの「おはよう」なのか、そんなことは気にならなかった。宇宙から「おはよう」が届いた。それがすべてだった。

 そしてこうなると……。
 私の目は自然と一〇〇〇〇円の課金ボタンに引き寄せられた。

 だが、やはり数秒のために一〇〇〇〇円は高い。とりあえずその日はボタンを押さずに、私は急いで仕事に行く準備を始めた。

「有紀、ほんとに大丈夫? 目の下のくま、結構ヤバいよ」
「大丈夫だって、ちょっと最近失敗続きで、帰りが遅くなってるだけだから」

 私はお弁当を食べながら、心配そうな絵里奈の言葉を受け流した。絵里奈はいつも大げさなのだ。

「相変わらず片岡にも仕事押し付けられてるんでしょ? 私がガツンと言ってあげようか?」
「ダメだよ、絵里奈だってまだ若手で、立場だってそんなに強くないんだから。私のことは私が解決するから」
「もう、言っても聞かないんだから」

 絵里奈は本気で私のことを心配してくれているようだった。確かに、ここ数週間ほどは例年仕事が忙しくなる時期であることも重なって、集中力が低下しているように感じることがあった。

 そしてそれは、その日の午後にサイアクな形で現れた。

「ちょっと、この伝票、まだ処理されてないわよ。誰よ、担当したの⁉」

 片岡さんが手に持っていた伝票を見て、私は青ざめた。
 先週のうちに処理しなければいけない伝票だった。あれを処理しなければ先方に商品が配達されず迷惑をかけてしまうことになる。

「ご、ごめんなさい。私です。すぐに処理します」
「ごめんなさいで済むわけないでしょ。すぐに電話で謝って、それから直接謝りに行ってきなさい」

 片岡さんに怒鳴られて、私は涙を流すのを必死でこらえて頷いた。片岡さんもその伝票のチェックの担当だったはずだけど、そんなことはその場で言えるはずがなかった。私はすぐ先方の会社に電話で謝って、すぐに直接謝罪に伺う旨を伝えた。
 先方の会社は古くから取引のある会社で、担当の職員の方は怒っていなかったけど、「今回のことはもういいよ、今度から気を付けてくれたらいいから」という言葉が私の胸を刺した。

 帰りの電車の中で、自分のふがいなさに私は泣いた。
 もうなにもかも投げ出してしまおうか、そんな気持ちが脳裏をよぎるたびに、こんなところで負けられない、絶対に挽回してやる、と強く決意した。

 それでも、胸の苦しみが取れることはなかった。あと何時間か寝たらまた仕事にいかなければいけない。そんなことを考えると絶望的な気持ちになった。

 軽くシャワーを浴びてベッドに横になると、私は習慣になっていた『おは・コミ』を開いた。
 一〇〇〇〇円の課金ボタンに目が吸い寄せられた。

 普段はスーパーの買い物でも一円単位で節約しようとするのに、気づけば課金ボタンを押してしまっていた。

 その夜、私は眠れなかった。そして朝七時を迎えた。

   ※

「おはよ」

 いつもと変わらない、誰かの声――のはずだった。ただ、それは私がよく知っている声だった。

「亮――?」

 そんなはずがない、私は首を振る。ただ、続く声は聞きなれた亮のものに違いなかった。その声を私が間違えるはずがなかった。

「元気かな? なんか、よく分かんないけど、へんなアプリの運営の人がこっちに来て、姉ちゃんに“おはよう”を届けてくれって。意味わかんないよな」

 亮はそう言って少し笑った。意味が分からないのはこっちだ。私は混乱した。だって亮は二年前に“死んでいる”はずなのだ。

「あ、もうあんまり時間ないって。俺から姉ちゃんに言いたいのは一つだけだよ。姉ちゃんは誰よりも責任感が強くて優しいけど、そのせいで自分の傷には無頓着だと思う。ちゃんと自分を大事にして。俺は頑張る姉ちゃんよりも元気な姉ちゃんが好きだから。あ、もう終わ――」

 亮の声は途中で途切れてしまった。亮らしい、私はそう思った。
 亮は少し年の離れた弟で、いつも明るくて家族のムードメーカーだった。高校を卒業してすぐに働いたけど、その職場はかなり過酷だったみたいで、慢性的に睡眠不足になった亮は交通事故であっけなくあの世にいってしまった。

