Peace Piece 〜初恋〜

ーあらすじー
音楽の専門学校に通うピアニストの卵の“ビル“。毎日のようにその店の前を通りながらいつかこんな店でピアノを弾いてみたいと夢見ていた。ある日、思い切ってピアノ弾きのバイトに応募し面接に向かう。そこで出会った店のオーナーのジョーになぜか心惹かれるビル。自分の気持ちに戸惑いながらも切なく苦しいジョーへの想いを募らせていく。
ある夜、ジョーからリクエストされたのは、オーディションの時に弾いた思い出の曲、ビル・エヴァンスの『Peace piece』だった。ジョーの思いに応えようと心弾ませて臨んだ先には、ビルにとって信じられない光景が広がっていた。
大人の階段を上る青年の、儚くも美しい愛の物語。


「 あゝ、大人だなぁ…… 」

最初の印象は確かそんな感じだったな。

僕は身長が181センチあるんだけれど、少し見上げる視線でジョーを見つめたんだ。その厚い胸の筋肉はシャツの上からでもしっかりとわかるぐらいに逞しかった。

好きな事をしてお小遣い程度の稼ぎになればそれでいい。そう思って探したバイト先は、いつもその前を通る度に “いつかは僕もこんな店で弾けたらいいなぁ“ と憧れを抱いていたピアノバーだった。

ダメで元々だ。勇気を振り絞ってメールでコンタクトを取り、アポイントを取り付けた。そんな風に自分から積極的に行動したのは初めてだった。オーディション当日、緊張しながらいつもは眺めているだけだったドアを開けて中に入ると、店の奥のテーブル席にその人がいた。僕が一礼すると彼は軽く右手を上げて、自分が座っている向かい側の席を差し、僕を招き入れた。

店に入ってみて、初めて中の様子を知ることができた。思った通りとても落ち着いた雰囲気だ。マホガニーのダークブラウンを基調とした二人掛けの丸テーブルがちょうどよい間隔で数席設けてある。床はもう一段深い色合いのフローリングで、古いけれど丁寧に磨かれた濃密な艶を放っていた。壁にはモノクロームの歴代ジャズピアニストたちの写真が掛けられている。天井から吊るされたペンダントライトはきっとアンティークだ。柔らかく、あたたかな光で僕を迎え入れてくれる。
重厚だけれどどこか懐かしい雰囲気にますます気分が上がる。ここで弾いてみたい。僕のジャズを。

店主のジョーは僕より二十も年上だった。落ち着いた話し方と柔らかな物腰に大人の男を感じて少し緊張した。オーディションで弾く曲は僕の一番のお気に入りだ。きっとうまくいく。そう信じて挑んだ。

弾いている間、時々僕はジョーの様子を伺い見た。反応が知りたかったのだ。
ジョーはピアノから少し離れたテーブル席に座り、軽く腕組みをし、目を閉じて微動だにしない。長く黒いまつ毛が頬に影を作る。彫りの深い完璧なフォルムの鼻梁にトクンと心臓が跳ねた。なんて美しいんだ。僕は半分見惚れながら、夢見心地で演奏した。
弾き終えるとジョーはゆっくりと目を開けた。そして立ち上がって拍手し、満足そうに大きく二度頷いた。

「 決まりだな。毎週金曜と土曜の夜だ。客からのチップは全て君のものだから、稼ぎたければ頑張ればそれなりに贔屓がつくはずだよ。ここはお酒はもとより、生演奏のピアノを聴きにくる常連さんが多いからね。みんな耳が肥えてる。その分、君の演奏が良ければいい稼ぎになるよ 」

「 はい、頑張ります 」

僕は音楽の専門学校に通うピアニストの卵。いや、本当は将来の夢はプロの演奏家なんかじゃなかった。昔から憧れていたのはこんな風に落ち着いた空間で、耳の肥えた大人の観客の前で好きなジャズを弾くこと。バーの経営者というのともちょっと違う。そんな才覚は僕にはない。ただ好きなだけ自分のピアノを弾ければそれで幸せだ。誰かのためじゃない、自分のために。好きなことだけをして、緩やかな人生を機嫌よく生きていたいだけだ。実にいい加減でわがままで頼りない、まだ大人になりきれない中途半端なヤツだ。取り柄はピアノだけという、要するにまだ僕は子供なんだ。


