見出し画像

『ブルシット・ジョブ』とトイレの清掃員

デヴィッド・グレーバーの『ブルシット・ジョブ』を読んで【読書メモ】を書こうと思ったのだけれども、面白すぎてメモには収まりきれそうもない。本当に面白い本って、読みながら、また読んだあとも、色々と思うところが浮かんできちゃうものだと思います。

『ブルシット・ジョブーークソどうでもいい仕事の理論』デヴィッド・グレーバー著、酒井隆史・芳賀達彦・森田和樹訳、岩波書店、2020年。

アメリカ合衆国の文化人類学者でアクティヴィストのデヴィッド・グレーバー(David Graeber)の Bullshit Jobs: A theory. Allen Lane. 2018. の邦訳本です。

グレーバーは、世の中のなんの役にも立っていないことを自認しながらも、やらざるを得なかったり、いや意味があるんだと自分や他人を騙さないといけないタイプの仕事を「ブルシット・ジョブ(以下、BJ)」としています。誰も見やしないのに、無駄な議事録・資料・企画書などを書かされる、というのは典型的なBJです。

このBJは、なんとなく同じ思いを持つ人びとが多く存在していたにもかかわらず、暗黙の了解なのか誰も言及してこなかったものです。そして近年、BJは増殖の一途にあります。生産性を追い求める市場原理のもとにありながら、なぜか生産性の無いBJが増殖しているのです。

BJは、エッセンシャル・ワーカーのような明らかに世の中の役に立っている仕事よりも、なぜか高給取りです。その背景には、BJに就く人びとからの、意義のあること・好きなことをやっている人に対する妬み・嫉み、そして、人びとから役に立つと思われる仕事ができているのだから(すでにそういった感謝されることが報酬のようなものだから)さらなる報酬を求めるなどもってのほかだ、という感情があります。

こうした感情は僕の身近にもよく見られます。サラリーマンとしてあくせく地道に働くことが善であり、音楽・芸術・演劇・その他の文化的活動で身を立てようとする(またはしている)人に対して発せられる「好きなことをやれていいよね〜(呑気でいいよね〜)」という嘲笑まじりの羨望です。

支援活動など人の役に立つことに携わる人に対する偽善者視もあります。自分がやっていることは「世の中の役に立たない」ということを自分でも分かっているのがBJワーカーですから、明らかに人の役に立っている人を見ることで相対化される、自分の惨めさがそこにあります。

僕には、このあたりについて、色々と思いを巡らすことがあります。

今回のコロナ禍で、医療従事者はもちろん清掃員などを始めとしたエッセンシャル・ワーカーがいかに大切な存在か、多くの人が感じたといいます。その感謝の心はとても良いとは思いつつ、一方で「そんなのコロナ禍の前から普通に感じておけよ」と、ちょっと悪態をつきたくなる気持ちもあります。

僕の大学には大学院生が利用できる部屋があるのですが、集中できるところなのて、コロナ禍の前は毎日のように朝一番に行ってました。部屋のすぐそばにはトイレがあり、朝に行くとだいたい掃除をしてくれている方と鉢合います。なので、おはようございますと感謝の気持ちも込めて挨拶することも多いです。それって当たり前だと思ってました。

でも、それは決して当たり前ではないようです。

僕の身内には、オフィスビルの清掃員として働いている人がいます。その人からはトイレの清掃作業中に遭遇した、非常識な、さらに言えば、精神的暴力性を持つ人びとの話をよく聞きます。トイレがきれいに使用されていないのは日常茶飯事で、清掃員が邪魔だと言わんばかりにあからさまに舌打ちをしたり、まさにシットや吐瀉物がぶちまけられていたり、ひどいもんです。しかも驚くことに、そういった人びとは外から入ってきた悪意ある不審者というわけではなく、だいたいがビルに勤める普通のオフィスワーカーだというのです。

そういう話を日頃から聞いていたので、そのことが今ある社会をなにか象徴しているように感じていました。

僕はこれまで、そうした人びとには、掃除を業務とする人に対する根本的な差別感情があるのだと思っていました。それもあるのかもしれませんが、それほど単純でも無いのかもしれないと、『ブルシット・ジョブ』を読んで思うことがありました。

トイレの清掃は、明らかに人のためになっている仕事です。そういう人を見たBJワーカーは、自分のブルシットさ加減が強調されて惨めになり、言い知れない妬みの感情が芽生えたのではないでしょうか。もちろん、だからといって、清掃員に対して横柄な態度をとること、そのはけ口とすることは正当化され得ません。

目の前に相対している人は、モノではありません(もちろんモノだって大事に扱うべきですが)。相対するその人は、誰かの親であったり、誰かの子であったり、誰かの兄弟姉妹であったり、誰かのパートナーであったり、誰かの親友であったりします。自分の大切な人が、尊厳を傷つけられるような仕打ちを他人から受けたとしたら、どれほど悲しく、腹立たしいことでしょう。決して許すことはできないはずです。

でも、そうしたBJワーカーは、そこに思いが至らないようです。というのも、自己や他人を欺き続け、意味の無い仕事を続けることを強制されると、人は精神が破壊されてしまうからです。

となると、BJワーカーという個人の問題ではなくなります。グレーバーが指摘しているのは、BJワーカーという個人ではなく、BJという「仕事」についてです。そのあたりは、グレーバーの人間に対する大いなる優しさを感じます。

いかにBJが無益であるどころか、害悪をもたらしているか。そんなBJを量産する社会の仕組み。グレーバーが投げかける数々の言葉は、非常に重要だと思います。

この記事が参加している募集

読書感想文

真心こもったサポートに感謝いたします。いただいたサポートは、ワユーの人びとのために使いたいと思います。