 私は亮が死ぬ前に全然亮と話ができなかった。亮がそんなに苦しんでいることも知らなかった。私は亮の苦しみに気づいてあげられなかったことをずっと後悔していた。
 亮は私に元気な姉ちゃんが好きだ、と言ってくれた。全然亮のことを見ることができていなかった私に対して。

 私は亮の好きな自分になれているだろうか。私は……。

 気づけば私はスマートフォンを手に取っていた。お母さんはすぐに電話に出てくれた。

「お母さん、私、仕事辞めようと思う。ごめん、もうずっと、限界だった」

 私はそれだけ言うのが精いっぱいだった。それからは「ごめんね、ごめんね」と機械のようにくり返すことしかできなかった。何に対して謝っているのか、自分でもよく分かっていなかった。

「あんたはよく頑張ったから、一回こっちに帰ってきなさい。誰もあんたのことは責めないから」

 お母さんのそんなに優しい声はこれまで聞いたことがあっただろうか。私は電話にも関わらず、うん、うん、と何度も頷いた。そのたびに私の目からは大粒の涙が床に落ちていった。

「亮がね、助けてくれたの。私のことを見ていてくれたの」

 そんな私の言葉は声にならなかった。
 お母さんや亮とつながったスマートフォンを握りしめ、私はいつまでもそこで泣いていた。涙が枯れるまで、そこで子供のように泣き続けることしかできなかった。

 私は仕事を辞めて実家がある福岡県に戻った。

 絵里奈はなぜか私の退職を喜んでくれた、聞けば、「このままだと有紀が死んじゃうんじゃないかと心配だった」ということだ。
 辞めた後も、絵里奈からはよく職場のグチのラインが来た。ただ、最近は会社の偉い人といい仲になっているみたいで、職場での立場も強くなっているらしい。絵里奈らしい、と私は思った。

 私の次の仕事はなかなか決まらなかった。上司からさんざん言われた「三年以内に仕事を辞めると次が決まらない」というのは、あながち私を辞めさせないための脅しではなかったようだ。

 それでも、私はあの仕事を辞めたことは後悔していない。冷静になって考えると、あのまま続けていたら、私はどうなっていたか分からなかった。文字どおり、私は亮に命を救われたのだった。
 実家には両親と二人の弟がいて、賑やかなことこの上なかった。

「おはよう」、私は家族に毎朝そう言った。二人の弟はたまにそんな挨拶を無視したけど、そのたびに私は返事をするまでくり返し「おはよう」と言った。

「おはよう」を言い合える人が身近にいる喜びを知らないなんて、人生の半分損しているといっても過言ではないだろう。弟たちも一人暮らしをすればきっと分かるはずだ。

 そんなある日、私のスマホに着信があった。聞けば、私のような人間を雇いたいという稀有な会社があるらしい。
 福岡市にあるその会社に、私は実家から通うことになった。

   ※

 そして私はいま、新しい会社で研修を受けている。
 その会社の業務は、世界中の人にアプリを通して“おはよう”を届ける仕事だ。

「それでは、君にはこの地区を担当してもらいますので、先輩の言うことをよく聞いて、しっかり頑張ってください」

 私が研修担当の職員さんから手渡されたのは日本地図でも世界地図でもなく、宇宙地図だった。『かに星雲』とか『バグ星雲』とか書かれた地図を眺めて、「マジで?」というつぶやきが漏れる。

「じゃ、行こっか。皆を元気にする“おはよう”を探しに」
「……は、はい!」

 私は先輩について歩き出した。

   ※

 おはよう。
 少し変わった仕事をすることになりましたが、あなたのおかげで私は元気です。
 いつか私にも寿命がきて、そちらにお邪魔する日もくるでしょう。
 そのときは、これまで言えなかったたくさんの「おはよう」を言い合いましょう。
 それでは、そのときまで。お元気で。
 親愛なる弟へ。

PS.寿命の前に今度仕事でそっちに行くことになったから、お姉ちゃんに美味しいご飯屋さんを案内するように。










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