見出し画像

【ショートショート】「ともだち条例」(5,282字)

 加賀谷町に“加賀谷町ともだち条例”が制定されたのは二〇二一年の年末のことだった。
“加賀谷町ともだち条例”とは、加賀谷町の学校に通う子どもたち全員が友達になるために、加賀谷町が独自に決まりごとを定めた条例だった。
 例えば子どもたちが守るべき事項が定められた条例の第4条では、次のような調子で二十二の項が定められていた。

<加賀谷町ともだち条例>
(子どもたちの責務)
第4条 加賀谷町の子どもたち(加賀谷町の小学校又は中学校において義務教育を受けるもの。以下、同じ。)は、お互いのことを尊重し、互いに支え合わなければならない。
2 加賀谷町の子どもたちは、一日の初めに出会ったときには、元気よく挨拶をしなければならない。
3 ・・・

 この条例を定めたのは、加賀谷町役場の人権・教育課に配属されて二年目の、佐々木という三十代の職員であった。

 佐々木は加賀谷町長からこの条例を作るよう指示を受けたとき、ついに自分の番がきたか、とうんざりした気持ちになった
 というのも、この町長、二年前に当時の町長が病に伏した後に無選挙で町長になってから、その場の思いつきで所管課の部長や財政関係部局を通さずに担当職員に独断で指示を飛ばし、町役場を混乱の渦に陥れていたのであった。

 佐々木がこの条例を制定するまでには紆余曲折があったが、最も骨が折れたのはこの条例の対象に中学生を含むかどうかの議論であった。
 この条例に毛ほどの愛着を抱いていない佐々木自身は心底どうでもよかったが、“ともだち条例”などという子供だましが通用するのは小学生までであると主張する教育長派と、中学生まで対象を拡げるべきとする町長派で議論は割れに割れ、教育長が任期を前にして退任するまでの事態となった挙句、中学生までを対象にすることが決定した。加賀谷町に高校はなかった。

 物珍しい条例が制定されたということで、制定直後はテレビの取材もいくつかあった。
 だがそれも最初だけで、条例の制定によって子どもたち全員が友達になったのかもよく分からないまま、すぐにそのような条例の存在は忘れ去られていった。かのように思えた。


 佐々木が加賀谷町に隣接する相馬市長から直接電話を受けたのは、条例が制定されて三か月後のよく晴れた春の日だった。

「お宅の町が制定した“加賀谷町ともだち条例”とかいう条例だけど」名を名乗るや否や、相馬市の市長は、高圧的な口調で言った。「どういうことか説明してもらおうか」
「どういうこと――と言いますと」

 返答しながらも、佐々木には全て分かっていた。市長が条例制定の担当者に直接電話してくるなど、あのことしか考えられなかった。

「“加賀谷町ともだち条例”第23条のことに決まっているだろう!」

 あまりの大声に頭がくらくらした。
 佐々木は数か月前の加賀谷町町長とのやり取りを思い出していた。

   ※

「ぼくさ、隣の相馬市長と同級生なんだよ」
「はあ」
「ただ、恥ずかしい話、昔はぼくも体が弱くて、相馬市長のやつにいじめられててさ」
「それはそれは」
「だからさ、相馬市民は“加賀谷町ともだち条例”の適応除外にしようと思うんだ」
「なるほど。…………………………えっ?」

 確かに、“加賀谷町ともだち条例”は加賀谷町が定める条例であるので、加賀谷町民のみに適応されるのが通常であった。
 だが、加賀谷町に三つあるうちの一つ、加賀谷第二小学校は相馬市とのちょうど境にあり、近隣の相馬市民の通学も認められていた。その近辺に住む相馬市民が相馬市の小学校に通おうと思えば、歩行者用通路のない危険な国道を歩く必要があったのだった。

 そのような状況にもかかわらず、相馬市民を適用除外とする文言など入れてしまえば、加賀谷町第二小学校で、相馬市から通ってくる数十人の子どもたちを仲間外れにするような状況が生まれかねないのではないか。
 佐々木は町長にそのようなことを説明したが、「うーん、でもぼく、あいつ嫌いだから」、という一言で以下のような条文が追加されることになった。

<加賀谷町ともだち条例>
(適用除外)
第23条 この条例の規定は、相馬市に在住する者については、適用しない。

   ※

 相馬市長が言うには、佐々木が懸念していたとおり、加賀谷第二小学校で相馬市から通う子どもたちを友達と認定しないような遊びが流行しているらしい。
 保護者からも加賀谷町ではなく、そうした状況を黙認している相馬市の方に苦情が寄せられているという。

