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Cafe SARI . 16 / Garden

この店に通い始めて3ヶ月が経った。

3年ほど付き合った彼女と別れて半年が過ぎ、ひとりの時間にようやく慣れ始めたころ、秋の初めの人恋しさに耐えられず、週末の長過ぎる夜を持て余してふらふらと裏通りを歩いていた。そして人気の少ない薄暗い通りに漏れたあたたかな光に誘い込まれるようにして、僕はその店に近づいていった。

扉の横には「 Cafe SARI 」と書かれた小さなシルバーのプレートが掲げてある。カフェなのかバーなのか、少し戸惑いながらその扉を押し開けた。

「いらっしゃいませ」

店主らしき女性がカウンターの中から僕に声をかけた。

店の中には数人の客がいた。カウンターの一番奥の席に40代後半ぐらいの男性がひとり、真ん中辺りに落ち着いた雰囲気の大人の女性がひとり、そして小さなテーブル席に30代半ばぐらいのカップルが一組座っていた。こじんまりとして落ち着いた雰囲気に安堵しながら、店の中をぐるりと見渡した。

僕はどこに座ればいいか迷い、カウンターの中に立つ女性を見た。

「どうぞこちらに」

そう言って奥の男性客とは反対側のカウンターの端の席に僕を案内した。

「ビールを、ください」

「はい、お待ちくださいね」

女性店主は柔らかな微笑みで僕の言葉に答えた。




照明の仄暗い、落ち着いた店内にはジャズピアノが静かに流れていた。ビル・エヴァンスだ。いつもひとりの部屋で聴いている音色は初めて訪れた店の緊張感を瞬時に溶かし、ソワソワする僕の心を落ち着かせてくれた。

「お待たせしました」

目の前に置かれたグラスビールを一口飲み込む。柑橘のような風味が爽やかな、軽い味わいのビールだ。初めて味わうフルーティーでスムーズな喉ごしに思わずもう一口。喉が鳴る。うまい。

「いかがでしょうか。最近取り扱い始めた山梨のクラフトビールなんです」

「とても爽やかですね。美味しいです」

店主は先ほどよりさらに親しみ深い笑顔で微笑んだ。

「よかった。お口に合って」

飲みやすさと軽さが乾いた喉に心地よく、一気にグラスを空けた。あぁ、こんなにうまいビールは久しぶりだ。部屋でひとりで飲む酒の寂しさと虚しさに、いつの間にか慣れてしまっていた自分を振り返って気づく。もっと早くここにくればよかった。

「お近くですか?」

「あ、はい。駅向こうなんですけど、こちら側には普段あまり来ることがなくて。今夜は散歩がてらちょっと足を伸ばしてみました」

「そうでしたか。今夜は月が綺麗ですもんね。夜のお散歩、いいですね。じゃあ、途中少しここで休憩していってくださいね」


カウンターの端の男性客がおもむろに傍らに置いた袋に手を掛けた。その中からワインらしきボトルを取り出し、店主に声をかけた。

「沙璃さん、今夜はこれ。オーガニックワインの美味しいのを見つけたから、飲んでみない?もちろん持ち込み料金はしっかりつけといてね」

「わぁ、いいですねぇ!直哉さん、いつもありがとうございます」


常連なんだ。店主は沙璃さんっていうのか。ふうん、なんだか親しげだな。これを飲んだら僕は帰ろう。

少し居心地が悪くなって2杯目のビールを僕は急いで煽った。

そして立ち上がろうとした時、直哉という常連の男性客が僕に話しかけてきた。

「ねぇ、君もどう?よかったらこれ、味見してみない?」

「え?僕ですか?」

「そう。せっかくここで会ったんだから、お近づきの印に」

「あ、はぁ。え、でも……」

僕はスツールから腰を少し浮かせた状態のまま、数秒間固まってしまった。

「私も頂きます!」

僕が躊躇しているとカウンターの真ん中に座っていた女性客がいきなり手を挙げた。

「ですよねぇ、皐月さん。みんなで飲めばより美味しい!」

直哉という客が店主の沙璃さんからワインオープナーを受け取り、手際よくコルクを抜いて4つのグラスに注いでゆく。それをカウンター越しににこやかに見つめる沙璃さん。沙璃さんの向かいのカウンター席には皐月さんという、親しげな女性客。そっか、ここは常連さん達の集まる店なのか。そうだよな。僕みたいな一見はきっとイレギュラーなんだよな……

