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Cafe SARI .14 「日常にご褒美を」

お盆を過ぎて数日が過ぎたある日、季節が移ろいゆくのをはっきりと肌で感じた。

相変わらず蒸し暑く、蝉の声が高い晴天に向かって伸びやかに響いてはいるけれど、夕刻の風が以前とは明らかに違うと感じる。あぁ、もう少し。沙璃は苦手な夏が峠を越えたことに少し安堵して、足取りも軽く店へと向かった。

夏休みの休暇が明けると、仕事始めと同時にまたここへ集まってくるお客たち。独り者の沙璃はお盆休みの間は少し寂しい状態の日々を過ごすけれど、休暇明けにリフレッシュした馴染み客たちに再会できることが楽しみで、今夜は誰が来てくれるだろうかと胸を躍らせていた。

残暑厳しい今日のメニューは、冷たいカッペリーニにしようと思い立った。甘みと旨味の強いフルーツトマトを使った爽やかな夏のパスタ。この季節は特に人気の、さっぱりとした喉越しのスパークリングや辛口の白ワインに合うだろう。沙璃はフルーツトマトを乱切りにしてコンソメをお湯で溶いたボールにいれ、塩胡椒、ニンニク、バジル、オレガノ、パセリ、そしてオリーブオイルを混ぜ合わせて冷蔵庫に入れた。カッペリーニは細くて茹で時間も短いので客が来てからでいい。茹で上がったら冷水でしめて、冷蔵庫で冷やしておいたトマトと和えて最後にフレッシュバジルをちぎって散らせば出来上がりだ。食欲が落ちる季節も食べやすくてきっと気に入ってもらえるだろう。

あとは人気のピクルスと、クラッカーにクリームチーズと桃とディルをのせ、粗挽き黒胡椒でアクセントをつけたカナッペにしよう。さっき店に入る前に、隣のフラワーショップ『ラパン』でブーケを仕入れた。ひまわりをメインにした元気いっぱいのアレンジを注文すると、オーナーの友美さんが田舎の岡山から送ってきたという立派な桃を5個もくれたのだ。食べごろだから冷やしてすぐに食べてねと言われたけれど、一人ではとてもじゃないが食べきれそうもない。これはもう、今夜のメニューにしてみんなで美味しいところを分かち合おうと決めた。美味しいものは一人で食べるよりも好きな人たちと味わった方が更に味しいと感じるようになった。一人の時間をたくさん過ごしてきた今の自分だからこそ、それはとても幸せなことだと気づいてからだ。特別に美味しいものや素敵なことほど、独り占めにするのはもったいないと思うようになった。


下拵えが整って店をオープンするとすぐに、最初のお客がドアを開けた。見覚えのない顔に沙璃は少し緊張する。Cafe SARIには珍しい一見客だ。年のころは沙璃と同じアラフォーだろうか。白いサマーニットのアンサンブルに夏らしい麻のワイドパンツ、ヒールのあるミュールと小さめのバッグがお洒落で、一見して仕事帰りではなさそうに見える。この辺に住むご近所さんかな? 沙璃は様子を伺いながら笑顔でカウンターの真ん中の席をすすめた。

「いらっしゃいませ。よかったらこちらへどうぞ」

「はい、ありがとうございます」

気持ちのいい受け答えに品の良さが滲み出る。沙璃は新しいお客に対して最初はいつも少し構えるけれど、一言交わすと大体打ち解けてしまう。これは沙璃の生まれ持っての性分だろうが、人見知りのくせに一瞬でその人の心を溶かす天性の人なつっこさを併せ持っている。自覚はないが、常連客が口を揃えていうのだからそうなのだろう。自分のことは案外自分ではわからないものだ。


