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母と最期の四十九日


はじめに

平成の最後の月に、私は母を膵臓癌で亡くしました。
年の初めに癌を告知され、その時点で余命六カ月から三カ月の診断でした。

母がそれを私に教えてくれたのは更に一カ月後のことで、娘に伝えてからちょうど四十九日目に、母は他界しました。

遺品を整理していたときに初めて知ったのですが、母は亡くなる十年以上前から毎日欠かさず日記をつけていました。短い文章でしたが、その日にしたことや起こった出来事を三百六十五日、一日も休まず書き綴り、それを十年以上も続けていたのです。

膵臓癌はわかり難い癌であり、癌と診断されたときにはすでに余命わずかということが普通だといわれます。ですが母の日記を読んで、そんなことはないのではないかという思いに駆られました。体の不調を訴える記述は何年も前からあり、すでにサインはあったのです。

もっと早くそれに気づいていれば。気づけなかった自分が不甲斐なくて仕方がありません。そこで、母との最期の四十九日間を振り返りながら、家族として何ができただろうかということを考えました。

もう八十を過ぎていたのだから、充分生きたじゃないかと言う人もいます。確かに、長生きしてくれたと思います。ですが、つい数日前まで元気だった親が、話したかったことや聞きたかったことがまだたくさんあったのに、突然逝ってしまわれることの無念さに、年齢は関係ありません。

大切な人、大切な家族と一日も長く一緒に生きるために、自分は何ができるのか。これを読んでヒントを得ていただければ幸いです。

なお一部の章は、プライベートな部分を掘り下げていることもあり、有料にさせて頂いています。何卒ご了承ください。


第一章 余命宣告

「あのね、母さん、癌なんだって」
まだ肌寒い二月半ばのことでした。いつも午前中に電話をしてくる母が珍しく夜に携帯に掛けてきて、いきなりそう言ったのです。

青天の霹靂というしかない、あまりにも無情で悲しいその知らせに愕然としている私に、母は「お前が帰ってきても、もうご飯を作ってあげられないわ」と言葉を続けました。

いや、そんな些末なことはどうでもいい。
母が健康で、元気でいてくれればそれだけでいいのに、母はそんなふうに私のご飯の心配をしていたのです。胃がえぐられるようでした。
「もう末期でね、手の施しようがないんだって。医者から抗がん剤を使うかって聞かれたけど、もういいですと断ったわ」

どうして?
という思いで「もっといい病院に変わったら?」と問いかけると、
「もう、いいの。いや、先で良かったわ。後に残されたら、どこに何があるかもわからないし」
と明るい声で言いました。
「ねえ、あんた、真珠のネックレス持っていたっけ?」
母は、自分の葬儀に参列する娘の装いの心配までしてきました。
「喪服はね、作ってあるから」
動揺する私はあまり言葉が出てこず「父さんは何て言っているの? 電話してみるわ」と言うのが精一杯でしたが、すると母は「電話するなら明日にしなさい。父さん、この時間はもう寝ているから」と、まるで普通の雑談をするように言ったのです。

膵臓癌でした。翌朝、父に電話をすると、余命三カ月だと言われました。

三カ月……。あまりにも短い母との残された時間を突き付けられ、とても現実とは思えませんでした。母は一月三十一日に腹痛を訴えて病院へ行き、初期検査の段階ですい臓癌の可能性があるからと更に詳細な検査をするため即入院となり、翌二月一日にステージ4の膵臓癌であると診断を受けたといいます。すでに肝臓転移し、しかも臓器全体に悪性腫瘍が点在する状態で、腹痛はその肝臓からくる症状という話でした。

余命三カ月と宣告された癌が一体どのように進行していくのか、医学と縁のない私には想像がつきませんでした。最後の方まで比較的元気でいられるのか、普通に会話をしたり起き上がったりできるくらいの元気な状態があとどれくらい残っているのか、まったくの未知数。父が医者から言われた話では、容態が急変するとそこからが早いということが多いとのことでした。とすれば、まだ三カ月近く元気でいられる可能性もあるのかもしれないと、楽観的に考えようとしました。

私自身は東京に住み、仕事があるためすぐに実家に帰りたくても帰れない状況でした。しかもその日から約一カ月後、自分にとってはかなり重要な仕事の予定が入っていました。それが終わってから帰るとなると三月下旬になるだろうと考えました。その頃になっても、まだ元気でいてくれる可能性は十分あるのではないかと、後で思い返すと随分と能天気な希望的観測でそんなことを考えていました。

父と話した翌日、母の主治医に電話をしました。
その主治医は、実家がある田舎町の総合病院で内科医兼院長を務める人でした。こちらから病院に電話をすると、院長の都合のいい時間に掛け直して欲しいとのことでしたが、しばらく待ってから電話を掛けようとする前に院長の方から直接、私の携帯に電話をいただきました。とても柔らかい口調で母の現状を説明し、こちらの質問に丁寧に答えてくれましたが、もう手の施しようがない状態で、母自身も抗がん剤は使わなくていいというので、今はステロイド系の薬物で症状を緩和しているという説明でした。
「最近は免疫療法というのをよく耳にしますが、それはどうなんでしょうか?」
そう尋ねると院長は、
「うーん、難しいと思います」
と言いました。
改めて余命を尋ねると「三カ月から六カ月」との答えでした。
三カ月から六カ月と言われると、どうしても六カ月という長い方を信じてしまいたくなるものです。それに、世の中には余命何カ月と告知されても、何年も生きている癌闘病者だってたくさんいます。仕事を終えて三月下旬に母のもとへ駆けつけたら、札幌のもっと専門的な病院へセカンドオピニオンをもらいに行こう。温泉にも連れていってあげよう。
主治医と話したその時点で、私はそんなことを考えました。

翌日の二月十五日、母の携帯に電話をするとちょうど診察を受けていたところでした。
「あのね、私、十九日に退院するから」
母は明るい声で、健康だったときとまったく変わらない口調で言いました。
「大丈夫なの? 家に帰って、普通に生活ができるの?」
私が問うと母は、
「うん……わからない」
と答えるので、少し不安になりました。

主治医にも退院中は普段通りの生活ができるのかと尋ねてみましたが、はっきりとした返答がもらえず、実際のところ母の体調がどんな状態になるのか誰にもわからないのかもしれないと思いました。後から聞いたのですが、一時退院中は普段は家事をほとんどしない父が朝食を作り、母が夕飯を作るというように分担し、昼間は好きなテレビ番組がある時間帯は起き上がって居間でテレビを観て過ごしていようです。退院から三日後に母の携帯に電話をすると体調は良さそうで「本当にそんな病気なのかなというくらいだわ」と言っていました。

このときは、ほっとしました。
このまま体調の良い状態が続き三月下旬に私が帰省するまで自宅療養が続いてくれれば。そうすれば自宅で母といろいろな話をしながら、母の所有物の整理を一緒にやろう。そんな希望を抱いていました。

けれども、それはあまりにも呑気な考えでした。
九日後の三月三日、午前八時三十分過ぎに母の携帯から電話が入り、
「また入院したから」
と知らされました。
一時退院後、最初の頃は体調が良かったようですが、それもじきに悪化してしまい、普段の生活を送ることが苦痛になっていたようでした。三月二日に病院へ行き、その日のうちにすぐ再入院となりました。
「痛いの?」
と聞くと、
「体がだるい」
という答えでした。それまで楽観的に考えていた自分の浅はかさを思うと、喉の奥が痛くなりました。
「二週間くらいだって」
と母が言いました。
入院期間が先に決まっているというのは、どういうことだろう。また体調が回復して、退院する可能性もあるのだろうか。どう受け取っていいのか、わかりませんでした。
もし二週間で再び退院できるとすれば、ちょうど私も、大事な仕事を終えて帰省することができる。そうなってくれればいいと、祈る思いでした。もしそのときに母の体調が良ければ、専門医のいる大病院に連れて行きセカンドオピニオンをもらおうと思いました。それまでに、癌治療について情報をできるだけ集めようと思いました。

どうか母の体調が回復するようにと祈る日々を過ごし、次に電話で話すときは良くなっているだろうかと考えながら、再入院から五日後の午前中に母の携帯に電話をしました。

すると母は何やら取り込み中のようで、後からかけ直すとの返事。母は近郊の市にある眼科医院で受診しているところでした。母はその眼科に定期的に通っており、以前に白内障の手術をしたのもその医院でした。この日は定期健診の日で、緑内障の兆候が出始めているというので予防用の点眼薬を処方してもらっていました。

体調はどうかと聞くと「立ち上がるのが容易じゃないわ」という返事でした。眼科医院には父が運転する車で行き、歩行は車椅子で行っているようでした。声にはまだ張りがありましたが、心なしかかすれているようにも聞こえました。電話だけでは元気なのかどうなのか、よくわかりませんでした。

私の中では、母の体調を気掛かりで数日おきに電話をしようという気持ちと、母の体調が悪化していたらどうしようという怖れからプッシュボタンを押せないという心のせめぎ合いが続く毎日でした。今日は電話してみようと思っていたのに、結局怖くて電話ができず、やっぱり明日にしようという、その繰り返し。そうやって十日が過ぎました。三月十七日からは大事な仕事が始まり、それは五日間で終わることになっていました。それを無事にこなしたら、すぐに母のもとへ駆けつけよう。そう考えていました。


第二章 母危篤

三月十七日の朝でした。

その日から五日間、大事な仕事が始まることになっていました。
私は早朝から仕事先に出向き、すでに仕事に取り掛かっていました。
携帯が鳴ったのは、午前十時過ぎのことでした。
「母さんが危篤だ」
父からの連絡でした。
一番聞きたくなかった予期せぬ知らせに、頭に血が上ってうまく思考することができず、声も震えてまともに出てきませんでした。

なぜそんなことに。
なぜ急に。
元気じゃなかったの。

頭の中で一度にいくつもの思いが交錯しました。
もう意識がなく、会話もできない状態でした。
父の言葉が、どこか遠い世界からのささやきのようで、よく聞き取れませんでした。自分はどうすればいいのかもよくわからないほど、頭が混乱していました。

故郷は東京から飛行機で二時間以上の北海道の北の果てにあります。
とりあえず仕事先に来てしまったので今日は仕事をこなそうと思ったり、いやすぐにでも母のもとに駆けつけなければと思ったり。航空会社に電話をしようと携帯を手にとっても、手が震えて何度も番号を押し間違えました。

ようやく電話がつながり、予約変更が可能か尋ねると翌朝一番の便なら可能といわれ、その便に変更を頼みました。朝八時五十分に到着する便でした。母には、それまで何とか頑張ってくれと願うしかありませんでした。
ところが上司に電話をすると、
「もう仕事はいいから、今すぐ帰って。お母さんを優先して」
と言われ、仕事先に一緒に来ていた同僚からも、
「上司から聞いたよ。こんな仕事なんてどうでもいいじゃん。今すぐ帰りな」
と言われました。そこでようやく私は、現実を現実として受け止められたと思います。