「次の議会で第23条を削除するよう上程することだ。さもなければ私たちにも考えがある」

 そう言い残して、相馬市長からの電話は一方的に切られた。
 佐々木はその足で町長室に向かった。本来ならばまず上司に報告するところだが、係長・課長・部長がそれぞれ「“加賀谷町ともだち条例”のことは自分に一切相談するな」と言うので、町長と直接話をするほかなかった。

「へー、第二小学校でそんなことが起きてたんだ」

 思いのほか、町長は深刻そうな表情を浮かべてくれた。ひょっとして条例自体の廃止もあるか、と佐々木は期待したが、返ってきた言葉は期待外れなものだった。

「まあ、相馬市なんかに住んでるのが悪いんだし、自業自得ってことで」

 佐々木は胃が痛くなった。

 一月後、新聞を読んでいた佐々木は、相馬市が“相馬市加賀谷第二小学校通学者特別給金給付条例”を定め、加賀谷第二小学校に通学する相馬市民に一世帯当たり百万円支給することを知らされた。

<相馬市加賀谷第二小学校通学者特別給付金給付条例>
(目的)
第1条 この条例は、地理的条件によって加賀谷第二小学校への通学を余儀なくされた市民を救済することを目的とする。

 その日、佐々木が始業時間ぎりぎりに出勤すると、加賀谷町長が顔をゆで蛸のように真っ赤にして佐々木の席の前に立っていた。手には佐々木が出勤前に読んだ新聞が握られていた。

「これはどういうことだ」

 怒りのあまり、町長の声は震えていた。

「たぶん“加賀谷町ともだち条例”第23条を削除しなかったことに対する意趣返しじゃないかと……」
「これではまるで、加賀谷第二小学校に通う相馬市民が、ボロボロで汚らしい、相馬市と比べて治安もあまりよくない加賀谷第二小学校に嫌々通わされているみたいじゃないか」
「そこまで言ってないと思いますが」
「言ってるようなもんだろうが!」

 町長の言うことももっともであった。こちらに原因があるとはいえ、これでは加賀谷第二小学校に通う加賀谷町民の立場もない。

「それではどうしましょう。こちらも“加賀谷第二小学校通学者特別給付金給付条例”を作りますか?」

 佐々木の提案に、町長は渋い顔を見せた。
 市のオリジナル商品を開発して、ふるさと納税で一山当てた相馬市と違い、加賀谷町は万年金欠であった。すでに取り崩すだけの基金も残されておらず、町長もこのところは財政部局からこっぴどく怒られていると聞いていた。

「お前、“相馬市民排除条例”を作れ」
「ソウマシミンハイジョジョウレイ」聞いているだけで頭が痛くなりそうなワードだった。佐々木は仕事をすべて残して家に帰り、いつも着ているスヌーピーのパジャマに着替えて眠りにつきたくなった。
「次の議会で上程するから、準備しておくように。できなければ半年間の減給処分だ」

 町長はそう言い残して去っていった。係長に助けを求める視線を送るが、すぐに顔を伏せられてしまった。

 佐々木は仕方なくパソコンに向かうと、ワードを立ち上げ、三時間ほどかけて次のような文章をひねり出した。ここだけの話であるが、佐々木自身も高級住宅街を有し、お高く留まっている相馬市民が嫌いであった。

<加賀谷町相馬市民排除条例>
(目的)
第1条 この条例は、相馬市民による不当で下品な行為を防止し、町民の生活に生ずる不当な影響を排除することに関し、基本理念を定め、町民の責務を明らかにするとともに、相馬市民の排除のために必要な事項を定めることにより、町民全体の安全と平穏を確保することを目的とする。

 次の議会で“加賀谷町相馬市民排除条例”は全会一致で可決された。かくして加賀谷町と相馬市は冷戦状態に突入したのであった。
 元から町民と市民は互いに好感情を有していなかったこともあり、町と市の境にはバリケードが張られ、互いの領域に向けて激しいヘイトスピーチが投げかけられるようになった。

 領土問題も発生し、加賀谷町は相馬市の一部を自町の固有の領土であると主張し始めると、相馬市もこれに応戦した。

 さらに新たな条例が制定され、相馬市に一度でも住民票を置いた者は加賀谷町に転入することを禁じられたが、これは『居住、移転・職業選択の自由』を定めた憲法に違反するということで国と裁判になり、一審、二審、最高裁と加賀谷町が敗訴し取りやめになった。
 だが、そんなことをしなくても相馬市から加賀谷町に転入する者などもはや一人もいなかった。

