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世界平和の「世界」とは、どこのことだろう?

「世界平和」っていうフレーズは、理念として素晴らしいはずなんだろうけど、どこかしっくりとこないところがあります。「平和」それ自体は疑いようもなく良いとは思うのですが、それが一度「世界平和」ってなってしまうと、う〜む…って、考えこんでしまいます。

そもそも「平和」って概念は、世界共通なんでしょうか。

平和を希求する指向性は、どこの地域の人びとも共通に持っているような(そうであって欲しいという想いも過分に含みつつ)気がします。でも、希求するその「平和」、それが想定とするところは、世界のみんなの間で共通しているのでしょうか。

どういう状態を「平和」とするのか、その平和観については、実に多様だと思います。

「世界平和」という言葉は、非の打ち所がない普遍的に良いことである、というイメージを持たれるかもしれません。でも、「平和」と「世界」がくっつくと、そんな多様な平和観を一様なものとしてしまう危険性を孕んでしまうように思います。

「世界平和!」と大声で叫ぶ(なぜか概して声がデカかったりしますが)人がいます。その一方で、「あなた方が考える平和と、私たちにとっての平和は違う」と言う(概して声がかき消されるか気にも止められなかったりもしますが)人もいます。

どうして、いまだに、「世界平和」は達成できていないんでしょうか?

いまだに達成できていないことには何かしらの理由がある訳で、そこへの熟慮なしに放たれる「だって世界平和が一番っしょ」というのは、有無を言わさず一方的に振りかざす暴力のようにも思えてしまいます。なんか世界平和という「バールのようなもの」で殴ってる感じがします。

宇宙から見れば地球はひとつ、イッツ・ア・スモールワールド!(ちょっと揶揄が過ぎました…申し訳ございません…)なんて俯瞰して見る視点がある一方で、地べたを這いつくばって見てみると、いつまで経ってもお互いに理解が進まず、国境線どころか平行線が地平線まで果てしなく続いてる状況があったりします。

宇宙ステーションから地球を見ると、なんて青くて丸くて美しいんだろう。そこには地図のような国境線なんて引かれていない、と言うのはそれはそうなんでしょう。

でも、その宇宙から地球を俯瞰するために消費されるもの(燃料・鉱物)は、人びとがうごめく地べたの下にある天然資源であったりもします。それこそが異なる平和観の平行線を生み出している、目下、問題となっている元凶そのものだったりもします。

世界平和という考えは、頭の中が“お花畑”の人の考え、という言説があります。僕は、そうした揶揄には与しません。ですが、その”お花畑”には、解決すべき土地問題もあるし、気候変動による水不足も深刻だし、根強い反対のある種苗問題もある、そのことを脇に置いておくことはできません。

「平和」を望むのは僕も彼も彼女もみんな同じだ(と信じたい)けれども、気になるのは、その「平和」の有りようです。

同様に「世界標準」や「世界市民」のように、ある言葉にくっつけられた、その「世界」は、具体的にはどこの誰のことを示しているのでしょうか。めんどうくさいだろうけど、そのことを愚直に考えることが大切なのだと思います。

世界平和でいわれるところの「世界」とは、どこの誰が住んでいるところなのでしょうか?

それは誰にとっての平和なのでしょうか?

いったい誰が求めている平和なのでしょうか?

字面では「世界」であっても、ある特定の限定された地域の人びと、ある特定の利害関係を持つ人びと、ある特定の階層の人びとの考えを、実は代表して表している、ということもあるかもしれません。

「世界平和」というキラキラネームは、その眩ゆい”光”が故に、その背後にあるものを”影”にして見えなくさせる、そんなことがあるかもしれない。

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