「お飲み物は何になさいますか?」

「えぇっと……。あの、私、あまりお酒に詳しくなくて。よくわからないので、何かお勧めはありますか?」

「そうですねぇ、お酒はお強い方ですか?」

「いえ、そんなには……」

「では白ワインのソーダ割りか、赤ワインをオレンジジュースで割ってフルーツを入れたサングリアなんていかがでしょう?飲みやすくていいと思いますよ」

「はい、お任せします」

お客の女性は嬉しそうに微笑んだ。

沙璃は初めての新しいお客のために、ワインセラーからイタリアのライトボディの白ワインを一本選び抜いた。キュッキュッキュッと鮮やかな手つきでコルクにオープナーをねじ込み、テコの要領でグイッと浮かせ、パンッと弾けるような音とともにコルクが抜けた。女性客はカウンター越しに沙璃の手元をじっと見つめている。カウンターに肘をついて祈るように両手の指を絡ませ、キラキラした瞳で見つめてくる様子は、これから始まる時間に心を弾ませているのが手に取る様に伝わってくる。沙璃は女性に見つめられて緊張よりも嬉しさが増した。今夜は楽しんでいってほしいな、そんなふうに期待を込めながら氷を入れたロンググラスに白ワインを半分ほど濯ぎ入れる。そこにソーダを静かに入れ、ライムを絞ってミントの葉を飾ると爽やかな夏のカクテルが出来上がった。

女性は一口飲んで、その笑顔に一層輝きを増した。

「わぁ、美味しいです!さっぱりしていいですね」

そしてもう一口ゆっくりと味わった。


「お近くですか?」

「えぇ、いつもこの前を通っては気になっていたんです。いつか入ってみたいなぁって」

「そうですか。それは嬉しいな。ありがとうございます」

「でも、なかなか勇気が出なくて……。でも今日こそはと、思い切ってドアを開けました。素敵なお店ですね。あぁ、勇気を出してよかった」

「勇気? 女性一人だと、勇気がいりますか?」

「いえ、その、私はこんなお店にはもともとあまりご縁がなくて。これまでバーというところに入ったことがなかったんです」

「そうでしたか。でも今日は勇気を出して入ってくださった」

「はい。特別な日なので。今日こそは自分に少しご褒美を出してもいいかなって思いまして」

「特別な日?」

「はい。実は、今日は私の40歳の誕生日なんです」

「まぁ、それはそれは。おめでとうございます!」

「はい。ありがとうございます。でも、私、専業主婦なんです。普段は家にいて何もしていなくて。自分で自分を褒めたり、ご褒美をあげられるようなことがなんにもなくて。だからこんなお店で気軽に楽しむこともできなくて……」

グラスに添えた手元に落とした視線は、少し寂しげな影をたたえた。短く切り揃えられた爪はネイルをしていない。少し手肌がカサついているように見える。普段は堅実な主婦業に勤しんでいる様子が伺えた。


「そんなことはないですよ。主婦業って大変じゃないですか。家の仕事は終わりがないし、やって当たり前のところがあるでしょ?いつも綺麗にしているおうちだと、家の人たちはそれが当たり前だから感謝の言葉や態度も蔑ろにされたりして。あ、いえ、一般論ですけれどね。そんな愚痴をよく聞きますよ」

「はい。確かに家の中の仕事は終わりがないです。誰に褒められることもないですしね。だから余計に、自分で自分を認められないというか。今日も実は主人に相談したんです。ここに行ってもいいかしらって。そうしたら是非行ったらいいよって言ってくれて。仕事が終わったら自分も行くから、一緒に誕生日のお祝いをしようって」

「まぁ、素敵な旦那様ですね!よかったじゃないですか」

「はい。でも、なんだか申し訳ない気持ちの方が強くて。だから今日は朝からベッドカバーを洗ってお布団を干して、全部の部屋を掃除して床の拭き掃除もやって、いつもよりも沢山動いてさっきようやく自分に許可を出しました。これで行ってヨシ!って」

