見出し画像

共存のオルタナティブ:AIと先住民の「部分的つながり」からの一考察

※本稿は、2019年12月に作成したものです。

はじめに

筆者は、南米コロンビアの北西部ラ・グアヒラ(La Guajira)県に暮らす、国内最大の先住民族ワユー(Wayúu)の手工芸品製作活動について、地域研究・文化人類学の視座から研究している。この筆者の立場から、AI(人工知能:Artificial Intelligence)との共存可能な社会について考察を試みる。

一見すると、筆者の研究テーマとAIの双方はまったく関わりが無いように思える。だが、その関わりを説明する前に、まずは「共存」の語義について確認しておきたい。広辞苑第七版には、共存とは「自分も他人もともどもに生存すること」、「同時に二つ以上のものがともに存在すること」とある。つまり、「AIと共存する」という言葉には、「AIは他者」であり、「AIは人間とは別のもの」という認識が含まれている。

文化人類学は、単純化を恐れずに言えば、「他者へのまなざし」の学問である。「他者」とは、人間だけではなく、ものや事象も含まれる。ワユーは「私たちではない」という意味で「他者」であるし、AIは「人間ではない」という意味で「他者」である。ワユーもAIもともに、自己とは異なる人やものを「他者」と認識しているという点では通底している。このことからすれば、筆者の研究テーマの「ワユー」へのまなざしは、「AI」へのまなざしについての考察に、寄与し得るものがあるのではないだろうか。

ここから双方の連関が見えてくる。共通する問いは「他者との共存可能な社会はいかなるものか」である。とはいえ、双方をまったく同じ事象として捉えている訳ではない。双方の差異を認めつつ、ワユーを通して見えてくることと、AIを通して見えてくることの共約可能な部分に着目する。本稿は、この問いに基づいて、筆者の研究テーマや地域研究・文化人類学の視座を用いつつ、共存社会の在り方を考察する。結論を先取りすると、筆者の考察が行き着く先は、「共存」とは別のオルタナティブな社会の在り方である。

I. 領域を越えるもの

I-1.「○○が仕事を奪う」という言説

AIにまつわる言説として、よく見受けられるのが「AIが仕事を奪う」である。AIの進化によって、機械が担える仕事の範囲が人間の領域にまで拡大することは、そのような仕事に従事する人びとにとっては脅威となる。しかし、これと似たような言説は、他の事象でも見受けられないだろうか。例えば、「移民・難民」である。主に、ヨーロッパ諸国においては中東やアフリカから、アメリカ合衆国においてはメキシコや中米から移民・難民が流入することに対する排斥運動が起こっている。そして、人びとが移民・難民の排斥へと向かう一つの要素として「移民・難民に仕事が奪われる」という考えがある。

筆者が研究のフィールドとしているコロンビアのラ・グアヒラ県は、カリブ海沿岸に位置し、ベネズエラと国境を接する。近年、ベネズエラの国内の政情不安と経済危機により、ラ・グアヒラ県に流入する移民・難民が急増している。

ベネズエラからの移民・難民の増加の背景を簡単に概観しよう。2013年、約14年の長期政権を築いた、チャベス(Hugo Chávez)元大統領が死去し、その政治体制を引き継いだのがマドゥロ(Nicolás Maduro)現大統領である。権威主義色を強めるマドゥロ政権は、反政府派を抑えつけて民主主義を弱体化させた。さらに、経済や財政の失策によってハイパーインフレーションを引き起こし、経済危機を招いた。外貨流出を防ぐための輸入制限による国内の食料品や医薬品の不足が、多くの移民・難民を発生させる要因の一つである。この3年間で、300万人以上(総人口の約1割)が国外に脱出した(坂口2018a; 2018b; 2019)。

ベネズエラ移民の流入が一番多いのは、隣国コロンビアである。国内のベネズエラ移民に対する行政登録調査(Registro Administrativo de Migrantes Venezolanos en Colombia: RAMV) によると、国内で登録されたベネズエラ人は442,462人であった。ラ・グアヒラ県内のベネズエラ移民は国内で2番目に多い74,874人(16.92%)で、首都ボゴタ市43,483人(9.83%)を上回っている(RAMV 2018)。

ベネズエラからの移民・難民が増加している最中、筆者は2018年8~9月に、ラ・グアヒラ県の県都リオアチャ(Riohacha)市で現地調査を実施した。その際、ベネズエラ人に対するリオアチャ市民の様々な感情に触れた。やはり「ベネズエラ人はコロンビア人の仕事を奪っている」という意見が多くあった。ベネズエラ移民は現地の相場よりも安い金額で仕事を引き受けるため、それが現地人の生業に影響を及ぼしていると考えられている。自らの領域を侵犯する他者を脅威に感じたり、反感が生まれたりしている。

