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【ショートショート】「『思考室』の殺人」(1,933字)

 その部屋には『思考室』という名前が付けられていた。
 思考室の中には白衣を着た女が一人いるほか、刑事を名乗る男が一人いた。そしてもう一人、そこに倒れていた。

 倒れた男の胸にはナイフが刺さっていた。大量の血が流れ、男は明らかに死んでいた。

「彼は自殺です、刑事さん」

 白衣の女は弁解するように言った。死んだ男の胸がナイフで貫かれたとき、思考室には白衣の女と死んだ男の二人しかいなかった。

「事件があったときのことを話してみなさい」

 白衣の女よりも十以上年上の刑事は、落ち着いた様子で促した。

「私と彼はずっとこの思考室にいました。ただこの部屋は集中力が重要な部屋であるため、ブースで仕切られています。お互いがお互いの様子を知ることはできません」
「それで?」、あまり熱意のこもらない声で、刑事はさらに続きを促した。
「ただ、急にうめき声が聞こえたんです。すぐに私は悟りました、彼になにか起きたのだと。ただ、重要な業務の途中であったため、様子を見に行くべきか迷いました。千ページに及ぶ業務マニュアルを渡されていましたが、パートナーがうめき声を出した時の対処法は載っていませんでした」
「それで君は彼の様子を見に行った」
「いまにして思えば、それは間違いだったのかもしれません」
「そうだろうね。君の判断によって、数十万人が犠牲になっている可能性がある」
「ただ、私がすぐに救急車を呼んでいれば、彼一人は助かった可能性があったんです!」
「では、あなたはすぐに救急車を呼びましたか?」
「…………」
「そう、大地震が起きたせいで電話は不通になり、道路も陥没。あなたは最寄りの警察署まで歩いて警察を呼びに来るほかなかった」
「それに関しては責任を感じています。ただあのときはそうするほかなかった……」

 刑事はやれやれ、という風に首を振って部屋の隅まで移動すると、煙草に火をつけた。

 建物は高台に建っており、窓からは町を一望することができた。
 あちこちで建物が崩れ、商店では略奪行為が起きているのかガラスが割られているのが見て取れた。火事が起きたのだろう、黒っぽい煙が上がっている建物もいくつかあった。

 刑事は口から煙を吐き出しながら、一時はうまくいくかに見えた思考室制度には限界があったのだと悟った。

   ※

 思考室と呼ばれる部屋が作られたのは、もう二、三年前になるだろうか。
 その噂話は、刑事自身も幼いころに聞いたことがあった。

『地震や竜巻などの災害は、誰一人としてその災害について考えなかった一瞬に起きるのだ』

 馬鹿馬鹿しい話だった。これだけの人間がいるにも関わらず、誰もその災害について考えない瞬間があるはずがないし、そもそも考えなかったからと言ってその災害が起きるという意味がわからない。子供時代に流行った都市伝説と同じようなものだ、そう思っていた。

 ただそれが真実であることが科学的に証明された。
 政府は対応に追われ、その結果、設置される運びになったのが思考室だった。

 思考室はF県の山間に建設され、そこには地震や竜巻、台風といった部屋が設けられ、各部屋で二人ずつ、その災害のことだけを考え続ける思考員が配置されることになった。

 それからというもの、災害は一度も起きていない。大地震がF県近郊を襲った今日までは――。

   ※

「刑事さん、私は罪に問われるのでしょうか」

 白衣の女の目には涙が溜まっていた。

「さあ、今回の地震が誰の責任になるのか、今はまだなんとも。最近、彼に変わった様子は?」
「思考員全員に共通することですが、もし次の瞬間に災害が起きたらと、精神的に参って不眠状態だったようです」
「なるほど、確かに何もない状態で地震が起きたら、皆が君たちの責任を追及するだろうね。思考室にいる二人ともが職務を放棄していたことになるのだから――」

 そこで、刑事が持っていた無線から刑事を呼び出す音声が聞こえた。

「失礼。現場はそのままに」それだけ言って、刑事は部屋を出て行った。

 刑事が出て行ったのち、白衣の女は当時のことを思い返した。

 死んだ男が不眠状態なのは事実だった。カウンセラーに相談した記録も残っており、おそらく耐えきれずに眠ってしまったのだろう。
 ただ、自分はそうではない。ただ、ちょっとだけ推しのアイドルのことを考えてしまっただけだった。それがまさかこんなことになるなんて……。

 窓の外には阿鼻叫喚の景色が広がっていた。
 既にこれだけの人間が死んでいるだ。自分の責任を有耶無耶にするために一人ナイフで刺し殺したとしても大したことではないはずだった。

 白衣の女は自分が殺した男の死体を見下ろして「悪いわね」と一言だけつぶやくと、刑事が戻ってくるまでの間、ただ地震のことだけを考え続けた。











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