思いを巡らせながらグズグズしていると目の前にワインの入ったグラスが運ばれてきた。

「じゃあ、かんぱーい!」

直哉さんが声をかける。三人が一斉にグラスを持ち上げた。

僕は慌てて目の前に置かれたグラスを取り、一呼吸遅れて「頂きます」と小さく言ってそのルビー色の美しい液体を見つめた。

グラスの口に鼻を近づけると、すみれの花のようなかわいい香りがふわりと鼻腔に広がった。

「うん、美味しい!」ワインを一口味わった沙璃さんが微笑む。この人の笑顔、いいなぁ。なんだかリラックスする。

「あら、いいわねぇこれ。私、好きだわ」皐月さんが直哉さんに向かって感想を述べる。この人たちはここでいつもこんな風に一つのワインをみんなで味わいながら楽しんでいるのだろうか。

僕は遅れてワインを口に含んだ。それを沙璃さんが遠慮がちに眺めている。

うまい。

「どう?」と、直哉さんがカウンターの端から僕の反応を伺うように声をかけてくる。

「とても美味しいです。僕、あまりワインは詳しくない、というか全然わからないんですけれど、これはとても美味しく感じます。香りもいいし、渋くない。とてもフルーティーです」

「いいねぇ、よかった!」直哉さんが満足げに微笑む。それからは三人各々が思い思いの感想を述べ始めた。オーガニックワインのなんたるかもわからない僕は、その意見を興味深く聞いていた。

しかしその話しぶりから、三人はそれほどワインに詳しいわけではなさそうだった。ただ自分が感じた味や香りを、自分の言葉で少しでも相手に分かりやすく伝えようと、比喩や例え話を交えながら好き勝手にワインの味わいを表現している。いいな、この自由な感じ。僕は段々楽しくなってきて三人の話に聞き入っていた。

「オーガニックって私的には"浅い"ってイメージなんだけど、これはとても深みがあるわね。そしてこれくらいの仄かな甘さが好きだわ。あまりしつこいのは苦手なのよね」皐月さんが自分の感想を言う。沙璃さんがうんうんと頷いて微んでいる。

「オーガニックってなんかクリーンなイメージだよな。飲んでるだけで内臓が清められるような気がする。ねえ、沙璃さん」直哉さんが沙璃さんに話を振る。

「そうね、気分的なものかもしれないけれど、なんとなく身体にも優しくて内側からキレイになれる気がするわ」

「あら、沙璃さんはもう十分お美しいですわよ」

「あら、皐月さんもそれ以上お美しくなったら大変ですわよ」

女性二人がお互いに褒めあって冗談を言い、それをカウンターの奥で直哉さんがニコニコしながら聞いている。

きっとこの店で知り合った人たちなのだろう。それなのに誰もがリラックスしていて昔からの知り合いのように親しげにしている。僕はいつの間にかすっかり気持ちも安らいで、2杯目のオーガニックワインを当たり前のように注いでもらっていた。

「みなさんこちらのお店には長くいらっしゃってるんですね。僕は今夜初めて伺って、とても居心地よくさせてもらって嬉しいです」

「ありがとうございます。お陰さまでここは何度も来てくださる方が多いですね。裏通りで静かだし、ゆったり飲めるって仰ってくださるんですよ」

沙璃さんが僕のグラスにワインを注ぎながら控えめに言う。

「僕もここに来始めてからワインを嗜むようになったんですけどね、家で一人で飲んでてもまぁ美味しいんだけど、ここにこうして持ってきて沙璃さんの料理を食べながらみんなで飲む方が数倍旨いもんでね。店には迷惑だろうけれどこうして時々持ち込みさせてもらってるんですよ」

「へぇ、いいですね。自由で」

「その美味しいワインを私もお相伴に預かってます。私もひとりなものでね、なぜかここに来ると良いことがあるというか、元気をいただくのよね。そしてワイン大好きなもので、ここにきて直哉さんがいるとラッキー!となる」皐月さんがワイングラスを光にかざして色を確かめるようにしながら茶目っ気たっぷりに言う。