I-2. ワユーの領域横断性

歴史的にみると、ラ・グアヒラ地域はベネズエラとのつながりは強い。特にワユーは、ベネズエラ側にルーツを持つ人も多い。ワユーは、もともとラ・グアヒラ半島とその周辺地域に居住する民族である。19世紀半ばまでに、ベネズエラとの間に国境線が引かれ、ワユーの居住域は両国にまたがることとなった。そのため、コロンビア側で生活しているワユーの人びとの親族が、ベネズエラ側にいるということは珍しくない。国境で隔たれていても、ワユーは親族のつながりを保っており、頻繁に両国を行き来する。そうした意味で、ワユーには領域横断性がある。

ワユーの領域横断性は、空間的な意味だけではない。ワユーは、他者がもたらす外来のものとつながってきた。例えば、スペイン植民地期には、カリブ海に面する地の利を活かし、ワユーは英・仏・蘭商人と密貿易を行い、それによって得た家畜がワユー内部で富の象徴となった(Polo 1999: 14)。また密貿易は、外国人との混血化ももたらした。ワユーの母系制社会では、ワユー女性と外国人男性の間に生まれた子供は、ワユーに帰属する(González-Plazas 2008: 23-24)。混血化が進むことで、ワユー社会は拡大していった。

他の例としては、ワユー手工芸品の編み物に用いられる、かぎ針を挙げることができる。かぎ針は植民地期以降に外から入ってきたものである。しかし、かぎ針編みも含めた編みの技法は、ワユーでは母から娘へと継承されていくものとして、女性のシンボルとなっている。ワユーは、在来のもの/外来のものの境をまたいで、在来の文化に適応させながら取り入れてきた。この「領域横断性」は、本稿におけるキーポイントの一つである。

II. 人間/機械の二項対立でも共存でもない

II-1. 人間は生きている機械

ここからは、文化人類学における、AIなど科学技術と人間の関わり合いについての研究を基に考察する。

文化人類学者の久保は、AIやロボットなど科学技術と社会や人間との関係について研究をしている。久保は、20世紀の技術論は、科学技術の進化による社会形態の変化を強調する「技術決定論」と、科学技術の進化によって生じるリスクを回避するための社会的制度構築を強調する「技術の社会的構成論」に二分されてきたと述べる(久保 2018: 14-15)。

技術決定論は、「人間が機械に支配される」という考えに対応する。それは、「機械に仕事が奪われる」という言説にもつながる。技術の社会的構成論は、「人間が機械を支配する」という考えに対応する。それは「機械に仕事を奪われる」危機感を持つ人びとが、政治に何らかの制度構築や措置を求めることに結びつく。

しかし、久保はそのどちらにも与しない。それだけでなく、双方の平和的な折衷案とも言えそうな「人間と機械の共存」にも与しない。そうではなく、「支配か被支配かの二者択一(あるいはその裏面としての共存という理念)」に絡めとられるのではない、人間の別の在り方を模索する(久保 2018: 13)。

久保は、機械は所与の規則に完全に従属しているという見方は、機械と人間を分断し、まったく異なるものと位置付けるものだと述べる。機械は完全に所与の規則に従っている訳ではなく、実際には、バグや機能不全が生じ得る。また、ディープラーニングにおいては、どのような論理のもと機械が学習しているのか、その規則は開発者であっても完全に把握できない。それにより、所与の規則に従属しているか否かという機械と人間の境界は曖昧になる。そこで、双方の類比性を認めた上で、「人間は生きている機械」という視点に立つことが必要であると主張する(久保 2018: 195-199)。

II-2. 部分的つながり

久保の「人間は生きている機械」という視点を理解するためには、ハラウェイ(Donna J. Haraway)とストラザーン(Marilyn Strathern)が用いる概念を説明する必要がある。

科学技術とフェミニズムやジェンダーの関係性を研究するハラウェイは、「サイボーグ」というイメージに着目する。人間(自己)と機械(他者)が入り混じり、双方の境界が明確でないサイボーグは、「一つなる存在」と言うには少なすぎるし、「二つなる存在」と言うのでは多すぎる(ハラウェイ 2017: 340)。「サイボーグ」は、自己/他者、自然/文化、男/女などの二項対立を乗り越える象徴であるとハラウェイは主張する。

