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「自分」というものが見つからないあなたへ No,3 高専時代

※No,1で姉との年齢差を二つ上と書いていましたが、正確には三つ上でした。訂正させていただきます。

私が中学を卒業すると同時に姉も高校を卒業した。姉の選んだ進路は県外の看護学校だった。

その学校は海の近くにあった。

姉の引っ越しを終えて「海の近くに住めていーなー」とのんきに言う私に対して、姉は「私は島流しにあうんだ」と嘆いていた。

こうして姉は巣立っていった。

私はというと、高専に進学した。

理由は

①.実家から自転車で5分、自分の学力で狙える一番上の偏差値

②.学校から推薦をもらえた

だった。

これを言い換えると、

①.たいした目的もなく

②.たいした努力をすることもなく

次の進路に進めてしまったことになる。

私がアイデンティティ迷子になるスタートだった。

高専という学校は、なりたい技術者像をしっかりと持った若者に対して、バチバチの英才教育を施す機関である。

私のクラスメイトも自分を確立していて私より大人びて見えた。劣等感を抱いた私は委縮し、元々低い意欲も手伝って、みるみるうちに落ちこぼれていった。

一方家庭内は相変わらず冷え込んでいて、私は毎日帰るのが嫌だった。ここで繁華街が近くにあれば世間一般でいう「不良」というものになれたのかもしれないが、あいにく私の周りには田んぼとタヌキしかなかった。

毎日嫌々帰宅し、祖父母が夕飯を食べリビングから出ていくのを確認してから、私はリビングに下り静かに夕飯を食べた。父と母は深夜に帰宅するので私一人だった。息をひそめる生活だった。祖父母もおそらくそうだったであろう。

そんな中でも両親と祖父母の会議は続いていたが、解決の糸口は見つからなかった。

そしてついに父が壊れた。

何とか会社には行っていたが、休日は布団を頭からかぶりひたすら寝ていた。私が声をかけると「俺のことはほっといてくれ!!」と怒鳴られた。

親父ごめんな。俺が寄り添ってあげれていたらよかったのに。ごめんな。

そしてその年の10月、父は自殺した。入水自殺だった。

最後に見た父は、にこやかに笑いながら私の頭をなでていた。

翌朝から、父の姿がなくなった。おそらく、私の頭をなでた日の深夜に一人で出発したのだろう。

警察に捜索願を出し、父の会社に連絡した。

母が帰宅したあと母と私とで、父の靴と置手紙が発見された川沿いを往復する日々が始まった。

そんな日々を何日か過ごした後、いつものように母の運転する車の後部座席で、河川敷から河川敷へ移動していた時のことだ。

ふいに涙がこみ上げてきた。特に感情が高ぶったとかそういうことはなかったのに、只々とめどなく涙がわいてきた。涙がツーと流れた時にはじめて自分が泣いていることに気づいた。自分で気づいたら、後はもう止められなかった。16歳の男が3歳児のように泣きじゃくった。

ブルーハーツの情熱の薔薇という歌がある。その歌詞に

「涙はそこからやってくる。 心のずっと奥のほう。」

というものがある。

この歌詞は真理だ。ネガティブとポジティブの違いはあるけれども涙がやってくる源泉は人の中に確実に存在する。私は確信している。

結局、父がいなくなってから一か月後に見つかった。

下流の堰のところで見つかったそうだ。腰にはビニール袋が固く結び付けられ、その中には、日付と住所と「私は○○というものです」と書かれた紙が入っていたそうだ。父の命日はこの紙に書かれていた日付になっている。

なぜ伝聞形で書いているかというと、私たち家族の中で父の死に顔を実際に見たのは祖父だけだからだ。警察から連絡があり、確認にいってきた祖父は「あれは見ないほうがいい」と言っていた。水死するというのはこういうことである。

父の葬儀では、ドライアイスの煙が立ち上る棺の中に、人の大きさの銀色の保冷バックのようなものが置かれていた、という認識しか私にはない。実際のところ今現在も父が死んだという実感は正直ない。

その後の高専での私の4年間はただただ無気力だった。成績は常に最下位付近で、かろうじて落第しないギリギリのラインを低空飛行していた。最後の卒業研究でさえ、自分で研究内容を決められずに担当の教授に多大な迷惑をおかけした。

高い授業料を払ってもらっているのにもったいないことをした。本当に親不孝な息子だ。ただ、なんとか留年せずに卒業できたのは唯一の救いだった。

こうして、15歳~20歳の高専での5年間は終わった。

ここまで読んでくださっている方がいるならば、不快な思いをされているかもしれません。申し訳ありませんでした。

しかし、家族を残して自殺するということは、実際にはどういうことなのか広く知っていただきたく思い、この場をお借りして私が体験した事実を書かせていただきました。

最後に、父の捜索のためにヘリコプターの要請をしてくださり、ご自身もボートに乗って捜索してくださったボランティアの方々、あれから10年以上たってしまいましたが、この場をお借りしてお礼申し上げます。本当にありがとうございました。




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