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夏の空はどこまでも高くて Vol.2

クライアントとの食事はいくら高級なフレンチでも全く楽しむという余裕がない。私は相手に気付かれないよう静かにそっとため息をついた。

今流行りのジビエ料理にはコクのあるフルボディの赤が合う。こんなに贅沢な食事とワインはとっておきの相手と楽しんでこそ、その価値を享受できるというもの。心に余裕と潤いがなければ、単なる堅苦しい食事会だ。


「今回のプロジェクトは絶対に成功させなければならない。今夜はその前祝いですよ。」

「そうですね。必ず成功させましょう。」

グラスを合わせて口に含む。芳醇な香りが鼻に抜けて複雑で深い旨味を感じる。こんなに美味しいものを一人で(実際には目の前に人がいるのだが)楽しむのはなんとも味気なく、仕事であることも相まってつまらなさが倍増する。これならチェーンの居酒屋で発泡酒かと思うほどに薄っぺらな生ビールを飲んでいるほうがよっぽど気持ちが軽い。


ビール飲みたいなぁ…

夏が近づく季節になると思い出す。二人で乾杯した缶ビール。アパートの裏の河原で彼と一緒に飲んだあの味。キラキラした幸せの確かな感覚を熱く火照った体に注ぎ込むようにゴクリと飲み干した。あれ以来、あの時以上に美味しいビールを飲んだ記憶はない…。


何故二人は別れてしまったんだろう。大学を卒業するまではうまくいっていたのに。


私の就活が思いのほか早く、誰もが知っている名の知れた商社に決まった時は二人して祝杯を挙げた。彼はその後しばらく奮闘した結果、第三希望くらいのウェブデザインの会社に決まった。規模は小さいけれど、自分のやりたい事が存分にできると納得の上で喜んでいた。

卒業してからも彼との時間は幸せだった。二人とも毎晩残業でウイークデイはほとんど会えないからその分余計に週末が待ち遠しかった。一緒にいられる時間は学生時代と比べて桁外れに減ったが、私の彼への愛情は少しも減らなかった。仕事でクタクタに疲れていても、一週間ぶりに彼に会えると思うと金曜の仕事は大いに捗った。このまま二人はずっと一緒にいて、いずれ自然に結婚という形へ進んでいくのだろうと、漠然と信じていた。

信じていたのは私だけだったのだろうか…。

若い二人の間にはしっかりとした約束ごとも将来への計画も、具体的には何一つなかった。


「ごめんミホ。今週は会えない。たまった仕事を土日で仕上げないと、週明けのコンペに間に合わないんだ。ホントごめん!」

いつからかそんな風にして少しずつ二人の時間が減っていった。

仕事と言われると何も言えないのはお互い様だと思っていた。それがなんとなくLINEの数も減り、会話も減り、いつの間にか週末が来る事が楽しみではなくなってしまった。


あれから十年…。私は33才になった。それなりに恋をして、アラサーになる前に結婚を考えた時もあった。でも充実した毎日はそれ以上に魅力的で、今では新しく立ち上げたプロジェクトのチームリーダーに抜擢されるほどになった。私は仕事一筋でいい。周りの同僚たちが判で押したように同じ社内の将来有望な商社マンと結婚していくのを横目で見ながら、彼女たちがこの会社に入った目的と理由をあからさまに見せつけられているようで心がざわついた。そうすると余計に私の内なる声が聞こえてくる。

「私は仕事よりも大切だと思える本当に好きな人と結婚する。そうでなければ結婚する意味がない。このポジションを捨てる価値はない。」

いや、本当の理由は他にあるのかもしれない。私はいまだにあの夏の日よりも美味しいビールをまだ彼以外の人と飲んだ事がないのだ。


数日前、突然届いたLINEはあの頃よく一緒に遊んだ彼の後輩のカナタからだった。

カナタの結婚の報告は私に一つの希望を思い浮かばせた。


「ねえ、お祝いしようよ。三人で。リョウジ、呼んでくれない?」


自分が何をしようとしているのか、何処へ行こうとしているのかは分からない。ずっとずっと、この十年間もしかしたら待ち続けていた瞬間が今その時だと直感したのかもしれない。


*****


待ち合わせの店は十年前と変わらない佇まいだった。まるであの頃にタイムスリップしたかのようだ。

店内はまずまずの賑わいで、中ほどのテーブル席に座るカナタの顔が目に飛び込んできた。そしてその手前には見覚えのある懐かしい背中。


リョウジ…。

懐かしさと切なさと嬉しさと。後悔なのか希望なのか。たくさんの感情が一気に沸き上がり胸が高鳴る。その背中に近づく数歩の間に今の自分の姿をもう一度確認しておきたいと思ったが、次の瞬間リョウジが振り向いた。

驚いたように目を見開いたリョウジはあの頃のままだった。いや、十年という時間があの頃より精悍になった顎のラインに大人の男を感じてドキリとする。私は自分のそんな焦りを感じさせないように、わざと明るい声を出した。

「元気やった、リョウジ?」

「え?   ああ、 うん。」

「私がカナタに頼んでん。リョウジと会いたいって」

その瞳には明らかに困惑の色が見てとれた。リョウジは微妙な笑顔と共にビールグラスをその形のよい唇に運んだ。


続く


*往復書簡~noter間のCHEMISTRY~(このシリーズはマガジンでお楽しみ頂けます。)








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