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Cafe SARI . 1

陽が傾き始めた午後四時半。沙璃はカップに残った冷めたコーヒーを一気に飲み干し、大きく一つ深呼吸した。

「よし、そろそろ用意するか」


シンクにカップを持っていく。あぁそうだ、そろそろ薬を飲む時間だ。さっと濯いだカップに水を汲み、1日2回のアレルギー薬を飲んだ。

この時期、沙璃はとても憂鬱になる。外はすっかり春めいて暖かな日差しが気持ちいい季節なのに、桜が咲く頃が一番ピークとなるスギ花粉に毎年のように悩まされるのだ。洗濯物は外に干せないし念入りにお化粧をしてもすぐに涙目っぽくなって痒くてたまらない。マスクは5月のゴールデンウーク明けまでは毎年欠かせなかった。春の新色リップはもう何年も前から買わなくなって久しい。


鎖骨の下まである髪を後ろに集めてクルクルと捻る。手が覚えていて、まとめ髪は鏡がなくてもあっという間に美しい夜会巻を作る。菜箸のような黒い漆塗りの髪留めを使いグサリと刺して固定する。真っ白なコットンシャツに袖を通して第3ボタンまでを開ける。後ろ襟を立てて深いVゾーンを作ると、気分はようやくお仕事モードに切り替わる。シャープかつ一匙のセクシー。沙璃が目指すフランス女優をイメージして。

店までは歩いて5分。先に店の物件を決めてから住む部屋を探した。そこは人目にはつきにくい、駅前通りから一本入った小さな路地裏にある。いわゆる「看板」は出していない。胸の高さの位置に、名前の入ったシルバーのプレートに柔らかな灯りが間接的に当たるようにしているだけだが、臭覚の鋭いある種の人たちにはこういった店を探し当てるアンテナが備わっているようだ。自然と似たような雰囲気の客たちが集まる。静かだけれど気取らない、ゆったりとした空気が流れるシェルターのような店が、沙璃のホームである「Cafe  SARI」だ。


3年前、沙璃は夫と離婚した。原因はいまだによくわからない。ある日突然、夫は精神に限界をきたし仕事を辞めた。そして沙璃に告げた。

「すまない。一人になりたい。君とはもう、続けられないんだ。君のせいじゃない。これは僕一人の問題だ。本当に申し訳ないと思ってる。僕は疲れてしまった」

精神的に弱い人だということはわかっていた。その分、自分が強くなって支えなければと思っていた。しかし頑張れば頑張るほどに、夫との心のズレは開いていった。考え方の違いは問題ではなかった。逆に全く同じという夫婦の方が少ないのではないだろうか。それぞれの違いを認めつつ、弱い部分を互いに補い合って、二人で築いていくのが理想だと思っていた。だが夫に沙璃の気持ちは伝わりきれていなかった。力になりたいと思えば思うほど空回りし、それが夫にとって負担になっていた。これ以上寄り添えないとわかった瞬間、沙璃は夫から離れることで夫を救いたいと思った。

慰謝料はいらないと言ったけれど、沙璃の人生を台無しにしてしまったと詫びる夫から、せめて一人での暮らしが、この先苦しくない程度に生きていけるようにと、沙璃にとっては十分すぎる金額が口座に振り込まれた。

沙璃はこの資金を元に、揺るがない自分の居場所を作りたいと願った。人と人との関係性は、いくら永遠を誓い合ったといえども、その未来には100%の保証はない。それが痛いほどわかった。愛していても続けられないことはある。自分一人ではどうにもならないことはある。だからこそ、安心できる居場所を作って、自分一人が頑張りさえすれば報われる、確かなものを手に入れたかった。


Cafe  SARI には毎晩のように通ってくる常連客もいれば、決まった曜日だけ来る客もいる。夕刻の頃にオープンし、軽い食事と共にお酒を楽しめる大人のカフェ。いわゆるバーというのとも少し違う。もっと明るくて入りやすい店をイメージして作った。5人が座れるカウンターと二人がけの小さなテーブルが一つ。女一人で回すにはちょうどよい大きさだ。

木曜日の今夜は佐伯さんが来るはずだ。沙璃は佐伯の好きな小エビとキノコのアヒージョを今夜のメニューにしようと決めた。毎晩、二つか三つ、日替わりで酒の当てになるようなメニューを拵える。それが思いのほか好評で、酒よりもつまみが目当てで来てくれる客も多い。大抵は仕事帰りの一人客だが、仲間を誘ってくる者もいればデートに使ってくれる場合もある。男女比は半々だ。カフェバーにしては珍しく、若い女性の一人客も多い。こじんまりした店の作りとカジュアルな雰囲気、暗すぎない店内、そしていつも静かに流れているビル・エヴァンスは沙璃の好みだが、そんな気軽なしつらえが女性客にウケが良かった。そして何より彼女たちはこの店のママ、沙璃との会話を目的にやって来るのだった。恋愛相談だったり仕事の悩みだったり、近すぎない人との会話は彼女たちにとって心救われるひとときであり、ファッションやお洒落の話も仕事を離れてリラックスできる楽しみでもあるのだった。

