【ショートショート】「廻る旅人」(5,531字)
「ごめんください」
玄関のあたりから聞こえた声で、私はまどろみから覚めた。時計を見ると、午後五時を少し過ぎたところだった。
上着を羽織って廊下に出ると、やはり玄関から、ノックの音がしていた。客人とは珍しいこともあるものだ。少し警戒しつつ、私は戸を開けた。
「私は旅の者です。こちらに一晩泊めてもらえないでしょうか」
立っていたのは四十過ぎの男だった。山道を歩いてきたのだろう、男の靴には泥や枯れ葉がこびりついていた。
この家には私と手伝いの女性の二人しかいないため不安に思ったが、男の善人そうな(いかにも情けなさそうな)顔を見ていると、このまま追い返すこともはばかられた。
「あまりおもてなしもできませんが、どうぞお入りになってください」私は旅人を家の中に招き入れた。
旅人をリビングに通すと、私は内線電話の受話器をあげた。ワンコールで手伝いのタエさんにつながる。
「お客様が来られたから、お部屋と夕食のご用意をお願いできるかしら。そうね、冷蔵庫に頂きもののベーコンがあったから、あれでポトフを作ってくださいな」
「かしこまりました」
私は受話器をおろすと、旅人に向きなおった。
「うちにはお手伝いさんがいて、家のことは任せていますが、なんといいますか……極度の照れ屋でして、決して人前には姿を見せません。御用の際はこの電話でお申し付けください」
「人前に姿を現さないとは、いまどき珍しい、ミステリアスな乙女ですな」旅人はそれだけ言うと、大きなリュックを置いてタオルで額の汗をぬぐった。
乙女どころか婆であるはずだが、私は何も言わないでおいた。
そのまま少しだけ雑談したのちに、家の中を簡単に案内し、食事の時間まで部屋で休むことにした。
特に示し合わせたわけではなかったが、私が食事をとる時間に旅人がリビングに入ってきたため、私たちは一緒に食事をとることになった。
ベーコンが悪くなっていたのだろうか、夕食は肉みそのレタス包みと海鮮スープが用意されていた。
「どちらまで行かれるんですか?」私は食事の手を止めて尋ねた。
「南の果てまで行こうと思っています」
「南の果て、ですか」どれほど歩くと南の果てまでたどり着くのか、私には見当もつかなかった。
「そうだ、奥様」旅人はさも素晴らしいことを思いついた、というような口調で言った。「私に奥様の絵を描かせていただけませんか?」
「私の絵ですか?」
「ご迷惑でなければ、ですけど。泊めていただくだけでなく、こうしておもてなしをしていただいたお礼に」
絵の心得があるのろうか。絵のモデルになるなどはじめてのことだったが、悪い気はしなかった。私は快諾した。
自分から言い出すだけあって、男の絵はなかなか見ごたえのあるものだった。時間の都合もあり鉛筆による簡単なデッサンのみであったが、私はこんなに美しかったか、と驚くような女性が、そこには描かれていた。
「ありがとう、きっと大事にしますわ」
私は自室の箪笥に絵を大事にしまって眠りについた。
「お世話になりました」
翌日、旅人はそう言い残して南へと旅立っていった。
これは私にとっての少し変わった一日、であるはずだった。
※
「ごめんください」
玄関のあたりから声が聞こえた。午後五時を少し過ぎたところだった。
戸を開けると、そこにいたのは昨日の旅人だった。
「あら、忘れものでしょうか?」
私が訪ねると、旅人はきょとんとした表情をした。
「ここには初めて来たはずですが……あ、私は決して怪しいものではなく、南へと旅している途中で、一晩泊めていただけたらと思いまして」
旅人は私が彼を追い返すために芝居をしていると思ったようだった。その様子が演技に見えず、私はとりあえず旅人を家に招き入れた。
「あなた、本当に昨日の旅人じゃなくて?」
「そんなに私にそっくりの人がいたんですか? それはぜひお会いしたかったなあ。ははは」
登山家や旅人がたびたび訪れる山間にあり、集落から数キロ離れているこの家には、まれにこうした来客があるようだったが、二日続けて、それも同じ顔の旅人がやってくるともなれば私の理解の範疇をゆうに越していた。
なんとか気を落ち着かせようと、私は内線電話の受話器をあげた。
「タエさん、今日も来客があったから、お部屋と夕食のご用意をお願いできるかしら。それとそのお客様なんだけど……」
昨日の旅人と同じ顔だと伝えようと声を落としたところで、タエさんは昨日の旅人と一度も会っていないことに思い至った。「なんでもないわ、じゃあよろしくね」