 佐々木自身も、自分が煽動することで、町民たちが相馬市民たちと互いの感情をぶつけあうのを見てどこか気分の良さを感じていた。

 だが、加賀谷町に住む無職の男が相馬市の高級住宅街で刃物を振り回す騒ぎを起こしたニュースを聞いた時点で、佐々木はようやく自分がとんでもないことをしていたことに気が付いた。
 自分自身が、ヒトラーの危険性に気が付きつつも彼の行いを正すことのなかったヘルマン・ゲーリングにでもなったように感じられたのだった。

 佐々木は誰にも告げずに庁舎を出ると、ふらふらとした足取りで相馬市との境界に向けて歩き出した。


 相馬市に近づくにつれて辺りの景色は荒廃していき、空き家も目立つようになっていた。相馬市は空気が汚れているからと、加賀谷町の中央部へ引っ越す人が相次いだのだった。
 それらの家々には、どれにも相馬市民が描いたと思われる落書きが残されていた。人の気配がしなかった。野良犬が鼠の死骸をくわえて歩くその姿は(佐々木もよく知らないが)まるで戦前の日本を見ているようだった。

 そんなとき、佐々木の耳に明るい笑い声が届いた。それはその景色に似つかわしくないものだった。
 その声に誘われるように、佐々木は声の出所を探して歩き始めた。

 佐々木がたどり着いたのは加賀谷第二小学校だった。
 グラウンドでは、子どもたちが鬼ごっこをしているのか、お互いを追いかけまわして遊んでいた。

 ――この学校にいた相馬市の子どもたちはどうなっただろうか、やはり自分のせいで転校を余儀なくされ、せっかくできた友達と離れ離れになってしまったのだろうか。
 佐々木は近くに走ってきた子どもたちに、役場の職員であることを伝えると、おそるおそる尋ねてみた。

「ねえ、“加賀谷町ともだち条例”って聞いたことある? 加賀谷町の子どもたちが友達になるために町が決めたことで、相馬市の子どもはそこから外されてたんだけど」
「知らなーい」
「この学校にも相馬市のやついるけど、皆、仲良しだよ。親たちから仲良くするなって言われてた時期もあったけど、そんなこと親に決められてもなあ」
「町から仲良くしろとかするなとか言われても、そんなこと関係なく、俺たち最初から友達だよ」

 加賀谷町民と思しき男の子は、相馬市民と思われる男の子と肩を組んだ。そこにはなんの装飾もない、友情そのものの原石があるように佐々木には感じられた。


 その半年後の定例議会において、“加賀谷町ともだち条例”は廃止となった。
“加賀谷町ともだち条例”の廃止については佐々木が尽力したのだが、もはや相馬市をどのように攻撃するかしか頭にない町長の中では“加賀谷町ともだち条例”など過去の話であり、とうに興味は尽きていたようだった。

 佐々木の退職願は特に渋ることもなく受け取られた。
 相馬市からのミサイル攻撃により、加賀谷町役場は壊滅的な被害を受けていたが、地下シェルターを用いて行政運営は継続されており、人事部も退職願を一瞥するのみで、理由すら聞かれることもなかった。現在、人事部にとって必要なのは、重火器の扱いに長け、死を恐れない戦士であって佐々木のような人間ではなかった。

“加賀谷町ともだち条例”がなくなっても、“加賀谷町ともだち条例”ができたことによって失われたものはあまりに大きかった。

 佐々木は当面の間、加賀谷町と相馬市の境界付近で平和維持活動に専念することを決めていた。
 加賀谷町と相馬市の境界は激戦地帯で、佐々木は頭の横を掠める銃弾に肝を冷やしつつも、地雷を撤去したり、加賀谷町民、相馬市民に関わらず、怪我人を赤十字が設置した野営病院に運び込んだりする活動を始めた。

 そんな生活を続ける佐々木にも心安らぐ瞬間があった。
 それは加賀谷第二小学校から聞こえる子どもたちの笑い声が、風に乗って聞こえてくるときだった。

 子どもたちに“ともだち条例”なんて最初から必要なかった。
 本当に“ともだち条例”が必要なのはぼくたち大人の方かもしれない、佐々木はそのようなことを考えながら、今日も銃弾と怒声の雨の中を体力が尽きるまで走り続けた。











こちらもどうぞ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?