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【エッセイチャレンジ11】桃

昔、役員秘書をやっていた。役員室に続く調度品が並ぶ廊下の手前にある秘書室は、普通の部署と同じく無機質な空間であった。3口ガスコンロと、食洗機付きシステムキッチンがある以外は。

この部署の特殊なところは、贈答品をもらう頻度だった。そしてその種類。
定番どころは日持ちのする焼き菓子。年度始まりなど、アンリシャルパンティエやヨックモックの箱でタワーができた。

年末年始や就任挨拶など、何かの節目には高級和菓子で格式高く。厳かな包装紙に包まれたそれらは、味も見た目も重々しく、受け取る手に沈み込むような確かな密度があった。

次いで多かったのが、季節の果物である。


***


「桃をいただいたよ。せっかくだから、少し切ってくれるかな」

役員から早速そう仰せつかった。心なしか声が弾んでいる。食通で有名だが、最近血圧を注意された彼の健康を気遣ってのチョイスだったのだろうか。それなら正解だ。兎にも角にも、こんなときのためのキッチンである。
桃なら合わせる飲み物は何だろう。冷たい緑茶で良いかな・・・とグラスの準備をする。飲み口の銀縁が上品なグラスはNoritakeのものであっただろうか。
先輩が食器棚前でお盆を持っている私に声を掛ける。

先輩
「○○ちゃん、もうひとり役員さん入ったから、桃もうひとつ切ってくれる?私が切った分は先にお出ししちゃうから」

私が考えていることはひとつだ。
桃・・・どうやって切るんだろう。

***

実家暮らしで家事なんてろくに出来ない私は、フルーツの切り方も知らなかった。
しかも、桃。たぶん家で食べるのは年に片手で足りるほどだ。確か大きな種があったよな・・・母はどうやって切っていたっけ・・・ありがたみも感じずにただ口に運ぶだけなのだ。形なんて覚えているわけない。
必死で思い出そうとしても、蜜を纏いてらてら光るつるんとした桃缶しか出てこない。ぽっかり口を開けたような黄桃。

少しくらい母の手伝いをするんだった。自分が恥ずかしい。でも、切り方がわかりませんなんて言うのはもっと恥ずかしい。
私は記憶を総動員して、全神経を集中させ、文字通り桃色のそれに対峙した。

***

結局、中央の種を避けながら桃を8等分し、最後に皮を剥いた。ようはりんごの切り方と同じである。当時の私が唯一馴染みのあった果物。種の周りの繊維がやや毛羽立っているが、比較的まともな仕上がりだ。
その中でも特に形の良い4切れをガラスの小皿に盛り、柄の細い銀色のデザートフォークを添える。
お盆に載せてしずしずと運ぶ。歩くときは踵から着地し、滑らかにつま先を下ろすイメージで。ノックは3回。


無事に桃を出し、戻って来たキッチンでは、先輩が私の切った桃の残りを見ていた。私が戻って来たことに気が付き「○○ちゃんって、桃こんなふうに切るんだね」と言った。

先輩は私の7つ上。クラシックピアノと茶道を嗜み、壇蜜のようなしっとりとした話し方をする美人だ。立ち振る舞いがたおやかで立てば芍薬、座れば牡丹・・・を体現していた。秘書の手本のような方だが、「悪い方じゃないんだけど」を枕詞に陰口を言いやすいところがあって、苦手であった。

ドキッとしたが、先ほどのセリフに関しては、注意や嫌味ではなく純粋にどう切ったか不思議だったようだ。確かに、先輩が切った桃は私とは全く違う形である。形は均一ではないが、なんとなく統一感があり、断面がみずみずしい。スパッといった切り口が印象的で、迷いがない。さすが、切り慣れている・・・心の中で呟いてから、私は武士か、と思った。とにかくどう切ったか予想がつかない。
先輩は参考までに、と言いつつ残った桃で切り方を見せてくれた。

先輩は桃の皮を全て剥くと、剥き出しになった果実に包丁を斜めに入れ、スパッ、スパッと種から削ぎ落とすように切った。半円、菱形、三角。いろんな形の桃がまな板に並んでいる。
そして、手に残った種におもむろにかぶりついた。

先輩
「こうやって、種に残った桃にかぶりつくのが最高なの。切り手の特権。」

そう言っていたずらっぽく笑った。

***

美しく、ちょっと嫌味な先輩の、豪快な開口。残念ながら彼女のことは最後まで苦手であったが、桃を見るたびにあのときの驚きを思い出す。

柔らかなそうに見える桃の産毛が、実は鋭く肌を傷つけるように、取り澄ました先輩のあえてな粗雑な振る舞い。あの瞬間は、確かに彼女は私に心を許してくれたような気がするのだ。

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