「かしこまりました」
私はなるべく平静を装いながら、昨日の旅人とまったく同じ顔をした旅人に家を案内した。
「そうだ、奥様の絵を描かせてもらえませんか?」
その言葉を聞いたとき、私は食べていた海老フライを噴き出して卒倒しそうになった。
「それは、どうして?」
「もちろん、こうして泊めていただいたお礼にです」旅人は邪気のない(ように見える)顔で言った。
彩色までされていたが、今日の旅人(便宜的に旅人Bと呼ぼう)の絵は昨日の旅人(旅人Aとする)と比べてお世辞にも上手いとはいえなかった。
私はとりあえず絵を自室の箪笥にしまい、床に入った。嫌な予感がして、私はなかなか眠りにつくことができなかった。
「お世話になりました」翌朝、旅人はそう言ってまた旅立っていった。
※
「ごめんください」
その日の午後五時過ぎ。玄関のあたりからその声が聞こえた瞬間、私はその場で叫びだしそうになった。
祈りながら戸を開けるも、そこにあったのは例の旅人の顔だった。
「南に旅をする途中なんです」旅人は言った。
私は迷ったあげく、三人目の旅人(旅人C)を家に招き入れた。
恐怖心はあった。ただそれよりも、いま起きているこの状況を理解しきれないことが恐ろしかった。私はこの謎を解き明かしたかった。これでも昔は私立探偵のアルバイトをしていたことがある。推理力にも自信があった。
「奥様の絵を描かせてもらえませんか?」
私は旅人Cが絵を描き終えるまでの間、頭の中を整理していくつかの仮説を立てることにした。
仮説① 旅人A、B、Cは同一人物である
なんらかの理由で別人を装っているが、実は同じ旅人がぐるぐると回ってこの家に戻ってきているのだ。意図は全くわからないが、可能性としては、これが最も濃厚ではないだろうか。
仮説② 旅人A、B、Cは同一人物から作られたコピーである
これは仮説①と近いようで全く異なる、各旅人が同じ顔をもった別の個人であるというものだ。
つまり同一の顔をもつ三人の旅人は、オリジナルからなんらかの方法(例えば整形手術やクローンだ)でコピーされており、それぞれが旅をしているのだ。
現実的ではないが、仮説①の目的が分からない以上、私にはこちらの仮説のほうが魅力的に思えた。
仮説③ 旅人Aが我が家を訪れる一日がくり返されている(旅人B、Cは存在しない)
これは最も突拍子のない仮説で、旅人がやってくる同じ一日がくり返され、私だけがその一日の記憶を引き継いでいるというものだ。あいにくこの家にはテレビやカレンダーの類は置いていないので、正直なところ今日が何曜日かすら把握していなかった。
ばかばかしい、そう思いながらも、否定する根拠を見いだせないのもまた事実だった。
私はすべての仮説を検証することにした。旅人Cの描いた絵は抽象的で、まるで人の顔には見えないものだった。
※
翌朝、私は旅人Cが目覚める前に運動着やスニーカーを準備したうえで、なにくわぬ顔をして旅人Cを見送った。そしてすぐに、玄関で用意していた運動着に着替え、スニーカーを履くと旅人Cのあとを追った。
山道とはいえ、道は簡易な舗装がなされた一本道であったため、見失うリスクは少なかった。逆に見つかるリスクは高いため、尾行は慎重を極めた。旅人Cは時折、風景の写真を撮ったり珈琲を淹れたりしながら、マイペースに山を下っていった。
何時間歩いただろうか。旅人と違って歩きなれていない私の足が悲鳴を上げはじめたところで、ふと気が付いた。
今からでは、いくら急いでも旅人が毎日やってきていた午後五時過ぎに私の家にたどり着くことはできないはずだ。
私は山道を引き返すと、疲れた足に鞭打って家路を急いだ。
家に着いたのは午後六時半だった。
「良かった、誰もいないのかと思った。実は一晩泊めていただきたくて……」
疲れ切っていたのだろう。家の戸の前に座り込んだ旅人Dは相変わらず情けない顔をして言った。
「南へ旅されているんでしょう? どうぞお入りになって」
目を丸くした旅人Dを部屋に招き入れると、タエさんに夕食と部屋の準備をお願いした。
電話を切る前にふと思い立って、私はタエさんに尋ねた。
「この四日間で、この家に来た旅人は何人かしら?」
「四人です、奥様」
旅人Dが私の顔を描く間、私はまた、今日得ることのできた情報を頭の中で整理した。
仮説①(旅人A、B、Cは同一人物である)の検証結果 旅人Cと旅人Dが同一人物でなかったことから否定される可能性が高い