そうだ、仕事なんかできるわけがない。そう思いました。

仕事道具をカバンに詰め込み、大股で階段を駆け上がると外へ飛び出し、地下鉄駅まで走りました。

地下鉄で自宅に戻る道すがら、スマホで航空券購入サイトにアクセスし、当日購入可能なチケットを探しました。予約していた航空会社とは別の会社のチケットが、十六時三十分発で一枚残っていたので、それを購入すること決め、予約していた便をキャンセルして新しくチケットを購入しました。自宅最寄り駅に着くと駆け足で駅の階段を上がり、数時間前に預けたばかりの自転車を駐輪場から出し、必死に自転車をこいで自宅マンションに戻りました。

帰宅してからも体が震え、何をどう準備していいのか頭の中を整理するだけでも四苦八苦でした。家を出るまでまだ四時間ほど時間があったため、洗濯機を回してシャワーを浴び、まずすっきりして冷静になろうとしました。旅行用のキャリーケースを押し入れから取り出し荷造りを始めても、まだ体が震えたままで何をするにもうまく手が動かず、洋服をハンガーから外すだけでも何度も服が引っかかって外せないありさまでした。

「真珠のネックレス持ってる?」
癌であることを伝えてきた電話で母が口にした、その言葉がふと蘇ってきました。真珠のネックレスを持っていくべきなのだろうか……と考えたのです。

私が持っている真珠のネックレスは、私が二十歳になるときに母がプレゼントしてくれたものでした。母はそれを忘れていたのかもしれませんが、私は決して忘れず、大切に保管してありました。ただ、身近に冠婚葬祭がほとんどなかったためにあまりにも長いこと使う機会がなく、どこに仕舞ってあるのか思い出せませんでした。収納ボックスや棚をいくつか探してみましたが見当たらず、結局持って行くのを諦めることにしました。

もっと冷静だったら、実家のある北海道の田舎町の気温を確認してカバンに詰める洋服を選んだり、何を持っていくべきかをもっとよく考えられたりしたのかもしれませんが、結局、思いつくままに洋服や化粧品や身の回りのものを雑に詰め込みました。そうこうするうちに時間がぎりぎりになってしまったので、部屋の中を散乱させたまま慌ててマンションを出ました。冷蔵庫の中には向こう数日間の総菜や食材、飲みかけの豆乳などが入っており処分をする時間的余裕はあったものの、気持ちの余裕がなくそのままにして飛び出してきました。

電車に乗っていても気が急いて落ち着きませんでしたが、いくら気持ちが逸っても電車はスピードを上げてくれず、空港までの道のりがとても長く感じました。出発の一時間前には搭乗便のゲートに到着しましたが、父に「夕方の便が取れたから今日中にそちらに行き、空港から病院に直行する」と電話をした以外は、何も手につかず、ただひたすら搭乗を待ちました。

故郷の空港に到着したのは十八時半でしがたが、外にはすでに漆黒の闇が広がっていました。足早に到着ロビーを出て、外の薄明かりを頼りにタクシー乗り場を探しました。バス乗り場のずっと後方にそれはあり、タクシーが二台停まっていました。

空港から母が入院している病院までは、かなり距離がありました。
「〇✖町の総合病院まで行っていただけますか?」
遠すぎるからと断られる可能性もあるかもしれないと思いながら運転手さんに尋ねると、
「いいですよ」
と快い返事をもらい、ほっとした気持ちで後部座席に乗り込みました。

「そんな遠くまで行くお客さんを乗せるのは、初めてですよ」
車が走り出してすぐに、運転手さんが言いました。ベテランらしい年恰好のタクシー運転手でも、空港から一時間かかる町まで行く客を乗せることなどないのか、と思いました。

車がないとどうにも生活することができないその田舎町では、どの家庭でも自家用車を所有し、複数の車を所有している世帯も珍しくありません。こんな遅い時間に空港に到着すると唯一の公共交通機関であるバスはもう走っておらず、ほとんどの人は家族の迎えを受けるか、空港の駐車場に駐車しておいた車を足にしているのです。

「実は母が危篤だと知らせを受けて、病院に直行するんです」
あまりに珍しい長距離客の自分は、運転手さんに理由を説明した方が親切かもしれないと思い、私的な事情を説明しました。言い難いことでも、見知らぬ人が相手だとなぜか淡々と言葉が出てくるということもありました。
「そうなんですか。長く入院しているんですか?」
「いえ、そういうわけでもなかったんです。急にです」
「それは……。そんなこともあるんですか」
「膵臓癌なんです。わかったときにはもう進んでいて……」
「そうですか。あの総合病院はね、あんまりね……」

運転手さんは最後の言葉を濁しましたが、病院の評判があまり良いものではないことを匂わせていることは伝わってきました。癌であることを知らせてきたときの母との電話のやり取りが甦りました。
「もっといい病院があるんじゃないの?」
私が母にそう言ったのです。
十八歳のときに地元を離れて東京に移っているので地元病院の評判などまったく知りませんでしたが、田舎町の総合病院が上質な医療を提供しているとはとても思えませんでした。けれども母は、
「ううん、いいの」
と言いました。

あのとき無理にでも別の病院を探して移らせていたらという後悔の念に、今でも苛まれます。あの電話から一週間後には母は一時退院できていたのだから、すぐにでも母のもとへ帰り別の病院を探すなどの行動を起こしていたら、あるいは違う結果になっていたかもしれません。けれども仕事に固執し、帰省を先延ばしにしてしまいました。そしてこのとき、こうして慌てて病院に直行することになってしまったのです。

タクシーの後部座席で、暗闇に包まれた外をぼんやりと眺めていました。そんなとき、いつもの自分ならスマホをいじりながら時間をやり過ごすのに、スマホを見る気にはまったくなりませんでした。

人通りもなく他の車もほとんど走っていない田舎の国道を延々と走り続けて四十分ほどが過ぎたころ、ようやく病院のある町まであと二十キロという看板が見えました。

まだそんなにあるのか、と思いました。

本当に遠い。こんなところまでタクシーを使う人間は私が初めてだというのもうなずける。そんなことを考えながら、ひたすら外の闇に目を凝らしました。やがて明るい街灯の光が車内に差し込み、外の佇まいが市街地らしい雰囲気を醸し出してくると、ああもうすぐ着くんだという安堵の気持ちと、母が今どんな状態でいるのかという思いからくる緊張感で、感情が波立つのがわかりました。

タクシーが病院の正面玄関の前で静かに止まりました。
メーターには9670の数字が表示されていました。
「遠かったからね、この金額でいいですよ。途中でメーター止めたから」
運転手さんがそう言いました。
「そんな。いいんですか?」
メーターを倒したままだったら一万五千円くらいにはなっていただろうし、タクシーに乗る前からそれくらいだろうという心積もりをしていましたが、思いがけず人の心の優しさに触れ、大変な状況に置かれた中であったにもかかわらず、世の中そう悪いことばかりではないのだと慰められる思いでした。

一万円札を渡し、トランクに積んだキャリーケースを受け取ると、運転手さんは更に、
「大丈夫ですか? 玄関から入れるの?」
と言いながら、病院の入口まで送ってくれました。一階のロビーは消灯されていて薄暗く、入口のガラスの自動ドアが果たして開くのか、わからない状態でした。
「あ、開いているね。よかった」
そう言って笑顔を見せる運転手さんにお礼を言い、人気のないロビーの中に入っていくと、病院の職員らしき女性が階段から降りてくるところに遭遇しました。入院している母のところに行きたいと名前を名乗ると、二階だとすぐに教えてくれました。田舎にしては大きな総合病院でしたが、誰がどこの病室にいるのかは職員なら誰もが知っている程度の規模ではあるのだと思いました。

キャリーケースを持ち上げて一気に階段を駆け上がり二階病棟に来ると、目の前にナースステーションがあり、母の病室はそのすぐ横にありました。

ようやく母のもとにたどり着きました。東京の仕事先で危篤の知らせを受けてから、九時間後のことでした。

母は鉄パイプで囲われたベッドに横たわり、目を閉じていましたが、意識がないその状態を眠っているといえるのかどうかはわかりませんでした。声を掛けても反応はなく、想像していたよりも弱々しく感じられ、私が知っている母よりも小さく見えました。

左の前腕部分に点滴からつながれた管がはめ込まれて、指にははやり管のついた洗濯ばさみのような形の器具がつながれていて、そこから呼吸は心拍数などの数値を計っているらしく、ベッドの脇には数値を表示する大きなモニターがありました。長いこと点滴の管を入れているせいか、両腕に内出血で紫色になった皮膚がもうずいぶん大きく広がっていた。眉間には大きな茶色いシミができていて、それはたった三カ月半前の年末に帰省したときにはないものでした。

病室には二人の叔母が来ており、付き添いをしてくれていました。私がもしこの日のうちに来ていなければ、泊まり込みで付き添ってくれるつもりだったようで、私はひたすら恐縮しました。やっぱり、急いで来てよかった。誰かが徹夜で母に付き添わなければならないとするならば、それは私であるべきだと思いました。

ベッドの傍らで、叔母二人と一緒に何度も何度も声を掛けたが、母は目を開けませんでした。諦めて三人で椅子に座り、そこで私は初めて、母がそのような状態になってしまった経緯を叔母たちから聞かされました。

十七日の朝まで、母は元気でした。歩行補助器を使って自分で洗面所に行くこともできたし、廊下で隣りの病室に入院している顔見知りと普通に立ち話もしていたし、病室と同じフロアになるコインランドリーで、自分で洗濯もしていたそうです。ところが、その日の朝は看護師からの体調チェックで微熱があり、少し会話を交わした後に看護師が冷却枕を取りに行っている一瞬の間に脳梗塞を起こし、いきなり意識を失いました。と同時に血圧が急降下し、これは危険な状態だと連絡を受けた父が駆けつけたとき、母は父の呼びかけには声は出なかったものの目を開けて視線で頷くような仕草をしたそうです。しかしその後は目を閉じて眠った状態が続き、叔母たちが駆けつけてくれてからも呼びかけに反応を示すことはありませんでした。

だから、その翌朝に起こったことは、ほとんど奇跡に近かったのかもしれません。

ようやく外が明るくなり始めた六時ころのことでした。すでに目を覚ましていた私は母のベッドを覗き込み、おはようと声をかけました。すると眠っていた母が急に何度も大きなあくびをしたかと思うと、いきなり両目を見開いたのです。
「私よ、わかる?」
慌てて呼びかけると、母はあふれるような笑顔で私の名前を口にしました。脳梗塞のせいなのか声はまったく出ていなかったのですが、口の動きで私の名前を言っていることは、はっきりとわかりました。それから更に口を動かし、しきりに何かしゃべっていましたが、声が出ていないので内容はわかりませんでした。