暗すぎず、カジュアルで品のいい雰囲気の Cafe SARI は若い男性客にも好評だった。狙ったわけではないのだが、老舗のような格式あるバーは敷居が高くて行きにくいという若い男性たちにとって入りやすく、そして料理が旨いし女性客も多いとなれば願ったり叶ったりのようだ。

今夜もいつもの席に着いたこの店の若い男性客の一人、佐伯がカウンター越しの沙璃に愚痴まじりの泣き言を言ってきた。佐伯は名の知れた広告会社に新卒採用で入社して4年目、26才の将来を期待された若手ホープ。仕事の付き合いも多く、酒の席の愚痴をいつも沙璃に聞いてもらっていた。

「沙璃さん、聞いてよ。この前上司に誘われて行った店がさ、一度行ってみたかった老舗バーだったんだけど、おじさんばかりで嫌んなっちゃったよ」

「まぁ、老舗の高級バーってところは、普通おじさまが多いよね」

「しかもどこぞの会社のオーナーとか偉い人ばかりでさ、お互い名刺交換しながら醜いマウント合戦なんだよ。ここは猿山か!っての。んで、俺みたいな若造を標的にしてさ、何だか知らないけど社会の常識だとか女の口説き方だとか酒の飲み方だとか、こっちは聞いてもないのに指南してくんの。マジうざい。“教えたがりおじさん“ メッチャ疲れた!」

「あはは、それは災難だったわね。それで今夜はうちにハネ伸ばしにきてくれたんだ。どうもありがとね」

「あぁ、やっぱここはいいわぁ。落ち着いて飲めるし、誰もマウント取らないし。しかも沙璃さんみたいな素敵なママに話聞いてもらえてさ、ストレス解消だよ」


沙璃は今年40になる。決して若くはないが、いわゆる「おばさん」の域にはまだまだ遠い。ほとんどすっぴんの肌にはうっすらとチークを入れるだけで落ち着いた色気を醸し出す。沙璃は女を売りにするような商売はしたくなかった。自分自身が心地よくいられて、尚且つ人として信頼のおける関係性を築いていける客だけを相手にしようと決めていた。それが客にも伝わるのか、ある一定のレベルを保ちつつ、気さくで品のいい顧客で安定している。沙璃はそれが何よりの自慢だった。

佐伯の愚痴を聞いてやりながら2杯目のハイボールを作り、沙璃も自分のために軽めのジントニックを作った。佐伯とグラスを合わせる。結婚生活では叶わなかった、人とのカジュアルな会話は沙璃にとっても心のリハビリになっているのだった。

「アヒージョ旨い!沙璃さんほんと料理上手いよね。俺も料理が上手い彼女作ろっと」

「何言ってんの。今どき男子は料理ぐらいできなきゃ、それこそ彼女なんてできないわよ。自分で作んなさい。お酒に合うものはお酒を飲む人間の方がわかると思うわよ」

「まぁそうなんだけどさ。やっぱ女の子は料理ができないよりかはできる方がよくない?」

「そんなの男の勝手な言い分でしょ。旨いものが食べたけりゃ、お金を出すか自分で拵えるかよ。男も女もカンケーないの。そんなこと言ってたらマウントおじさんたちと同じになっちゃうわよ。嫌がられるのがオチよ」

「わぁやだ!俺、それだけは避けたいっす」

「美味しいものを食べてる時はただ「美味しいね」って楽しめばいいの。誰が作ったとかお金出したとか、そんなのは考えちゃダメ。ただ美味しいことをその場に一緒にいる人とひたすら味わえばいいのよ」

「ハァ〜い。そうします!沙璃さん、ハイボールおかわり!」

「オッケー、今夜はすすむクンだね」


今夜も温かい。そして美味しくて楽しい。

外は春の風が満開の桜の花びらを散らしている。

Cafe SARI では今宵もゆるゆるとやさしい時間が溶けていった。



ー 続く(?)  ー


このものがたりは、Cafe barのママという私の理想とする仕事をバーチャルで体験しようという試みで書き始めました。カジュアルで明るくて人との繋がりを大切にする憩いのスペース。そこに美味しいお酒と料理があればサイコーにハッピーじゃない?そんな架空のバーで遊びながら働く私の夢物語です。第二話はどんなお客様が来店されるか、私も楽しみながら待ちたいと思います🥰下のマガジンから他のお話も読んで頂けます🎶よろしければどうぞ。


#小説 #バー  #Cafe SARI 



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