「 名前は?何て呼べばいいかな 」

「 ……ビル 」

「 え? 」

「 ふふ。ビル・エヴァンスが好きなんですよ 」

「 ああ、そうか。最近の若い子達はそうやってハンドルネームで活動するんだよな。ま、いいよ、ビル。よろしく頼むね 」

そう言ってジョーは僕の前に右手を差し出した。実にスマートに。

大人だな……。

僕は自分の右手を少し躊躇いがちに差し出しながら、今後初対面の人との挨拶は、こんな風にスマートに握手することにしよう、と心の中で決めた。

金曜日と土曜日の夜を、僕は待ち遠しく思うようになった。客たちは僕のピアノをとても気に入ってくれた。毎週末、ジャズ好きで美味い酒が目当ての客たちで店は賑わった。男性客と女性客の割合は半々だけれど、僕が優しく語りかけるように弾くビル・エヴァンスのナンバーは特に女性客に気に入られた。ひと月もすると、贔屓の客も何人かついた。演奏後の挨拶にテーブルを回ると、女性たちは必ず僕にチップをくれた。そして必要以上にギュッと手を握ったり、熱い眼差しを送ってきたりするんだ。僕はチップを受け取りながら、お返しのウインクをする。それだけの関係性なのに、女性たちの頬は上気し、目を潤ませていた。たまにお店が退けた後の誘いを受けることもあったけれど、僕は一貫して断り続けた。そんな時間があるなら、部屋に帰ってピアノの練習をしていたいのだ。往年のスタンダードナンバーを一曲でも多く弾けるようになって、そこに僕のオリジナルアレンジを盛り込む。クラシックと違って自分の個性を出してこそ、ジャズは楽しいし、お客も喜ぶと信じている。それはひいてはジョーのためでもあるのだった。少しでもジョーに気に入られたかった。こちらを向いてほしかった。

僕の一番好きな曲はビル・エヴァンスの『 Peace Piece(安らぎのかけら) 』だ。だけどいつも弾く訳じゃない。客たちはリクエストに応えない僕を「わがままビル」と冗談半分に揶揄したけれど、そんなに簡単には弾きたくない。何故ならこれは、バイトのオーディションの時にジョーの前で初めて弾いた曲で、彼がとても気に入ってくれた曲だから。弾き終わった後、彼は立ち上がって拍手してくれた。そう、僕にとっては特別なんだ。ジョーが僕を選んでくれた思い出の、大切なナンバーだから。


「 今夜はあの曲を弾いてくれないか 」

その夜、珍しくタキシード姿で現れたジョーが僕にリクエストをしてきた。

「 ……もしかして、『 Peace Piece 』 ですか? 」

「 ああ。そうだ。とても好きなんだ 」

僕は有頂天になった。今夜はジョーのためだけに演奏しよう。そう思うと心が弾んだ。少し新しいアレンジを入れてみようか。ジョーが喜ぶ顔が見たい。今夜は特別な夜になりそうだ。

何故こんなにもジョーに惹かれるのか、自分でもわからない。どう説明すればいいのか。相手は年の離れた、しかも男だ。憧れ?親しみ?いや、そんなんじゃない。一体この気持ちの正体が何なのか、自分でも説明がつかないんだ。ただ、ジョーの側にいるととても心が落ち着いた。そして時にドキドキした。気持ちが華やいだ。頭がクラクラした。何故かわけもなく涙が滲んだ。その答えを僕は導き出せない。僕はまだ愛というものの正体を知るには、人生経験が足りなすぎる。少し悲しく、もどかしい。彼の前に立つといつもそんな気持ちになって、自分の揺れ動く心を持て余すのだった。

ジョーはタバコの匂いがする。大人の男の匂い。ベチバーの香水と混じり合って甘く切なく香る。そしてその香りは、いつもすれ違いざまに容赦なく僕の頬を優しく撫でるように絡み付いてくる。その瞬間、僕はギュッと目を閉じて、深く息を吸い込む。そしてジョーの気配を五感をフルに使って全身に染み込ませる。いつもこの香りを感じていたい。あまりにもその香りが好き過ぎて、いつでもどこにいても思い出せるように、脳内で香りのシュミレーションができるほどだ。

こんな気持ちは誰にも言えない。そしてジョーには気づかれないようにわざと素っ気ない態度を取ってしまう。気づいて欲しい気もするけれど、拒否される事を考えるといてもたっても居られない。だから気づかれないように素振りも見せない。本当は気づいて欲しいけれど。


演奏の時間になり、スタンバイして客たちの入りを確かめる。今夜はやけにドレスアップした人が多いな。何かのパーティーなの?聞いてないけれど。
僕は定位置のピアノに近づいて客たちの前に立った。そしていつものように一礼し顔を上げると、ホールの真ん中のテーブル席にジョーがいた。

何?どうして?

そしてジョーの傍らに、真っ白いドレスを着た美しい女性が目に入った。

誰?綺麗なひと……。

すると客の一人が立ち上がった。確かジョーの古い友人のケヴィンだ。側にはケヴィンのパートナーがいる。いつもよりゴージャスにドレスアップしている。よく見るとどの席も正装したカップルばかりだ。

「 ジョー、結婚おめでとう!今夜はお祝いだ。ビル、二人のために特別な一曲を弾いてくれるね? 」

ケヴィンの言葉に一瞬、頭の中が真っ白になった。

そうか、そうだったのか。

ジョーは傍らに座る美しい女の人と目を合わせて微笑みあった。
そんな顔するんだ……愛する人には。そんな風に見つめ合うんだ……愛する人とは。そんな風に甘い表情を見せるんだ。そんな風に……。そんな風に……。