立て続けに何かをしゃべり、また何度も大きなあくびをし、そしてまた何かを言うと、再び瞼を閉じました。二分ほどのわずかな出来事でしたが、確かに意識を取り戻した瞬間でした。

母が意識を取り戻したのは、このときが最後でした。後から調べて知ったことですが、あくびをすることは脳に多量の酸素を送り込むという生理現象でもあるそうです。母は私のために必死に脳に空気を取り込み、意識を戻してくれたのだと思います。すぐに母のもとに駆けつけなければ、この最後の会話は起こり得なかったと思うと、がんばってくれた母と、すぐに仕事先から帰るように促してくれた周囲の人たちには感謝しかありません。

第三章 病室での日々

母が意識を失った日から毎日、私は病院に寝泊まりし続けました。

病室は八畳くらいの個室だったので、広さは十分でした。ナースステーションで付き添い家族用に簡易ベッドを五百円で貸出てくれるというのでそれを借り、窓際に置いて夜はそこで寝ました。キャスター付きで二つ折りにできる本当に簡易なベッドで、マット部分は寝ると体が痛くなりそうな薄さでしたが、パイプ椅子を並べて寝るよりは遥かに上等なベッドでした。

とはいえ最初の三日間は父も泊まり込みで付き添っていたので、簡易ベッドを父に明け渡し、私はパイプ椅子を並べて寝ました。体が痛くてほとんど寝られませんでしたが、夜間も看護師さんや介護士さんが数時間置きに入ってくるので、どのみち熟睡できるような環境でもなく、それでしのいでいました。

二階病棟で働く看護師さんたちは早番、遅番、夜勤に分かれて勤務していました。朝一番にやってくるのは夜勤だった看護師さんで、だいたい六時半から七時頃に来て血圧や体温などを測り、目に光を当てて反応を見たり、胸の音を聞いたりします。八時半から九時頃には早番の担当者さんが来てやはり同じように血圧や体温などのチェック。それが昼、夕方、夜と何度か行われ、点滴の交換や口の中のクリーニングなどにも日に何度かやって来ます。

母を担当した看護師さんたちはみな、とても丁寧で感じの良い人ばかりでした。母は私が来てから意識を失った状態が続いていましたが、看護師さんたちは必ず母に顔を近づけて大きな声で名前を呼び、話しかけていました。
「ちょっと熱、測りますねー」
と言って体温計を右脇に挟む。声を掛けても母は何も反応しなかったが、体温計が外れてうまく測れないということはなかったので、脇でしっかり挟もうという程度の反応はしていたのだと思います。

大変だったのは、口の中のクリーニングでした。意識を失ってからの母は主に口で呼吸をしながら眠っていたので、病院内が乾燥していることもあって口の中が乾いてしまう。そのため口の中が切れて血が滲むこともあり、歯を磨いて口の中を洗うというケアが、日を追うごとに増えていきました。

けれども母は、口のクリーニングを嫌がることがよくありました。歯磨きブラシは、細いチューブを接続して水分などを吸引しながらブラッシングができる吸引ブラシを使うのですが、歯を磨こうとすると歯を固く食いしばって決して開こうとせず、看護師さんが手こずったことは一度や二度ではありませんでした。ブラシを口の中へ入れようとすると、看護師さんの手を払い除けたこともありました。

しかし、嫌なことを嫌と意思表示してくれることは、私や家族に希望を与えてくれるものでもありました。目を開けてくれなくても、言葉を発してくれなくても、体で意思表示をするということは、いろいろなことを認知しているということです。もしかしたら意識を取り戻してくれるかもしれないという希望は、主治医が何と言おうと捨てきれませんでした。

私自身も母に手を払い除けられたことがあります。
唇が乾燥していてひび割れができていたので、湿らせた方がいいだろうミネラルウォーターを含ませたコットンで唇を濡らしてあげたのですが、それが不快だったらしく払い除けられました。

そうか、これでは駄目なのだ。どうしよう。
そうだ、まず自分がどうされたら不快で、どうされたら嬉しいのか、よく考えてやってあげなければ。どうしたら喜んでもらえるか、もっと一生懸命に考えなければ。

私は、母の唇にリップクリームを塗るようにしました。自分が携帯していた、微かにバラの香りがする透明のリップです。看護師さんが口腔クリーニングをしにきた後などにそれを塗るようになってからは、唇の荒れが気にならなくなり、もっと早くやってあげればよかったと思いました。

もっと早くというのは他にもあり、例えば化粧水と保湿クリームもそうでした。病院に駆けつけた当初は自分自身が動揺と混乱でいっぱいになっており母の病院での「日常」というものに思いを馳せる余裕がありませんでしたが、数日経って「日常」を意識するようになりました。

寝たきりで意識のない母には、介護士さんがほぼ毎日、タオルで顔を拭きにきてくれていたので、数日経ってから顔を拭いた後に化粧水と保湿クリームを塗ってあげなければと気づけるようになりました。

ポーチに入っている母の化粧品を見つけたことも、その気づきのきっかけになりました。ポーチは病室に備え付けられた収納ボックスの中にありました。花柄のポーチの中に何が入っているのだろうと開けて見てみると、ベージュ色の化粧水のボトルと丸い保湿クリームの容器が入っていたのです。見たこともないブランドのものでしたが、容器からして高級そうで、私が普段使っているドラッグストアで買える化粧品の何倍もの値段がしそうでした。クリームの容器のフタを開けてみると、容器と同じベージュ色をしたクリームがもう五分の一くらいしか残っていませんでしたが、ポーチの中には、同じクリームがまだ開封されてない新品の箱に入ってもう一つありました。入院中にクリームを使い切ってしまったときのために、新しいのを用意してあったのです。

母はまだ、死ぬなんてことはこれっぽっちも思っていなかったのではないだろうか。新品のクリームを使うことを想定していたのだから。

後になって、そんなことを考えました。癌になって、もういいのと言って、抗がん剤を使うことを断ったとしても、まだ生きようという気持ちはあったのではないか。私が生きる努力を一緒にしようと言えば、娘の願いを聞いてくれたのではないか。

その高級そうな保湿クリームを塗るとき、母は瞼をしっかりと閉じて、塗りやすいようにしてくれていた気がします。土日などの人手が足りないときは介護士さんが顔を拭きにきてくれないこともたまにあり、そんなときは私が自分でタオルをお湯で濡らして絞り拭いてあげましたが、ほんのり温かいタオルの肌触りが気持ちよさそうでした。表情が変わるというわけではなく、何がどうと説明するのは難しいのですが、ガードを一段外したような緩んだ雰囲気を醸し出すときがあり、こちらの行為を受け入れられていると感じました。そんな些細なことで、私は母とコミュニケーションを取っていました。

病院勤務の介護士さんたちは、とても大変な作業を軽やかに手際よくされているように見えて、いつも頭の下がる思いでした。

意識を失った母は当然、自分では入浴もトイレに行くこともできなくなっていたので、介護士さんたちがそれらの世話をしてくれていました。入浴は週に一度、ベッドごと浴場に運んで体と髪を洗って戻ってくるというのを家族はただ病室で待っているだけでした。紙オムツは一日に四、五回取り換えてくれ、寝たきりなので体を支えるクッションを使って日に三度ほど体の向きを変えてくれました。排泄物の処理をするときは家族でも席を外すように促され病室の外に出るのですが、その間に介護士さんが二人一組で作業をし、数分で終えて出てきました。病室に戻ると排泄物の臭いが部屋に充満していることもあるのですが、介護士さんたちは表情も変えずにこなしていました。

看護師さんが体調のチェックをしに来たとき、私はさまざまな質問を投げかけました。体温を測ると「今日は何度ですか?」と必ず聞きました。看護師さんによっては聞かなくても口に出して言ってくれましたが、聞かないと何も言ってくれない人も多いのでいちいち質問していました。それで私に何ができるというわけではなかったのですが、六度台の平熱とわかると安心できました。
目に光を当ててチェックしているときは「反応はありますか?」と聞きました。そのたびに「ありますよ」という答えをもらい安心するのですが、とはいえ光で反応することと目が見えているかどうかは関係がないとも教えられました。

ベッドサイドモニターに表示されている各数値の見方も、看護師さんに尋ねました。血圧の見方は教わらなくてもわかりましたが、心拍数や呼吸数、酸素量の数値などは何が正常なのか疎い人にはわかりません。酸素量というのは、動脈血中に含まれる酸素量で、正常値は90から100。90を切るようになったら呼吸器をつけることになるかもしれないと言われましたが、母は常に95前後をキープし続けていました。

血圧は、脳梗塞を起こしてからしばらくは低めの数値が続いていました。上が100もいかず、下も50前後。まだ健康だったころに上が145ほどと血圧が高めだった母からすれば、相当に下がった状態でした。

けれどもその血圧が日を追うごとに徐々に上がっていき、一週間ほど経ったころには健康な人と変わらない数値に戻っていました。血圧も心拍数も体内酸素量も、健康な人と変わらない数値になり、それが安定して変わらない日が続きました。

もし意識を失っていなければ、母は今ごろ元気に動き回り、よく喋っていたのかもしれないと思いました。

そう考えずにはいられませんでした。
母は日々少しずつ、変化していきました。いい方向に変わっている部分もありましたが、良くない方向に変わっている部分もありました。

脳梗塞で意識を失った後、母は右半身が麻痺していました。右手も右足も動かず、右目の瞼は閉じたままで、起きているときは左目しか開いていませんでした。それが、日が経っていくうちに右足に感覚が戻ってきたようで、微かながら自力で足首を前後左右に動かすことができるようになりました。右手は麻痺したままでしたが、右瞼も開くようになり、起きているときに両目を大きく見開くようにもなっていました。

その一方で、表情は乏しくなっていったような気がしました。意識を失って駆けつけてから一夜明けた早朝に一瞬、意識を取り戻してくれましたが、その後は声に対して反応することが徐々になくなっていきました。もしかしたら声が聞こえて理解はしているのかもしれないのですが、表情が乏しくなりそれが第三者からはわからない。不快なことがあるときはそれを意思表示することができましたが、嬉しいときの反応というのは見られませんでした。

人間というのは、嬉しくないことよりも喜びの感情を表現する方が難しいのだろうか。

そんなことを考えながら、母の顔を覗き込んでいました。

泊まり込みの付き添いは、深夜が一番忙しい時間帯でした。
点滴の一袋は、必ずといっていいほど一晩持たずに切れてしまい、取り換えなければなりませんでした。点滴は、食事を摂れない母の栄養補給を目的としたものの他に、インスリンやその他薬品も混ぜられていたようでしたが、上から吊っている点滴の袋から管で別の薬品の容器に接続され、そこからまた管で手につなげられていました。それぞれの容器が空になる時間はばらばらなので、その都度交換しなければなりませんでした。

