【エッセイチャレンジ21】アリとキリギリス
かつて私はアリとキリギリスの物語を人生の教訓としていた。
もちろん私が手本としていたのはアリ。
コツコツ働き、きつい仕事にも辛抱強く耐え、最後には暖かな部屋で家族と共に豊かな冬を送る。地道。堅実。安定。まるで紺色一色のワードローブみたいな人生。でも、きっとこれが私らしいのだ。
今思えば、私は決してキリギリスにならないぞ、とムキになっていたのだと思う。後先考えずに遊び呆け、自分の食いぶちすらままならなかった愚かなキリギリス。
どうして最低限の蓄えすらしなかったのだろう?
どうして夢ばかり見たのだろう?
どんな顔してアリにすがったのだろう?
たとえ変わりゆく季節の変化に気付けなかったのだとしても、無知は罪だ。
***
父と母は私が生まれる前から、小さな、本当に本当に小さな商店を営んでいた。それでも良いお客さんが付き、私を奨学金なしで大学に行かせてくれるくらいの生活ができたのは、両親の人望あってこそだろう。
休日の夜はソファで半分埋まってしまうような小さな居間で、父母は身を寄せ合い、焼酎の水割りを飲みながらレンタルDVDを観る。柱には幼い私たちの身長記録が刻まれ、破れた部分を貼り足した障子は、和モダンとかレトロとかの言葉ですらフォローできないほどの有り様だ。
そこへどこからともなく私や弟が加わって、ポテトチップスなど食べながら、パリパリ音を響かせ、ああでもない、こうでもないと好き勝手な考察大会が始まり、父は閉口する。
だが、父は決まって父はクライマックスまでに酔っぱらって眠ってしまうのだ。だから問題ない。そうしていつも通り3人でエンドロールを迎える。感想を交わし合ってから、もう仕方ないなぁと言いつつ父を起こし、布団へ誘導する。
そうして、私たち姉弟はネジが緩んでぐらつく銀色の手すりに手をかけ、2階の自室へ向かいながら「おやすみ」を言うのだ。
私たちは裕福でなくとも豊かで、幸せな小さな家族だった。
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18歳のとき、家業が潰れかけた。
理由ははっきりとは書かないが、取引先が潰れたとか、父が倒れたとか、そういったものではない。事業主が果たすべき義務を果たさなかったのだ。
父は自分の怠慢のせいで家族に迷惑をかけることを不甲斐ないと嘆いた。いつも気丈な母は明るく振舞っていたが、それがかえって痛々しかった。家族の経済状態など考えもせず、稼いだバイト代を交遊費や洋服代に好きに使っていた私は自分を恥じた。
大学を辞めた方が良いのか。バイトを増やして家計を助けた方が良いのか。そんなことを考えているうちに父はどんどん思いつめ、うつ病になった。母は気弱な父に当てられ、さすがに疲労困憊していた。
私は今の生活を続けられない不安より、両親が衰弱していく姿を見るのが恐ろしかった。
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大きな痛手をこうむったが、家業は首の皮一枚で繋がることとなった。
私は大学を辞めることも怪しいバイトを始めることもなく、今まで通りの生活を送ることになった。
しかし、絶対的な安心の象徴が崩れた衝撃は胸に深く刻み込まれた。平凡で豊かな、暖かな場所。
人生は一晩で変わるんだ。
引き起こしたのはほんの少しの怠慢。
家族が普通に笑い合えるようになるまで2年かかった。
***
私は「やりたい」「やりたくない」は考えず、候補先を安定企業ばかりに絞って就職活動を始めた。
自分探しと称して留学する友人、起業する友人、夢を追ってフリーターになる友人をどこか冷ややかな目で見ることで、羨ましい気持ちを周囲からも自分からも巧妙に隠した。
幸いにも4社から内定をもらい、その中でも一番堅い会社に入社した。仕事は辛かったが、辛ければ辛いほど、将来の自分の幸せに利子が付くような気がして安心できた。
私は今、不幸を前払いしている。
だから絶対にキリギリスにはならない。
***
結局、私は「不幸の前払い」を長く続けることができなかった。わずかばかりの貯金と引き換えに、大切なものを消耗した日々であった。
そもそも、幸せまでの道のりが幸せでないと誰が決めたのだろう。
アリはただ好きなことをしていただけで、その結果幸せな未来があったのかもしれないのに。
「辛い=勤勉」「楽しい=怠慢」とは限らない。幸せを積み重ねることで、大きな幸せに辿り着くことだってあるはずだ。
そんなことに気が付くまでに10余年もかかってしまった。
***
「畑で採れた野菜、持ってって。」
母からそんな電話をもらい、久しぶりに実家を訪れた。家業は順調な様子で、新しい従業員を迎えていた。
ふと玄関に目をやった。
少しくすんだ灰色のFAX機能付き固定電話。銀のフレームに入れられた、私の息子たちの写真。そして、父が可愛がっている桜の盆栽がちょこんと並んでいる。
いつもの玄関の風景の端っこに、見慣れない虫籠が置かれていた。
母「お客さんが籠ごと持ってきてくれたの。最初はおっかなかったけど、なかなか可愛いのよ。」
視線を感じたキリギリスは、誇らしげに「キー」と鳴いた。
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