先ほど家へ戻るまでの間、私は一本道を誰からも追い越されなかった。つまり旅人CとDは別人であり、ほかの旅人もすべて別人と考えるのが自然である。
仮説②(旅人A、B、Cは同一人物から作られたコピーである)未検証
仮説③(旅人Aが我が家を訪れる一日がくり返されている)の検証結果 この四日間で四人の来客があっていることから否定される
もしこの仮説が正しいのであれば、タエさんは旅人Dを一人目の客人と認識しているはずだからだ。
「完成しました、奥様」
旅人Dの声に、私は現実に引き戻された。
「あら、早かったわね」言って時計を見ると、すでに描きはじめてから一時間半が経過していた。
その絵を見た瞬間、頭の中に電流が走った。私は仮説②の検証を終えると同時にもう一つの仮説に思い至った。
仮説②(旅人A、B、Cは同一人物から作られたコピーである)の検証結果 三人が全く異なる絵を描いたことから否定される
仮説④ なんらかの方法で同一の顔をもった旅人が三人おり、三人の旅人は順繰りにこの家を含む何か所かを回っている
旅人Dが描いた絵は、旅人Aが描いた絵と見まがうような代物だったのだ。
旅人A=旅人Dであり、明日来るであろう旅人E=旅人B……であれば、これから同じ顔の旅人が毎日来るとしても同じ顔をもった人間が三人だけいればよい。三人程度であれば、二人を整形手術で同じような顔にしてしまえば済む話だ。
旅人は三人おり、まるでエッシャーのだまし絵のように、私の家を含んだ同じ場所をぐるぐると回り続ける。
それは奇妙で、なにやら儀式めいた印象を私に与えた。
「どうかなさいましたか、奥様?」
「あなた……いったい何が目的なの?」
私は旅人の目を見て尋ねた。彼が顔を変える手術をしてまで(彼がオリジナルでなければだ)、これから何回、何十回とこの家を訪れることで何をしたいのか、私は確かめなければいけなかった。
プルルルル プルルルル……
緊張感が満たしていた部屋に電話の音が響いた。私は受話器を取った。
「そろそろ無関係の客人を問い詰めているころではないかと思い電話させていただきました」
受話器の向こうからはタエさんの声がした。しかし、私には彼女が何を言っているか理解できなかった。
「もう何度目になるか分かりませんが、説明させていただきますね。まず奥様が同一人物でないかと疑っている旅人はすべて別人です」
「そんな訳はありません。たしかに旅人A、B、Cは別人ですが、旅人AとDは同じ人で――」
「順をおって説明いたします。最初に奥様が全くの別人である旅人を同一人物だと錯覚した理由ですが、」
聞きたくなかった。何か恐ろしいことが起きはじめている予感があった。
「それは奥様が、すべての人の顔を同じ顔と認識してしまう病気だからです」
「私が……病気?」
私は旅人Dの顔に目を向けた。彼女の言葉を信じるのなら、私が見ているこの顔は、彼の本物の顔ではないということだろうか。とても信じられなかった。
「次に、残念ながら奥様は記憶障害を併発しています。その証拠に、ここが主に旅のお方をお迎えするペンションであることも覚えていらっしゃらないでしょう? 私が人前に姿を現さないのが、三人以上が一堂に会すと混乱をきたす奥様のためであることも」
「そんな…………。でも、そうよ、絵はどうなるの?」
「絵、でございますか?」
「旅人たちが同じように毎晩私の絵を描きたがったのは、偶然とは思えないわ」
「あれはお客様が来るたびに私がお願いしているのです。奥様は鏡に映るご自身の顔も他人と同じように見えるので、良ければ絵を描いてあげてもらえませんか、と。
先ほど旅人AとDが同じ人と言っていたのは、おそらく似た絵を描いたからだろうと思いますが、絵画に長けた人のデッサンは、素人目には同一人物が描いたと見えても仕方ありません。そして、それが奥様の本当の顔です。忘れないでください。家じゅうの鏡はもう割られてしまって久しいですが、あなたは老いてなお本当に美しい――」
私は受話器を叩きつけた。これが現実であると、信じたくなかった。
私は部屋から部屋へと鏡を探してまわった。しかしどこにも見当たらなかったので、浴室に入ると洗面器に水を張った。
覗きこんで、私は悲鳴をあげた。
そこにあったのは、上品な衣服を身にまとい、それでいてどこにも行くあてのない旅人の姿だった。
※
「ごめんください」
玄関のあたりから聞こえた声で、私はまどろみから覚めた。
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