点滴の袋が残り少なくなるとアラームが鳴りました。それを聞きつけて看護師さんがナースステーションから駆けつけてくれることもありましたが、深夜勤務の看護師さんは昼間より人数が少なく、看護師さんが全員出払っていることも多くありました。アラームが鳴ると看護師さんを呼びに行き、ステーションに誰もいないと看護師さんが戻ってくるまで待ち、アラームを止めてもらう。それから一時間後くらいに今度は点滴の袋が完全に空になり、もう一度アラームが鳴るので、再び看護師さんを呼びに行く。それが深夜の間に何度か繰り返されました。

その他、ベッドサイドモニターに映し出されるさまざまな数値が異常を示したときも、アラームが鳴ります。各病室のモニターに表示される数字はナースステーションでも見られるようになっており、アラームはステーション内にも同時に響き渡りました。深夜で看護師さんが出払っているときにモニターのアラームが鳴ると、やはりステーションの前まで行き、看護師さんが戻ってくるのを待ちました。

付き添いに慣れない最初のころは、モニターの数値が異常を示すたびに看護師さんを呼びにいきました。夜、母が眠っているとき、呼吸の数値がゼロになることがたまにありました。病室のモニターはアラーム音を止めてあったのですが、数値異常の場合は数字が赤く表示され、呼吸数に関しては4以下で赤くなりました。

よく考えてみると、眠っているときは健康な人でも無呼吸状態になることはあるので、母もただ単にその状態だったのかもしれません。看護師さんにもそう言われました。最初のころは何も知識がなかったため、深夜に何かちょっとした変化があれば看護師さんを呼びに行っていました。そんな夜が続き、当然のことながら睡眠不足が重なって肉体的にきつくなりました。

寝られない夜が何日か続くと、夜九時の消灯時間がくる前からもうたまらなくなり、夜中に看護師さんや介護士さんが入れ替わり立ち代わり病室に入ってきてもまったく起き上がれず、ただひたすら深い眠りに落ちることが増えていきました。付き添いをする者にとって、夜中に何が起こっているか気づかず眠ってしまった翌朝は、罪悪感のようなものに苛まれました。

病院に寝泊まりしている間、歩いて十五分ほどのところにある温泉に通いました。父がいつも午前中にやって来て数時間いてくれたので、入れ替わりに数時間、外出することができたのです。付き添い用の風呂がない病院での生活には、温泉通いが欠かせない日常になりました。

北国のその小さな町には、美肌に効果があるという温泉が湧いていました。浴場は町が運営している公共の宿泊宴会施設と高齢者用養護施設の中とに二カ所あり、それ以外には冬季中に道路の雪を解かすためなどに温泉の湯が活用されていました。

公共施設の中にある温泉は町民だけでなく一般に開放されており、一回四百円で利用できました。一番大きな湯船には一番熱い湯が張ってあり、他にぬるめの気泡湯と寝湯、水風呂、サウナまでありました。朝のオープンとともに行くと、地元のお年寄りが必ず何人かはもう来ていて、たぶんどこの誰だろうという目で見られているであろう私は、遠慮がちに隅の方に洗い場の席を取り、備え付けのボディソープとシャンプーとたっぷりのお湯で、つかの間の自分の時間に浸りました。

乾ききらない髪のまま外へ出ると、冷たい空気で髪の毛が凍りつきました。もう三月の後半だというのに、そこは毎日雪が降るほどの寒さでした。シャツの上にフリースを着て、さらにダウンジャケットを着こんでようやく外に出られました。

温泉施設から病院に戻る途中に、町に唯一あるセブンイレブンか、農協のスーパーに寄って昼食とその日の夕食を買いました。病室には課金式の冷蔵庫がありましたが簡易な小型式で、食糧を大量に買い込むことはできず、毎日少しずつ、その日に食べる分だけ買っていました。スーパーには手作りの総菜があったのでなるべくそれを買うようにして、あとはおにぎりかカップ麺というのが定番の食事になりました。

病院に戻ると、一階のロビーですぐにダウンジャケットとフリースを脱ぎました。外気と病院内の気温は二十度以上の差があるため、そのままの重装備では一分もたたないうちに暑苦しく感じてしまうからです。買い物袋と風呂道具の入ったトートバックとジャケットを両手に抱えて階段を上がり二階の病室に戻りました。温泉に行って戻ってくるまでが約二時間半。何ごともなく眠っている母の顔を見て、ほっと息をつきました。


第四章 高齢と終末

過疎化が進む小さな田舎町の総合病院は、まさに老人病棟という様相でした。二階病棟には若い患者も稀にいましたが、長期療養向け病棟である三階は、介護がなければ高齢者ばかり。それが、六十五歳以上の人口が三十五パーセントという高齢化地域で唯一の総合病院の現状でした。

二階病棟のワンフロアには大部屋と個室がちょうど半々ほど、合わせて十六室ほどありました。簡単に体や頭を洗うことができる広い洗面所と手洗い所が二カ所あり、食堂と娯楽室、休憩スペース、付き添いや見舞客用の応接室がそれぞれ一カ所ずつ。入院中とはいっても普通に歩き回っている患者も多く、そういう人たちは朝八時になると娯楽室に集まり大画面テレビで朝ドラを見ていました。車椅子で動き回り、娯楽室へ行ったりナースステーションに入って看護師さんらと話し込んだり、時間をつぶしたりする高齢の患者さんも何人も見かけました。

病棟フロアを歩いていると必ずといっていいほど顔を合わせる八十代と思しき車椅子のご婦人がいました。私の顔を見ると、いつも穏やかな優しい微笑みを向けて無言の挨拶をしてくれ、私も挨拶を返していました。一度、話しかけられたことがありましたが、声がかすれて小さく、言っていることが聞き取れませんでした。それでも会うと挨拶だけは続き、そのうちそのご婦人の顔を見るとなぜか安堵するようになりました。ご婦人は必ず車椅子で動いていたので足が悪かったのでしょうが、それ以外はとても元気そうに見えました。病院には一見元気そうに見えるお年寄りも数多く入院していましたが、二階病棟は入院患者の入れ替わりも頻繁にあり、私が付き添いで寝泊まりしている間に、入院していた高齢者が亡くなったため空室になるということも何度かありました。

三階病棟は、介護が必要な高齢者が長期的に療養している、生活の場という雰囲気でした。食堂の他に娯楽室というものがあり、そこが入院患者の集いの場という雰囲気で、朝ドラの時間になると大勢が集まって椅子を並べ、テレビを観ていました。耳の不自由な高齢者も多いため、病棟の広いフロアの向こうまで響き渡るような大音量が流れてくるのが朝のおきまりになっていました。

三階病棟の病室には表紙に「患者様のご家族様へ」と書かれたファイルが置いてありました。病院でのルールや患者の日々の治療や介護の流れ、スケジュールが書かれているほかに、患者家族へのお願いと題したページがありました。

このところ、長期間お見舞いにいらっしゃらない患者様のご家族が増えています。病院では患者様のためにできる限りのケアをさせて頂いておりますが、ご家族様には可能な限りお見舞いに来て頂けることを病院としても、患者様も望んでいます。お忙しいとは存じますが、どうぞ宜しくお願い致します。

そんな内容の文面でした。
長期療養型病棟というのは、老人ホームと化しているのだなと思いました。入院している高齢の患者の中には、病院に任せきりでほとんど寄りつかない家族しかおらず、孤独に過ごしているのだなと。

病院のシステムについて調べてみると、療養病床というのは2017年で廃止が決まり、2024年3月末までは介護医療院のような新施設への移行期間だということです。超高齢化社会の上に介護を含めた医療現場の人手不足は深刻、膨れ上がる医療費が財政を圧迫するという悪循環を緩和するための措置だそうですが、これによって約十三万床が削減されることになり、高齢者の医療難民が多数でてくることになりそうです。

母は癌告知を受ける前、いくつもの病院に通っていました。娘の私には体調のことはほとんど話してくれなかったので、それを後になって知りました。
地元の町には大きい総合病院があるものの、一軒だけあった歯科医は閉鎖し、建物だけが売りに出されている状態。総合病院にも内科、皮膚科、整形外科くらいしかなく、母はそれ以外の病気やケガの治療が必要なときは車で二十分ほどの市へ、持病の腰痛は列車で五時間以上かかる札幌まで泊りがけで通っていました。

内科だけ地元の総合病院を利用していたのは、便利な出張診療があったからです。過疎化と高齢化の進む田舎町は、人口は五千人にも満たない過疎地ですが、広さは東京でいえば八王子市と日野市を合わせたほどの面積があり、医師がそれぞれの地域にある公民館など公的施設で月に一度ずつ出張診療所を開き、必要に応じてその場で処方箋も出してくれるのです。わざわざ病院まで行かなくても近くまで来てくれるため高齢者に好評で、地域のほとんどの住人が臨時の診療所を利用しています。

出張診療所にやってくる高齢の人々の診療内容はさまざまです。眩暈がする、お腹が痛い、胸が痛い、喉が痛い、微熱がある、食欲がない、うまく飲み込めない、眠れない、尿が出ない……。

風邪のような症状なら風邪薬を処方してもらい、痛みがあるなら痛み止め、眠れないといえば睡眠導入剤も処方してくれる。けれども診察しても原因がよくわからないときは、医師からこんな言葉をかけられます。

「あー、それは年のせいだね」

確かに多くの高齢者の体の不調はその年齢ゆえのことも多々あるのでしょうが、その言葉には意識の底にある「年寄だから、病気になっても仕方がない」「年寄だから、死んでも仕方がない」という気持ちが透けて見えてしまいます。

年寄だから病気になっても仕方がないので、徹底した原因の究明も治療もしなくてよいということなのかと、疑問に思ってしまいます。年寄だから死んでも仕方がないので、無理に長生きなどしなくてもよいという気持ちが、医療従事者の中にあるのかなと、疑問に思ってしまいます。

出張診療では年に数回の健康診断も行っており、数値に異常があればやはり薬が処方されます。高齢者の多くは何らかの生活習慣病を抱え、継続的に薬を服用しているので、出張診療が持病の薬を受け取るためのものになっているケースも少なくありません。月に一度しかないため、一カ月分の大量の薬を受け取ることになります。