そこには僕の知らないジョーがいた。美しい人と見つめ合って幸せそうに微笑むジョー。その視線の先にいる人への愛しさが溢れて、スポットライトを浴びた二人の周りの空気だけがバラ色に輝いて見える。

突然突きつけられた衝撃に、胸の奥がギュッと掴まれたように苦しくなって息ができない。
何なんだ。どうしろと言うんだ。僕は一体どうなってしまうんだ……。

軽い眩暈に襲われた僕は、目の見えない老人のようにピアノに手をかけてのろのろと椅子に座った。足がガクガクして力が入らない。頭の中が真っ白で何も見えない。動揺して指先が震える。ジワリと嫌な汗が噴き出してくる。

期待が高まる拍手の中、とにかく落ち着かなければと大きく深呼吸した。そして僕は静かに目を閉じた。
鍵盤に指を乗せる。ジョーが好きな、僕にとっての特別な曲。

左手で単調な和音のリフレインをゆっくりと奏でる。右手のメロディーはガラスの粒子を散りばめたようにキラキラと躍動し、二人の頭上に光のシャワーとなって降り注いでゆく。これは夢なのだろうか。それとも現実?どちらなのかわからないまま、僕はしっかりと目を閉じて弾いた。少しでも瞼を開けると、僕の心を置き去りにして、勝手に迫り上がってくる透明な水滴を止めることは困難だと思ったから。

胸が押しつぶされそうな苦しみは、曲が進むにつれて少しずつ和らいでいった。僕は自分が奏でる音で自分を癒した。突然襲った驚きと悲しみは、強制的に心の奥深くにねじ込めなければならなかった。僕はなるべくフラットに、叙情的にならないように慎重に奏でていった。目を閉じたまま心を深く落ち着かせ、じっくりと自分と対峙した。僕は、誰のためでもない、僕のためのピアノを弾くことに集中した。

『Peace piece』の不協和音は僕の心と共鳴する。その歪な調べが、今のこの心情にしっくりくる。美しく、切なく、そしてとても苦しい。なぜジョーはこの曲が好きなんだろう。まるで僕とジョーのようじゃないか。どこまで行っても交わらない。美しいまっすぐな平行線でもない。歪に重なり合いながら違う方向を向いている。なんて狂おしい響きなのか。いっそめちゃくちゃにしたいのに、その調べはあまりに美しく尊くて、誰にも入ってこれない結界を作る。それは僕とジョーの二人だけの世界。僕の脳内シュミレーションで、ジョーの苦いタバコと蒼く薫るベチバーが混ざり合い、僕の心を締め付ける。

繊細な旋律を奏でる指先からは、音の粒たちがキラキラと光を放ちながら弾けて鍵盤の上を踊った。その時、不覚にも僕の瞳から一粒の涙がこぼれて落ちた。堪えるのに限界を超えたそれは、溢れ出るクリスタルのように頬を伝ってポロポロとこぼれ落ちていった。でも誰も僕が泣いているなんて気づかない。気づくはずもない。涙のわけはこの僕にだってわからないのだから。

息を呑むようにして聴いていた客たちは、僕の演奏が終わると一瞬の沈黙の後、スタンディングオベーションで僕とジョーと、美しい人を讃えた。

僕の奏でた音の光を浴びた二人は、見つめ合い手を取り合ってあいさつのような軽いキスを交わした。それはとても日常的で、あまりにも自然で、二人の間に既に完成された甘い生活を垣間見るような動作だった。そのキス一つで、僕は完全に打ちのめされた。二人の間に育まれた、誰にも入り込むことのできない特別な絆を見せつけられた。それは決定的だった。それを認知した僕の中で、何かが音を立てて崩れた。

客たちの鳴り止まない祝福の拍手の中、ジョーはにこやかに客たちに礼を言い、一人立ち上がって僕の方へと歩を進めた。
スローモーションでジョーが近づいてくる。その瞳は今まで見たことがないくらいに、穏やかで幸福に溢れた微笑みを称えていた。

そんな目で見つめないで。そんな幸せそうな顔をしないで……。

目の前まで来たジョーは、お客たちを背にして僕一人だけに特別な笑顔を見せた。その時、僕の潤んだ瞳と頬を伝う涙の跡に気がついたジョーは、物言いたげに目を細め、困ったように眉をひそめた。言葉はなかった。彼の目に映る僕は、相当ひどい顔をしていたのだろう。ジョーは誰にも気付かれないように、僕にだけわかる熱い視線と切ない微笑みをくれた。そして初めて会ったあの日のようにスマートに右手を差し出した。

その瞬間、ジョーに出会ってから密やかに僕の心に育まれてきた「 安らぎのかけら 」は頬を伝うクリスタルの涙のような光の粒子に姿を変えて、ジョーの差し出された掌へとこぼれ落ち、音もなく儚く消えていった。


ー fin ー



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