それぞれがひとり時間をこうして楽しめる空間。

そうか、ひとりだからこそ楽しめることってあるのかもしれないな。僕も今夜一人で来たからこうしてワインを一緒に楽しませてもらえたんだ。もしも二人で来ていたら、この出会いはなかったかもしれない。


「僕、半年前に彼女と別れて。今はひとりなんです。本当のことを言うと部屋でひとりでいるのが寂しくて、ふらふらと夜道を歩いていたらこのお店の光に誘われて……」

あれ、僕は何を言い出すんだろう。思わず自分の言っていることに引いて言葉が詰まってしまった。


「みんなそうですよ」 直哉さんが呟く。

「え?」

「二人でいても寂しい時はある。いや、二人だからこそ、寂しさが倍増するのかもしれないな」

「あら、直哉さんたら、それは贅沢ねぇ」皐月さんが割って入る。

「あ、私、前谷皐月っていいます。よろしくね。そしてあちらのワイン提供者は河原直哉さん。こちらは店主の片岡沙璃さん。沙璃さんと私は正真正銘の独り者なの。だからあなたの寂しさは痛いほどわかるわよ。ねえ沙璃さん。えぇっと、お名前伺ってもよろしいかしら?」

「あ、はい。僕は……神谷拓海といいます。よろしく」

「拓海くんね。もうあなたは今夜から Cafe SARI のお仲間よ。いつだってここへ来て、自由な大人時間を楽しめばいいの。ふふふ」


それから週一、いや週二でここへ通うようになった。彼女がいた頃は喧嘩ばかりして二人でいることが苦痛に感じることもあったけれど、別れてみるとその寂しさは予想以上に僕にダメージを与えた。けれどここに来るようになって、沙璃さんのおすすめのワインを飲みながら少しずつその美味しさを覚えていって、沙璃さんの料理を食べながら僕のことや沙璃さんのことや季節のことや音楽のことや、とにかくたくさんいろんな話をするようになって。そしてここで出会う人たちと言葉を交わしながらゆったりとした大人の自由時間を過ごしていくうちに、僕の中の空洞が少しずつ何かで埋まっていく感覚があった。それが一体何なのかはよくはわからないのだけれど。とにかく僕は、ここに来るようになってから寂しくなくなった。


「沙璃さん、僕、ここに来るようになって、ひとりの時間がとても楽しいんだ。なぜだろうってずっと考えているんだけど、よくわかんないんだよね。ひとりなのに寂しくない」

「それはよかった。実は私もそうなのよ。この店を始めてから、ひとりでいることが孤独ではなくなったの」

「それはなぜ?」

「きっと “みんな同じ“ ってわかったからかな」

「みんな同じ?」

「そう。ひとりでいても、二人でも。もっとたくさんの仲間といてもね。みんなひとりだし、みんな孤独なのよ。でもそれは悪いことじゃない。ひとりだから味わえることや出会えることってたくさんあるから。そしてそれを大事にすることがきっと自分の中身を満タンにしてくれるの。幸せの種はあちこちにあるわ。その種を拾って自分の中に蓄えているとね、いつの間にか花が咲いて心の中がいっぱいになるの。私はそれを自分の心のガーデンとして、大切に育てているの」

心のガーデン。そこに咲く花は時が経てば枯れて朽ち果てる。でもまた落ちた種から新しい芽が出て花が咲く。そうやって繰り返していくうちに土は肥え、次々に美しい花たちが彩り豊かに咲くガーデンが出来上がっていくの。沙璃さんはそう言って微笑んだ。

僕の中のガーデンはまだまだこれからだ。たくさん花が咲くように、恵の水や栄養を取り入れないと。人間は皆ひとり。そしてみんな孤独。ひとりでいても大勢でも。それがわかったら寂しさなんて感じない。そして一人一人が自分の心に美しいガーデンを、日々少しずつ育てているのかもしれない。


「拓海くん、少し寒くなってきたから今夜はブイヤベースにしたの。魚介たっぷりで白ワインに合うわよ。カリフォルニアのシャルドネ、いかが?」

「うん、いいね。いただきます」


半年前の孤独な僕はもういない。いや、孤独なのは一緒だけれど、こうして言葉を交わす人たちがいる。その場所は僕にとってのガーデン。たくさんの花がいつも咲き乱れて、心はいつも暖かな春のようだ。

ここに来てよかった。ひとりだけど、孤独じゃない。


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