「血液サラサラの薬、飲んでるの」
がん告知の二年前だったでしょうか、母がそう言ってリビングテーブルの引き出しから内用薬袋を出して見せてくれたことがありました。いつから飲んでいたのかはわかりません。けれども母は何年も前から、血液をサラサラにする効果があるという触れ込みの電気治療椅子を購入して使っていたので、ずいぶん前から動脈硬化の懸念があったのだろうことは知っていました。ただそのときは、そうか、薬も飲んでいたのか、と自分の中で納得しただけで、症状について母にそれ以上根掘り葉掘り聞くことはしませんでした。

何で根掘り葉掘り聞こうとしなかったのかと、今になって悔やんでいます。取り返しのつかないことばかりです。

母が飲んでいたのは、リマプロストとランソプラゾールとレバミピドの三種類の錠剤だったようです。ネットで調べると、リマプロストは血流を改善し腰部脊柱管狭窄症の症状緩和にも効果があるとありました。ランソプラゾールとレバミピドはどちらも胃や消化器官の薬なので、リマプロストのせいで胃腸が荒れるのを防ぐためのものだと思います。

しかしリマプロストには、いくつもの副作用があることも書かれていました。発疹、かゆみ、蕁麻疹、出血、下痢、吐き気、腹痛、食欲不振、胸やけ、動悸、頭痛、めまい、ほてりなどです。これらの症状はどれも、薬の副作用でなくても発症する可能性が当然あり、もし何かの病気になったときに薬の副作用だと混同してしまうリスクがあると思いました。さらにこの薬を服用し続けて全身倦怠感、食欲不振、肝機能障害の可能性を示す黄疸の症状が出た場合は、服用を中止することと、注意書きがありました。

内科にはほかに、年に何度かの健康診断や、風邪を引いたとき、インフルエンザの予防接種などで頻繁に通っていたようでしたが、それを知ったのは亡くなった後のことです。母には他に、何年も前から腰部脊柱管狭窄症という持病があり、そのため頻繁に整形外科医院にも通っていました。町内には専門医がいないため、車と列車を乗り継いて六時間以上かけ泊りがけで札幌の病院まで足を運んでいました。

赤字経営のJR北海道は、過疎地の列車の本数を減らし駅も古いため、高齢者が長距離に利用するのは大変です。小さな駅は平屋建てなので利用するのはかえって楽ですが、複数の路線が乗り入れているような市街地にある駅は老朽化したままで、エレベーターもエスカレーターもありません。札幌へ行くにはその駅で乗り換えることになり、長い階段を昇り降りしなければなりません。腰部脊柱管狭窄症のため足腰が痛んでいる母は、その階段の昇り降りができないために、乗り換えの必要がない小さな駅まで自力で一時間近く車を運転して、列車に乗っていました。八十歳を過ぎた母が、そんな長時間運転をするというのもまた、大変なことだったと思います。

それでも母は、その長い道のりを往復し、月に何度か札幌まで通っていました。そこまでして通わなければならないほど、腰部脊柱管狭窄症は辛いものだったのだと察することができましたが、母は自分の症状や辛さをほとんど口にすることがありませんでした。

母が大変な苦労をして病気治療をしていたことを知ったのは、危篤の知らせを受けて病院に駆けつけたときでした。付き添いをしてくれていた叔母たちから、
「本当にいつも、あちこちの病院に行っていたからね。あの病院がいいという評判を聞きつけると、どんな遠くでも出かけていった」
と教えられました。

何でもっと、自分の体調のことを娘に話してくれなかったのか。いや、私がもっと気にかけて、自分から根掘り葉掘り聞いてさえいれば……。

考えてみれば八十を過ぎた高齢者が、さまざまな病気と付き合いつつ生きていかなければならないというのは、想像を働かせればわかることでした。しかし遠く離れて暮らしていたこともあり、母の日常がどんなものであったかを考えることをサボっていましたし、何でも自分でやってしまう母に甘えていたのだと思います。

列車のチケットを取ったりホテルの予約をしたりするのだって手間がかかったはずです。インターネットやスマートホンに慣れている世代なら、列車もホテルもウエッブサイトで簡単に予約をするし、JRならサイトで予約をすれば大幅な割引になるということも知っています。インターネットなど使ったこともない母は、いちいち電話を入れて予約をしたり、窓口でプロパーの値段でチケットを購入していたのだろうと思います。知っていれば、私がインターネットで取ってあげることもできたのにと今思っても、もう遅すぎでした。

意識を失った母がいる病院に駆けつけた日から泊まり込みでほぼ二十四時間つきっきりの付き添いを始めた私は、同時に、病院が母に対して行う医療に関する意思決定者となりまし。病院は治療や入院の際に患者に同意書を書かせるものらしく、入院当初は母が自分でその同意書に記入、サインをしていましたが、それができなくなったため私が母に代わって同意書に記入することになったのです。

『入院診療計画書』と書かれた4Aの紙には、担当看護師と介護士の名前が書かれてあり、「病名」「症状」「全身状態の評価」「治療計画」「リハビリテーションの計画」「栄養摂取に関する計画」「感染症、皮膚潰瘍等の皮膚疾患に対する計画」「その他看護計画」の項目ごとに説明が示されていました。

治療計画の項目には「疼痛コントロール」とあります。その他看護計画の項目には「身の回りのお手伝いをさせていただきます。治療や検査が不安なく受けられるよう、説明や介助を行います。安楽に過ごせるよう援助させていただきます」と書かれていました。

ああ、やはり終末医療なのだなと、その計画書を見て改めて思いました。わかりきっていたことでしたが、改めて現実を突きつけられると、もどかしさのような苦いものが自分の中に湧いてきて心を疼かせました。母が自ら抗がん剤治療を断ったため仕方がないことなのかもしれませんが、癌そのものに対して何の治療も施すことなく、ただ死に向かって進行していく過程を黙って見守るしかないという状況は、家族にとってはきつ過ぎました。

そんな状況がどうしても素直に受け入れられず、看護師さんについ喧嘩腰になってしまったこともありました。
寝たきりの母の体を少し動かしてあげたいのですが、どんなふうにしてあげるのがいいでしょうかと聞いて、
「終末医療を受けている患者さんには、無理にリハビリをさせるようなことはしないんですけれどね」
と言われたときのことです。

癌が良くなることはないのでしょうが、脳梗塞のせいで麻痺した右半身と失った意識は、治療を受ければ回復に向かう可能性もあるのではないか。実際、母は、脳梗塞から数日後には麻痺していた右足がわずかだが動くようになっていたし、顔の右半分の筋肉にも動きが出るようになっていました。脳梗塞に関する情報を読み漁ると、意識がまったく戻らないまま数年経った人が、ある日突然、意識を取り戻し、元通りに戻ったという例もあることを知りました。意識を戻すために周囲の人がやるべきことや、リハビリ方法もネットで検索するだけでいくつか手に入れることができました。

「癌はもう良くはならないかもしれないけれど、脳梗塞の症状は良くなっている部分もあるんです。右手はまだだめですけど、足は動くようになったんです。意識だって、もしかしたら戻る可能性だってあるんですよね?」

私がそう言って詰め寄ると、看護師さんは何も言葉を返さず、数時間後にリハビリ計画書を持って病室に戻ってきました。
「今日から早速、始めます」
看護師さんはそう言って、担当してくれる療法士さんの名前とリハビリ内容が書かれた紙を一枚差し出し、疑問な点などなければサインをして欲しいと言ってきました。

数時間後に療法士さんがやってきて、早速リハビリが始まりました。固まった手足の関節をほぐしながら動かしていくというものでした。担当の療法士さんは三十代の男性で、意識のない母にも付き添いの私にも朗らかに接してくれました。

脳梗塞で倒れてから寝たきりの母は、日に何度か看護師さんが体の向きを変えてくれる以外は、体を動かすということをほぼまったくしていなかったためか、特に股関節を折り曲げるときに酷く痛そうな顔をしていました。麻痺している右足では表情を変えませんでしたが、左足を折り曲げたときの表情の変わりようはすさまじいものでした。療法士さんが足の裏を持って体全体で力をかけて膝を折り曲げて母の胸元に押し付けるのですが、母は腰部脊柱管狭窄症の持病があるためか、この態勢になると刺すような痛みが走るのかもしれないと思いました。目を丸く大きく見開いて、怒りを発しているかのように眼光鋭く、声は出なかったのですが、口は唸っているような、叫んでいるような形をしていました。

その夜、母が声を出して唸り声を上げました。
九時の消灯とともに簡易ベッドで眠りにつこうとしているときに、ベッドで眠っているはずの母が声を上げ、それが延々と続きました。
「どうしたの? 痛いの?」
声を掛けても返事はありませんでしたが、唸り声だけは止みませんでした。夜中になってもそれが続き、これはさすがにおかしいと思い、看護師さんを呼びに行きました。声を出して痛がっていると伝えると、では座薬を入れてみましょうということになりました。あくまでも応急措置なので効果があるかどうかはわからない、朝になって先生に相談しないと痛み止めを使うことはできないといわれ、何もしないよりはましだと応急措置をしてもらうことにしました。座薬を入れた後は痛がり方が少し収まりましたが、それでも眠れるような状態ではなさそうでした。

翌朝、看護師さんが痛み止めのパッチを持ってきて、母の胸のあたりに貼ってくれました。それからは唸り声を上げることはなくなったので効いているのだろうと思いましたが、どのように効いているのかはわかりませんでした。痛む患部にだけ効いているのか、それとも麻酔のように体全体の感覚が鈍くなるような状態なのか。母に意識があれば本人の口からそれを聞くことができたはずだと思うと、またやるせない気持ちに襲われました。

そんな状況になっても、リハビリ療法士さんが毎日来てくれていました。一回に四十分間ほどのリハビリトレーニングの間、私も母のベッドの前に立ち、母の反応を注意深く見守りました。
「反応はどうですか?」
と質問すると、療法士さんは細かく丁寧に説明してくれました。母がどの程度の力で抵抗してくるか、また抵抗しないのか、自ら動かそうとしているのかいないのか。そうしたちょっとした反応を教えてもらうことで、母の今の状態を把握したいと思いました。

病院での毎日は、ルーティーンの繰り返しでした。外が明るくなり始めると起きて、巡回してくる看護師さんが血圧などのデータのチェックに来ると私もそれをいちいち聞いて確認し、午前中に父が来るのと交代で温泉へ出かけ、コンビニかスーパーに寄ってその日の食事を買って帰り、母の傍らで本を読み、リハビリの時間には療法士さんと一緒に母の状態を確かめました。血圧や呼吸数、心拍数といった数値は安定しており、付き添いを始めて数日後には、血圧は健康時と変わらない数値まで戻っていた。