社会人類学者のストラザーンは、著書『部分的つながり(Partial Connections)』の中で、ハラウェイの「サイボーグ」の概念に、次のような可能性を見出している。それは、二項対立的に配置される二つのものが、同質のものとして結びつくのではなく、「互いに異なる外部の存在としてつながる」ことの可能性である(ストラザーン 2015: 133)。

ここで、もう一度、「共存」の語義を顧みたい。共存とは、「同時に二つ以上のものがともに存在すること」である。久保が、「人間と機械の共存」を志向しないのは、ここに理由がある。久保は、世界は「一よりは多く、複数よりは少ない」ものであり、誰もが部分的につながっている世界を生きていると述べる(久保 2018: 38)。人間と機械は同一のものではない(一ではない)が、完全に別のものでもない(複数ではない)。さらに、共存(複数のものがともに存在する)でもない。久保が求めるのは、双方が部分的につながっている「私たちは生きている機械」(一よりは多く、複数よりは少ない)というイメージである。

この「部分的つながり」という概念は、共存のオルタナティブな社会の在り方を考える上で重要なもう一つのキーポイントである。

III. 共存のオルタナティブとは

本章では、「共存」のオルタナティブな社会の在り方について考察する。「領域横断性」「部分的つながり」をキーワードに考察をさらに進める。

先述した通り、ワユーは歴史的に、在来のもの/外来のものの領域を横断してきた。現代においてもワユーは領域横断性を持つ。近年、ワユー手工芸家の生計向上を目指す市民団体が生まれてきているが、それらの団体が目指しているのは連帯である。それは、手工芸家同士や国内外の団体・企業とのつながりである。手工芸家たちは、つながりの中で外来のものを取り入れ、新たなワユー手工芸品を生み出している。

また、国境の例を挙げれば、コロンビア側に住むワユーとベネズエラ側に住むワユーは、国籍という視座で見ればコロンビア人(私たち=自己)/ベネズエラ人(他者)と分けられる。しかし、ワユーという視座で見ると、民族のつながりが領域を横断し、双方を分かつ境界線が消滅する。

コロンビア/ベネズエラ間が国境で隔てられているというイメージや、在来のもの/外来のものを隔てる何かがあると考える視点は、ある存在【a1】から別の存在【a2】へと向けられる、ひとつのまなざしの在り方である。ここでは便宜上、これを「まなざし【A】」としておく。【a1】が自己(主体)であるときは、【a2】は他者(対象)と言える。【a1】と【a2】の間につながるものはなく、双方が対立的であれば「分断」されていると言えるし、友好的であれば「共存」している言える。どちらにせよ、双方を完全に独立した存在とする見方に基づいていることでは変わりない。

それとは別に、ある存在【b1】と別の存在【b2】が双方の領域を横断し、「部分的につながっている」という見方を採用してみよう。それにおいては、主体【b1】は、「部分的につながっている部分(結節点)」を通して、対象【b2】を認識する。これを「まなざし【B】」とする。

さて、論を進める前に、【b1】と【b2】は必ずしも人間に限らない、ということに触れておきたい。ここには、AIも含めた「もの」も当てはまる。この考えの基となるのは、久保も引用する、人類学・社会学者のラトゥール(Bruno Latour)の「アクター‐ネットワーク理論(Actor Network Theory: ANT)」である。単純化には慎重を期す必要があるが、ラトゥール(2019)のANTについて、本稿に関わる要点だけを押えたい。ラトゥールは、人間だけでなく動物・自然・ものも行為主体(アクター)であり、それらの相互作用によって、つながりのネットワークが創発しているとする。そのため、分析対象のアクターを拡大して数を増やし、それらアクター同士の関係性(つながり)を観察することが必要だと述べる。

まなざし【B】においては、人間・動物・自然・ものも含めたアクターは、結節点によって部分的につながっている。アクター間の相互作用は、結節点を通じて取り交わされる。結節点は、時間・場所・アクターの属性などによって可変的である。結節点は、宗教や思想かもしれないし、共通のアイデンティティかもしれないし、電気信号かもしれないし、学校や会社などの組織体かもしれないし、共感や感情かもしれない。可能性は無限大である。だが実際は、それらの混ざり合ったものである。結節点もまた、「一よりは多く、複数よりは少ない」のである。

アクター【b1】とアクター【b2】にとって、結節点が異なっているにも関わらず、双方がつながっていることもある。久保は、エンターテインメント・ロボット「アイボ」とそのオーナー家族についての調査で次の事例を挙げている。ある時、父親がアイボに呼びかけたのに、音声認識がうまくいかずにアイボが反応を示さないことがあった。その光景を見た家族は、父親がアイボに無視されたと笑い合った。アイボにとっては「機能不全」であるが、それがオーナー家族に「無視」と解釈されたのである(久保 2018: 194-195)。双方のアクターにとって同一の事象であるはずなのに、アイボの反応とオーナー家族の解釈は異なる。しかし、そこに相互作用が生まれ、アイボと家族がつながっている。