「へぇぇ、それはお疲れ様でした。でも、そこまでしなくてもいつもちゃんと家事なさってるんでしょ? だったらたまには息抜きしてもいいんじゃないですか?でなかったら楽しみがないし、バーで一杯飲むぐらいの余裕がないと煮詰まってしまいますよ」

「はい。そう思います。どうもダメなんですよね。自分で自分をうまくコントロールできなくて。きっと今の私は自分に自信がないんだと思います。結婚するまでは仕事で評価されることもあって充実していましたけれど、今は何もないし。子供もいなくて自分の能力に誇れることが何もないんです」

そんなものかと沙璃は驚いた。自分も専業主婦の時代があったけれど、そんなふうに自分を卑下したことはなかった。毎日のように買い物に行ってバランスのとれたメニューを考えた美味しいご飯を用意して、洗濯や掃除をしてうちの中を清潔に保つだけでも結構な労力だ。これを外注したらとんでもない費用がかかるだろうと思う。やって当たり前のことなどない。それぞれの家庭によって見解は違うだろうけれど、パートナーや他の家人と同じ価値観でいられることは、そう簡単なことではないのかもしれないと改めて考えさせられた。

「旦那様は普段は感謝してくれないんですか?」

「いいえ、そんなことはないです。ちゃんと言葉に出して言ってくれますし、とてもやりがいはあります。ただ、自分が許せないというか。こんなふうにいい思いをする時間を、どうしても自分からは持てないんですよね」

「それって悲しくないですか?」

「え? 悲しい?」

「そうですよ。だって別に家事をサボってるわけでもないし、何も卑下することなんてないんじゃないでしょうか。外で仕事をしているからといって偉いわけじゃないし、子供がいないからってダメなことではないですよ。事情も価値観も人それぞれですし、自分の人生を自分が楽しまなければ、一体誰の人生ですか?って言いたくなっちゃいます」

「はい。そうですよね。わかります」

「人と話すと面白いですよ。たくさんの価値観や考え方を知ることができます。すると自分の視野も広くなって、それまで悩んでいたことや行き詰まっていた考えとかがスゥっと解れたりするんです。うちの中で一人で悶々と考えているだけじゃ辛くなるばかりです。もっと外に出て、たくさんの人と話す機会を持たれるといいんじゃないかなって思います」

「はい。本当にそう思います。ありがとうございます」

「だから、またここへ来て下さい。そしてお話ししましょう」


茹で上がったカッペリーニを冷水でしめる。冷やしておいたフルーツトマトのソースと和えて出すと女性の表情がふわっと明るくなった。

「さぁ、食べてください。美味しいですよ。たまには人が作ったものを食べるのもいいものですよ」

女性はカッペリーニを一口食べて目を輝かせた。

「本当に!美味しいです。これ、どうやって作るのか教えていただけますか?」

「もちろんいいですよ。でも、まず今日は存分に楽しむことにしませんか。美味しい桃のカナッペもどうぞ。岡山の桃なんですよ」

「わぁ、美味しそう!うちの主人、岡山の人なんです。あとで来たらこれ、食べてもらいたいなぁ」


幸せそうは表情には先ほどまでの杞憂の影は微塵もなかった。きっと本当は何もダメなことなどないのだ。心配するようなこともなにも。小さな枠の中で一人で考えていることなんて、人に話してしまえばどうということもない。なのに何故、人は窮屈な枠の中に自ら入ろうとするのだろう。いや、きっと入っていることにも気づいてはいないのかもしれない。見えない鎖に縛られ、苦しい思いをしているのは自分だけで、誰もそんな風に責める人などいないのに。いたとしてもその価値観に縛られることの無意味さを気付けるかどうかだ。

一体誰の人生ですか?

これは私の人生です。

そう言っていいんですよ。あなたも、私も。


軽やかになった女性の表情をさらに輝かせるように、ビルのピアノが後ろで弾んで聴こえた。

「今夜もいい夜ですね」まるでそう言っているかのように。


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