そんな日々を一週間ほど過ごした頃、年配の看護師さんに「ちょっとお話が」と、病室の外に呼び出されました。
「実はですね、ちょっと検討して頂けないかと思うことがありまして」
改まった様子でそう切り出され、一体何だろうと、話の内容がまったく想像つかずきょとんとしていると、年配の看護師さんはさらに続けました。
「お母さん、このままの状態がしばらく続きそうな可能性もありそうですよね。そうなるとここの病室が長期になってしまって、病室が足りなくなる可能性もあるんですよね」

このとき母の隣とさらにその隣の病室は空いており、今の時期は病院が空いているのだろうかと思っていたくらいだったので、病室が足りなくなるという話は意外でした。
「そうなんですか?」
「そうなんですよ。それでですね、大変申し訳ないんですけれど、三階に引っ越していただくわけにはいかないかと思いまして……」

このときは病棟の事情というものをまったく把握していなかったので、引っ越してほしいと言われ、なんだそんなことか、としか思いませんでした。そのとき母が使っていた二階病棟は短期の患者がほとんどで、回転が早い病棟だとは感じていました。そんな病棟に、入院が長期になりそうな母を留めておくには、不都合があるのだろうと思いました。
「そうですか。別に構いませんよ」
私がそう言うと、年配の看護師さんは言い難そうに言葉を続けました。
「それが実は、三階も結構いっぱいでして、入れるのが個室しかないんですよ。部屋代がちょっと高くなってしまうんですけど……。その代わり、個室の中にはユニットバスも付いていますし、便利ですよ」

なんだそんなことか。二階でも個室を使っていたので、個室はこちらの方も望むところだった。二階の個室は一泊二千円だったが、三階の個室は三千円以上するのだろうか。あまり高いなら父に相談してからでないと決められないと思い、回りくどい言い方をしている看護師さんに「その部屋、いくらですか?」と単刀直入に聞きました。
「一泊二千円なんですけれど……」

なんだ、二階の個室と同じじゃないか。なぜそんなに恐縮しているのか。
そう思いましたが何もいわず、その部屋でいいですとひとこと言いました。
「そうですか、ありがとうございます。では、先生には私の方から、病室を替わることを伝えておきますので」
看護師さんは安堵した表情でそう言うと、すぐに転室の書類を持ってきて、三日後に引っ越しをしますと伝えてきました。

三階の病室は、二階の部屋よりやや狭く感じましたが、その分、ビジネスホテルかワンルームマンションのようなユニットバスが付いていて、ソファーとテーブルも備えられていました。
引っ越しは、わずかな私物を片付けてバッグや段ボール箱に詰めると一時間もかからずに準備が整い、医療用の道具や小物は二階病棟の看護師さんが片付けてくれて、診療用の二段式台車に荷物を載せていっぺんに運ぶだけですぐに終わりました。病院のベッドには車輪が付いているので母はベッドごと移動すればいいだけでした。眠っている間に引っ越したので、部屋が変わったことにも気づかなかったかもしれません。
「母さん、今日から三階の部屋に替わったよ」
目覚めたときに耳元でそう言うと、母は薄っすらと目を開けて病室の天井に視線を向けていました。

病室を引っ越してすぐ、三階病棟の看護長さんと担当看護師さんがあいさつやってきました。病棟が変わると看護師さんの顔ぶれもまったく変わるというのを初めて知りました。三階の看護師さんに、二階の看護師さんはこうだったと言うと嫌な顔をされたので、二階と三階では看護師さん同士で対立もあるのかもしれないと思いました。

看護師さんの人数は、三階病棟は二階よりも少ないように感じました。病室のベッド脇に設置されるデータモニター機器も小ぶりで簡易なものでした。病状にほとんど変化のない患者が滞在する三階病棟では、二階病棟のような手厚い対応はしてもらえないのかもしれないと、考え過ぎかもしれないがついそう思いました。三階病棟では週に二度の入浴サービスがあると聞いていましたが、いつまで経っても入浴をさせてくれる気配がありませんでした。

第五章 母の真実

付き添い中は、自分は何でこんなにも母のことを何も知らなかったのだろうと愕然とする毎日でした。病室にやってくる見舞いの人たちから、母についてのさまざまな話を聞かされ、そこで初めて知るということの繰り返しでした。

「お母さんね、昨年の秋から具合が悪い、具合が悪いと言っていたの。でも病院に行っても特に何も治療してくれないし、病院に行ってもねー、と言っていたのよ」

そう教えてくれたのは、実家のご近所さんでした。
秋の段階でそんなに体調が悪かったことなど、まったく知りませんでした。秋ごろに一度、何かの用事で母と電話で話をしていましたが、そんなことは何も言っていませんでした。

私は母に電話を入れるとまず「元気?」と必ず聞くのが常でしたが、母はそのときも「元気だよ。変わりないよ」としか答えませんでした。年末にはいつも帰省していたので、今年も帰るからねと言うと「うん、わかった」と、いつも通りに返してきました。その後、年末の帰省までに何度か電話で話しましたが、体調が悪そうな様子は微塵も見せませんでした。

親しい近所の人に言うように私に話してくれていれば、と思いました。地元の総合病院内科の院長である主治医が何もしてくれないというのなら、札幌の大きい病院でセカンドオピニオンをもらおうと、無理にでも連れていくことができたかもしれません。インターネットを使ったこともなければセカンドオピニオンという言葉もよく知らなかった母にとっては、そういうときにどうすればいいか、他の病院へ行くといってもどこへ行けばいいのか、どう情報収集すればいいのかもわからなかったはずです。私にすべてを話してくれれば、本当にしんどい状態なのだと訴えかけてくれれば。そんな悔いばかりが湧きあがりました。

私だけにではなく、母は父にも体調が悪いということをあまり話していなかったのかもしれません。父自身が手術をしたばかりだったため、気を遣っていたのだろうと思います。ただ母が、朝食の支度と後片付けを終えるとソファーの上に横になり体を休めることが多くなり、以前はそんなことはなかったのにと、父は内心、心配はしていたようでした。けれども人に迷惑や心配をかけるのが嫌な母は、家の中ではほとんど何もいわなかったのかもしれません。

親戚の叔母からは、母が病院にかかるために遠いところでもどこへでも足を運び、とにかく病院通いで忙しそうだったと聞かされました。数年前に肩を痛めて近くの市にある厚生病院に入院したとき、同じ病棟に入院していたときに意気投合して親しくなり、それ以来友人付き合いをしている同年代の女性がいると教えられたのは、その叔母からでした。病院で新しい友達を作ることがあるほど、母にとって病院は老後の人生の大きな部分を占めていたのです。

母からは、肩を痛めて手術をしたとは聞いていましたが、しばらく入院するほどの大変なものだとは思ってもいませんでした。母が肩を痛めたのは、父が入院したときに、家の前の雪掻きをする人が誰もいないからと、自分でスコップを使って雪掻きをしたことが原因でした。八十歳を過ぎ、力仕事などほとんどしたことがない母が、いきなりスコップで雪の山を掘り返してどこかを痛めないわけがありません。

雪掻きがどうしても必要なら、誰かに頼ればよかったのに。今は町役場の福祉課でも高齢者向けのサービスが充実しているので、相談すればあるいは何とかなったかもしれないのに。
それでも誰にも頼らず自分でやってしまおうというのが、母らしいところでした。体調が悪くてどうしようもなくても決して娘に頼ろうとしなかったのも、母がそういう人だったからでした。

親戚の叔母たちは、母があまりにも一生懸命に病院通いに精を出していたので、体調管理や持病治療は隅々まで完璧にしているのだろうと思っていたようでした。体調が悪くなったと聞いてはいても、まさかこんな状態になっているとは思いもよらなかったと思います。ましてや、最初に入院した頃はまだ元気だったのが、突然、脳梗塞で意識を失った母の姿を目の当たりにし、身近な人はみな衝撃を受けていました。
「こんなふうになるなんて……」
母のベッドの脇でそう言って、涙を拭う人もいました。最初のころは呼びかけるとまだ反応がありましたが、それも日を追うごとに乏しくなっていき、何日か後に再び訪ねてきた人が愕然とすることもありました。

付き添いをしている間は母について初めて知ることの連続でしたが、そのひとつが、母はこんなに社交的な人だったのかということでした。

親戚の見舞い客以外に、週に何組かは必ず親しくしていた母の友人たちが訪ねてきました。母は年金生活をするようになってから悠々自適に暮らしていたようで、生け花を習ったりパークゴルフのサークルで活動したり、老人クラブに参加してよく旅行にも出かけていたようでした。生け花を習っていたときは家の中に花を飾っていたので知っていましたが、パークゴルフを楽しんでいたとはまったく知りませんでした。しかも、癌とわかる直前の、具合が悪くなっていたはずの時期にもまだ続けていたようでした。付き合いが悪いと思われるのが嫌で無理をしていたのか、それとも多少の体調不良をおしてでも参加したいと思うほど母にとってはそれが生活のはりになっていたのかもしれません。

高校卒業時に実家を離れ、母と会うのは帰省したときのみ。この十数年は年末に帰省しても二泊三日滞在するのがせいぜいで、母と一緒の時間を過ごしたことは本当にわずかでした。いつも雪が積もった寒い時期の年末年始に帰省していたこともあり、両親ともにほとんど自宅にこもっていることが多く、母は三度の食事の支度をする以外はお気に入りのテレビドラマを観たり、たまにジグソーパズルを解いたりして過ごしていました。そんな母を見て、
「こんな毎日を過ごして、楽しいのだろうか」
とふと考えたこともありました。

十八歳から東京に移り、二十代と三十代の半分近くを米国で過ごした自分と、母の人生はあまりにも違うと思いました。母と娘としてともに生きてきた二人の道は十八年目で枝分かれし、方角は年を追うごとに開いていき、もはや互いの道がどんな様子なのかうかがい知ることもできなくなっていたのです。私自身も自分がどんな仕事をし、どんな生活を送っているのかほとんど話したことがなかったですし、母のプライベートについて聞くこともありませんでした。思えばずいぶんとよそよそしい母と娘だったかもしれませんが、互いに干渉し合わないことが互いに対する優しさの印だったのではないかとも思います。

いや、そうではない。そんなのはただの言い訳だ。
母から何も話してこなくても、私の方から根掘り葉掘り、何でも聞けばよかったのだ。こうして何も聞いてこなかったから、私は母のほとんどすべての真実をこうして見舞の人々から知らされることになってしまった。そのひとつひとつの言葉が頭の中を駆け巡り、やるせない思いで苦しくなりました。

第六章 院長の回診

こんなに人当りのいい人物と出会ったのは、これまでの人生で初めてかもしれません。

それが、故郷の田舎町にある総合病院の院長と初めて会ったときの印象でした。常時マスクをしているためどんな顔なのかはよくわかりませんでしたが、背が高く、清潔感のある雰囲気。接する相手に不快感を与える要素はひとつもなりませんでした。