それでは、「共存」のオルタナティブな社会の在り方について、まとめに入る。AIもワユーも私たちもアクターである。「技術(他者)決定論」は、自己の行為主体性を過小評価するものであり、「技術(他者)の社会構成論」は、他者の行為主体性を蔑ろにするものである。「他者との共存」では、アクター同士のつながりが無いという点で、まだ不十分である。「共存」のオルタナティブとは、領域横断性を持ったアクターたちが、相互に部分的につながり合うことである。換言すれば、お互いに領域を拡張し合う、「相互拡張」である。

おわりに

本稿では、AIも先住民も「他者」であるという認識の考察に始まり、自己と他者の断絶でも融合でもなく、「共存」でもない、オルタナティブな社会を模索した。

共存のオルタナティブとは「相互拡張」である。その社会においては、自己と他者が接続されたり、そのつながりが切断されたり、再接続されたり、また別の経路が創造されたりと、接続・切断・再接続を繰り返しつつも、相互が部分的につながっていて、間断なく相互作用が生じている。その相互作用の間にあるのが、結節点である。

領域を横断し、他者と接続することは、自己が他者へと拡張することでもあり、他者が自己に拡張されることでもある。アクター同士は拡張し合っている。AIもワユーも私たちも、相互に拡張し合いながら部分的につながっている。領域を横断し、部分的につながった「自己‐他者」として、私たちも含むアクターは存在しているという認識が必要である。

参照文献

久保明教(2018)『機械カニバリズム 人間なきあとの人類学へ』講談社。

坂口安紀(2018a)「ベネズエラにおける制憲議会の成立と民主主義の脆弱化」(『ラテンアメリカレポート』Vol.34 No.2)48-59ページ。

――(2018b)「混乱をきわめるベネズエラ経済:とまらない経済縮小とハイパーインフレ」(『ラテンアメリカレポート』Vol.35 No.1)35-48ページ。

――(2019)「ベネズエラ危機の真相:破綻する国家と2人の大統領」(『IDEスクエア――世界を見る眼』)1-9ページ、<http://hdl.handle.net/2344/00050844>(2019年11月19日閲覧)。

ストラザーン、マリリン(2015)『部分的つながり』大杉高司、浜田明範、田口陽子、丹羽充、里見龍樹訳、水声社。Strathern, Marilyn (2004) Partial Connections. Maryland, Altamira Press.

新村出編(2018)『広辞苑第七版』岩波書店。

ハラウェイ、ダナ(2017)『猿と女とサイボーグ 自然の再発明 新装版』髙橋さきの訳、青土社。Haraway, Donna (1991) Simians, Cyborgs, and Women: The Reinvention of Nature. London, Free Association Books, and New York, Routledge.

ラトゥール、ブリュノ(2019)『社会的なものを組み直す アクターネットワーク理論入門』伊藤嘉高訳、法政大学出版局。Latour, Bruno (2005) Reassembling the Social: An Introduction to Actor-Network-Theory. Oxford, Oxford University Press.

Alto Comisionado de las Naciones Unidas para los Refugiados (ACNUR) (2018) “ACNUR y OIM apoyan el registro de venezolanos en Colombia”, 11 de mayo, <https://www.acnur.org/noticias/noticia/2018/5/5afccb774/acnur-y-oim-apoyan-el-registro-de-venezolanos-en-colombia.html>(2019年11月19日閲覧).

González-Plazas, Santiago (2008) Pasado y presente del contrabando en La Guajira: aproximaciones al fenómeno de ilegalidad en la región. Bogotá, Editorial Universidad del Rosario.

Polo Acuña, José (1999) “Los Wayúu y los Cocina: dos caras diferentes de una misma moneda en la resistencia indígena en La Guajira, siglo XVIII”, Anuario Colombiano de Historia Social y de la Cultura, núm.26, pp.7-29.

Registro Administrativo de Migrantes Venezolanos (RAMV) (2018) Informe final, <http://portal.gestiondelriesgo.gov.co/RAMV/Documentos%20compartidos/Presentación%20Final%20Registro%20de%20Migrantes%20Venezolanos%20RAMV.PDF>(2019年11月19日閲覧).

真心こもったサポートに感謝いたします。いただいたサポートは、ワユーの人びとのために使いたいと思います。