何よりも、ソフトボイスの柔らかな語り口と丁寧な話し方が、好感度を上げていました。母の内科主治医であるその院長と最初に話したのは電話を通してでしたが、会ったことのない相手と電話で言葉のキャッチボールをするというのはそう容易いものではなく、タイミングが合わずに相手と自分の言葉が重なってしまうことがありましたが、院長はそんなときに必ず言葉を止めて、相手に譲るのです。

東京の病院で、そんな医師には出会ったことはありませんでした。大きな総合病院なら尚更で、週に一度程度の非常勤の医師には、ずいぶんとぶっきらぼうだったり、いきなりタメ口で話してきたりする人がたくさんいます。それが当たり前のようになっているので余計に、院長に対する好感度が上がっていました。

その人当りの良さのため、町の高齢者には人気がありました。高齢者人口の高い田舎の過疎地で高齢者に人気があるということは、患者たちから揺るぎない支持を得ているということです。悪口を言う人はほぼ誰もいないのではないかというくらいの支持率です。

ただ、狭い地域なので、何もしなくても噂話が自然と耳に入ってきました。院長はずいぶん昔からこの病院にいたそうですが、別の町の病院に移っていた時期もあり、数年前にまたこの町に戻ってきて総合病院の院長の座におさまったようでした。それは、院長にとってもこの小さな町の病院が、居心地がいいということに他ならないと思います。

小さな町の病院といっても、こんな田舎にしてはかなり大きな総合病院でした。内科、整形外科、皮膚科といった一般的なものから消化器内科や糖尿病内分泌科といった専門性の高い科まで全部で七科あり、病床が百近く。働いている職員の数も相当なもので、恐らく町で一番の労働力を抱えているのではないかというくらいです。

その病院で頂点に立つのが院長です。看護師たちもやすやすとは近づけない雰囲気があるらしく、私が患者家族として相談したいことを院長に伝えてほしいと看護師に頼んだとき、結局それを院長に伝えてもらえず看護師レベルで止まってしまったことが何度かありました。そのような存在である院長が、驚くほどの人当りの良さで、町民の大半である高齢者の患者たちの信頼を集めていたのです。

入院する母のもとに駆けつけた翌日、私は院長である主治医と初めて対面しました。週一度だけ行われる病棟の院長回診は、その週はすでに終わっていたのですが、担当看護師が朝の見回りに来たときに「今日、先生はいらっしゃいますか?」と聞くと、
「ええ、いらっしゃいますよ。そうですよね、詳しいお話を聞きたいですよね」
と言って、院長に伝えてくれたのです。

院長は昼に、白衣にマスクといういで立ちで現れました。私は椅子から立ち上がり、眠っている母のベッドを挟んで向かい合い、挨拶をしようとしましたが、院長は名乗ることもなければこんにちはの一言もなく、おもむろに要件だけ話始めました。
「この状態がいつまで続くかわかりませんが、もう良くなることはありません」
穏やかな口調で、きっぱりとそう言いました。温かみのある声なのに、患者家族の希望を打ち砕く、取り付く島もない言葉でした。

その対面の間、穏やかな話し方で事務的に現実を語る院長が、一度だけ感情を波立たせたときがありました。
「母はどうして脳梗塞になってしまったのでしょうか。治療の影響で?」
何気ない私のその一言がきっかけでした。
院長は急に三段階くらい声のトーンを上げ、マスクを手で引っ張って外し、
「いえ、ちがいます」
と勢い込んで言いました。
「治療は、緩和的なものしかしていませんから。影響は何もありません」
治療が良くなかったのかと非難したわけではなかったのですが、院長はそう受け取ったのでしょう。ぎくしゃくした雰囲気を残して、院長は病室を出ていきました。

主治医の言い方に、何ともすっきりしない思いを抱えていた私は、数日後に再び看護師さんに、先生と話をさせて欲しいと頼みました。今度はただ話をするだけではなく、母の内臓の画像を見せてもらえないかと要望を出してみたのです。膵臓癌であると確定診断を受けたときに母本人は画像を見たはずですし、付き添った父も見たはずですが、父母からは膵臓と転移した肝臓がどのような状態であるのか、詳しいことはほとんど聞いていませんでした。聞いていたとしてもそこから想像するしかありませんので、やはりこの目で見てみたいと思いました。

看護師さんに要望を伝えてから、病室で一日中付き添いをしながら返事を待ちました。朝のうちに日中勤務の看護師さんに伝えたので夕方までには返事が来るだろうと思い、外出してしまっては行き違いになって返事をもらいそびれることもあるだろうという心配から、席を外すに外せませんでした。

ところが夕方五時半になっても六時になっても、返事はきませんでした。何でこないのか、家族が画像を見せてもらうのは難しいことなのか。あれこれと考えながらも仕方がないとその日は諦め、夕飯と翌日の朝食の買い出しをするため外に出ました。母は眠っているので、わずかな時間ならナースステーションに一声かけて病室を外すことができました。

その頃の母の状態は、日々ほとんど変わりませんでした。血圧も平常な数値でしたし、心拍数や呼吸の状態も悪くありませんでした。もし脳梗塞にさえならなければ、ベッドに横たわりながらも傍らにいる私といろいろな話をしていたかもしれない、と何度も想像しました。母は入院した頃から味覚異常を発症しており病院から出される食事がほとんど食べることができないでいたと聞いていたので、何とか母の口に合うものを探してスーパーを歩き回ることもできたかもしれません。どこか体に痛むところがあれば、私がさすってあげることもできたでしょう。

それが何一つできない状態になってしまったわけです。どうしてこうなったのか。やはり、画像を見せてもらい、主治医に直接詳しい説明を聞かなければと思いました。

翌朝、日中勤務の看護師さんが病室に来たとき、私は再び画像を見せてほしいと院長に伝えてくれるように頼みました。そしてまた一日中返事を待ちましたが、前日と同様に何の音沙汰もありませんでした。そのままもう一晩を過ごして翌朝になり、今度は院長が回診でやってきました。聴診器で胸の音を聞いたり両目に光を当てて反応を確認したりと、一通りのことが終わると、私は切り出しました。
「お伝えしたこと、聞いていただけましたか?」
院長は顔を上げ、
「聞いていないけど、なに?」
と逆に聞いてきました。
「できれば、診断をされたときの母のお腹の写真を見せていただけませんか?」

「ああ、いいですよ」
院長はあっさりとそう言いました。

なんだ、別に画像を見ることを嫌がられているわけではなかったのか。看護師さんに何度お願いしても、院長まで話が伝わらなかったこの数日間は一体何だったのだろうかと思いました。看護師たちが気を回し過ぎて院長に伝えるのを遠慮していたのだろうが、それにしても家族が画像を見せて欲しいと望むことは主治医に対して失礼に当たる行為なのだろうかと疑問に思ったりもしていました。蓋を開けてみたら院長はまったく意に介しておらず、拍子抜けでした。少なくとも表面的には、意に介していないように見えました。

母の画像は、母の病室がある二階病棟のナースステーションの中で見せてもらいました。その日のうちに院長が、仕事の手が空いた時間に呼びにきてくれ、看護師たちが何人も働いているガラス張りの部屋の片隅にあるコンピューターの前に座らされました。
「お母さんは膵臓の癌自体はたいしたことはないんです。肝臓に転移したものが、かなり進行した状態になっているんです」
院長はそう言いながら、パソコンの画面を少し動かし、私の方へ向けてくれました。そこに映っていたのは、膵臓ではなく肝臓でした。膵臓の病変はたいしたことがないので見せるまでもないということなのか、内臓部分で見せてくれたのは肝臓だけでした。

ただその状態は、衝撃的なものでした。
母の肝臓には無数の、実におびただしいほどのもの黒いシミのようなものが付いていました。横二十五センチ、縦十五センチ、厚さ七センチほどもある大きな臓器は、そのほとんどの部分が癌に侵されているということなのだと思いました。
「母の肝臓は、どれくらいの期間でここまでになってしまったんですか?」
私の質問に院長は、
「三カ月ですね」
と答えました。

そんな短期間のうちに、膵臓から転移してあっという間に肝臓に広がってしまうものなのか。本当にそんなことがあり得るのだろうか。

疑問に思いましたが、それ以上の細かいことは聞きませんでした。
「どうしてこんなふうになるまで、気づかなかったんですか?」
「それはね、症状が出なかったからです」

いや、そんなことはなかったのではないですか? と言い返したい気持ちでした。母は、前年の秋から体調が悪いと周囲の人に訴えていたのです。けれども病院に行っても何もしてくれないからと、諦めの境地になっていた。体がだるいからと受診しても「あー、風邪ですねー」で簡単に終わってしまったのです。

胸の内に湧き上がる思いの数々をかみ殺しながらコンピューター画面を見詰めていると、院長は、今度は別の肝臓画像をクリックして画面に広げました。
「これは二年前のものです。きれいでしょう?」
確かに、それは黒いシミで埋め尽くされた今の肝臓とは違い、全体が白い状態でした。ただ、肝臓のほぼ真ん中あたりに、一つだけ黒く丸いシミのようなものがありました。
無意識に、そこに視線を吸い寄せられていました。
「あ、それは違いますよ」
院長は、その影は癌ではないという意味のことを、笑みを浮かべながら言いました。

では何なのだろう。素人目には、肝臓の表面に無数に散らばっている癌の黒い影も、真っ白い肝臓の真ん中にある一つだけの黒い影も、まったく同じもののように見えました。
なぜこれは違うと言えるのか。
きちんと理由があって、そう言っているのか。
喉元まで疑問の言葉が出かかり、飲み込みました。疑惑の目など向けたら、プライドの高い医者という職業の、しかも院長という地位の人が気分を害さないわけがないでしょう。院長と何度か接してそのあたりの感覚は肌でつかんでいましたし、気分を害させてしまうのは患者家族としては避けた方がいいだろうと思いました。

院長は、今度は脳の画像を見せてくれました。入院中に脳梗塞を起こしたときに撮ったもので、脳の右側に梗塞ができているのがわかりました。
「こういうふうになるのって、トルソー症候群というのですよね?」
 私はインターネットで得た知識で、そう質問してみました。
「そうです。今は動脈血栓塞栓症と言います。それは古い言い方ですね」
院長は明るい声でそう答えました。
何等かの癌がある患者は、心筋梗塞や脳梗塞になるリスクが通常より高くなるというのがトルソー症候群だと、私は専門サイトで調べていました。だから母が脳梗塞になったのは、不運だったが仕方がないことだったのだと院長は言いたかったのかもしれません。

けれども脳梗塞は発症から数時間以内なら、治療できるものです。これもやはりインターネットで得た知識に過ぎないのですが、そんな記述を確かに見ました。入院中に発症し、すぐに処置ができたはずの母が、なぜ意識を失ったまま戻らないという最悪の事態にしかならなかったのか、という疑念がありました。
すると院長はこう言いました。
「意識はないままですが、癌の痛みを感じなくてすむので、そういう意味ではかえって良かったではないですけど、苦痛は感じないわけですからね」

本当にそうだろうか?
このとき私は、院長の言葉を半信半疑で聞いていました。実際、画像を見せてもらったこの日から数日後には、意識がなく意思表示もできないはずの母は、痛みを訴えるようにうめき声を上げるようになっていました。思い返すとその前には、母がベッドの横についている転落防止用の柵を手で必死に握ることがあり、あれは痛みをこらえるための行動だったのではないかと思いました。

母の画像を見せてもらったことは、私の中の疑心暗鬼を膨らませる結果になりました。もう、主治医と話しても空しくなるだけでした。そんな思いから、その後は院長と直接会話を交そうという気が失せていました。
それから一週間ほど経った頃、母が三階病棟に引っ越して数日後のことです。院長が思いがけず回診にやってきました。

三階に移ってからの母は、血圧や心拍数などの数字はほとんど変わらなかったものの、白目の部分が黄色っぽくなってきていました。
これが黄疸というやつなのだろうかと思いました。
それまで母には黄疸の症状はまったくなく、入院してさらに脳梗塞で意識を失った段階でさえ顔色は良く、健康な人とほとんど変わらないくらいに見えました。点滴でしか栄養を取っていませんでしたが、痩せたりやつれたりというふうにも見えませんでした。ただ白目が黄色味がかり、手を握っても最初の頃のように握り返してくれることがなくなっていました。

院長が病室に入ってきたのは、午後三時半頃でした。自宅から通って来ている父が帰宅した後で、私は眠っている母の様子を時々確認しながら窓際のソファーに座って本を読んでいました。
院長はいきなり入ってくると挨拶も何もなく、母の胸に聴診器を当て、状態を確認しました。私は慌てて立ち上がり、直立不動で院長の様子をただ無言で見ていました。
「だんだんと、弱ってきますからね」
一通りの処置が終わると、院長はいつものソフトな声で言いました。
「点滴を入れているので、今はおしっこが出ていますけど、だんだん浮腫んでくるようになります」
ソフトな温かみのある語り口で、冷酷な言葉を投げかけられるのは、何ともシュールでした。
「この状態は、いつまで続くのでしょうか?」
ついそう聞いてしかってから、すぐに後悔しました。口から吐き出した言葉を集めてもう一度、喉の奥まで押し込めたいと思いました。この状態が終わるということは、母の死を意味することになってしまう。そんなことは微塵も望んでいませんでした。

私は思わず、母の顔を見ました。眠っているように見えましたが、意識を失っているため目を閉じているだけの状態と本当に眠っている状態の区別は、実際のところはわかりませんでした。どうか今の言葉が母の耳に届いていませんようにと願いました。

「これがいつまで続くかは、わかりません。ただ意識を取り戻すことは、百パーセントありません」
百パーセントという言葉が、やけに力強く聞こえました。医者というのは、どんなに人当りが良いように見えても、冷酷な言葉を吐くことに快感でも得ているのではないかと思うくらい、患者の死に対して無感情なものなのかもしれません。

私は何も言葉を返さず、ただ院長の顔を見返しました。病室に沈黙が流れ、それはずいぶん長い時間のように感じられました。その後、院長が無言で病室を出ていくと、たまたまその場にいた看護師から、
「辛いですよね。どうぞお気を落とさずに」
と言葉をかけられました。主治医の回診は院長が一人で病室を回るのが普通でしたが、その日は看護師が午後の検温に来ていたときに院長が回診にやって来て鉢合わせとなり、看護師はもう用事は済んだはずなのに病室に留まり、院長と私のやり取りの一部始終に聞き耳を立てていました。

看護師が出ていくと間もなく、知らない別の看護師が病室に入ってきて、大げさに私のことを気の毒がり、院長とのやり取りについてあれこれと尋ねてきました。ナースステーションであの看護師が一部始終を話したのだろうと思いました。女性が大勢集まると噂話に花を咲かせるというのは、どんな場所でも同じなのかもしれません。それに対しては特別嫌な感情は湧かず、ただ大げさに気の毒がる看護師に対して、なぜか自分も芝居がかったように悲しがってみせる自分がいました。

第七章 命尽きる

その日は、本当に突然やってきました。三月三十一日になって、母の状態が急変。午後四時の計測で心拍数が上がり、血圧が58/38に急降下しました。

前日までは、状態は安定していました。院長から意識が戻ることは百パーセントないと言われてから、私は逆にやっきになり、脳梗塞から意識を戻すリハビリの方法をネットで探し回っていました。昔好きだった音楽を聞かせると効果があるというのを知り、父にどんな曲が好きだったかと聞いたりもしました。

そういえば八代亜紀が好きだったな。
父にそう言われて思い出しました。私が子供の頃、母はよく歌謡番組をつけていたし、台所で仕事をしていても八代亜紀が出てきたら居間にきてテレビの前に座り観ていました。

父が帰宅した後、早速YouTubeで八代亜紀の歌を探しました。
ああ、この曲だ、何度も聞いたことがある、という曲を見つけ、スマホの音量を最大にして母の枕元に置き、曲に合わせて私も歌いました。すると母は両目をぱっちりと開け、耳を澄ましているように見えました。

わかってくれているのかもしれない。思い出してくれているのかもしれない。もしそうなら、意識を取り戻すことは決して無理ではないのかもしれない。

そんなことを考えていたのに、二十四時間後に容態が急変したのです。

何とか回復してほしいと祈る気持ちで、母のベッド脇で様子を見守りました。血圧が極端に低下すると手足の先まで血液が循環せず冷たくなるので、足をもみ続けたりもしました。夜になると血圧が少し戻り、上が70くらいになったので少しほっとしたせいか、寝ようと思っていたわけでもないのにいつのまにかソファーに座ったまま深い眠りについていました。

目が覚めると、外が白み始めていました。夜中に看護師や介護士が病室に入ってきたはずでしたが、まったく気づきもしませんでした。
私は慌てて起き上がり、母の顔を覗き込みました。数日前から付けていた呼吸器のおかげで体内の酸素はまだ維持されていましたが、モニターの血圧の表示欄が空白になっていました。

布団をめくり、足を触ってみました。浮腫んでいる感じはしませんでしたが、金属に触っているかのように冷たさが伝ってきました。両手で足を包み、上下に動かしてマッサージをしました。つま先からかかと、ふくらはきと、両手を必死に動かしました。

しばらくすると、モニターの血圧測定機能が作動し始めました。1時間ごとに自動で測定されるように設定されている機能で、母の腕には常時、腕帯が巻かれていました。その腕帯がまず作動して膨らみ、測定が完了すると1分後にモニターに数値が表示されます。うまく測定ができなければもう一度腕帯がふくらみ、自動で再測定も行われるようになっていました。

このときも、一度目の測定で数値が出ず、何度か再測定を繰り返し、最後に表示されたのが「エラー」の文字でした。

どうしたのだろう。

最初は、測定器の不具合なのかと思いました。ナースステーションに行き看護師の1人に事情を説明すると、すぐに病室に来てくれました。看護師が手動で測定し直しましたが、やはりエラーの表示。
「ちょっと、いいですか?」
看護師が病室の外を指さしてそう言いました。無言で看護師の後について病室の外へ出ると、看護師は私に顔を近づけ、声を潜めて言いました。
「危険な状態なので、すぐにお父さんを呼んでください」

遂にそのときがきたのか……。
その日が来ることはわかっていたし想像もしていたので、そのときは思っていたよりも冷静に受け止めていました。
「あとどれくらいですか?」
「もってお昼くらいだと思います」

時間を確認すると、午前8時前でした。あと4時間あまりで母がこの世からいなくなってしまうということに、現実感がまったくありませんでした。冷静なのは、その現実感のなさゆえだったのかもしれません。

すぐに父に電話をかけました。父は自宅で病院に来る準備をしていた最中だったらしく、私が看護師から言われたことを伝えると、慌てた様子で「すぐに行く」と言って電話を切りました。数日前、父には「病状もほとんど変化がないし、数日くらい休んでゆっくりしたら?」と話したばかりでした。それなら月曜日は午前中だけ行くけど、火曜日は用事があるので休むと言っていました。その月曜日というのが、この日でした。

父は病室に来ると、母の弟にすぐ電話をかけました。母の弟夫婦は1時間後に駆けつけ、それと入れ替わりで父が「いろいろ準備があるから」と言って一旦、自宅に戻りました。

ちょうど新しい元号名が発表になる日でした。午前の発表時間が近づいたとき病室備え付けのカード課金式テレビをつけると、どの局も特番で新元号を伝える体制になっていました。

テレビを観るのは久しぶりでした。病院に駆けつけて付き添いを始めてから、病室のテレビは一度もつけたことがありませんでした。普段は家で仕事をするときも、常にテレビをつけているほどなのに、ほとんどまったくテレビのない生活を始めてから気づいたらちょうど2週間が経っていました。

特番の進行を務めるアナウンサーが、発表の時間になってもまだ官房長官が会見場に現れないからと、間をつなぐためのトークを繰り広げていました。恐らくこのとき、日本中の人たちがどこかのテレビの前で今か今かと発表を待っていたでしょう。間もなく命が尽きようとしている人がいるその場でさえ、そうでした。

ようやく官房長官が現われ、新元号の名前を言いながら文字が書かれた色紙を両手で掲げました。
私は母のベッドの傍らへ行き、母の顔を覗き込むようにして、
「母さん、聞こえた? 今ね、新元号が発表になったの。令和だって。命令の令にね、平和の和。5月1日から令和になるんだよ」
と大きな声で話しかけました。

母が聞こえていたのかはわかりませんでした。目をつぶり、表情に動きはありませんでした。ほんの2日前には、昔好きだった歌謡曲を流したら目を開いたのに。

昼になり、母の容体は変わりませんでした。血圧は測定不能のまま腕帯はもはや外れていましたが、心臓は規則正しく動いていたし、呼吸もしっかりしていました。母の弟夫婦はいったん帰るといって病院を後にし、午後一時頃になって車で二時間かかる市から母の妹たちが駆けつけ、それでも容体は変わらず、今度は父が「もう今日は大丈夫だ。一晩もつよ」と言っていったん帰宅しました。

夕方になって家にいても落ち着かないからと父が戻って来て、親戚も含めて十人が病室に勢ぞろいしました。母の心臓も呼吸も何も変わらないまま時間が過ぎていきました。集まっていた親戚たちは、夜はどこに泊まるかの相談をし始めました。その小さな田舎町には、公共の宿泊施設が一つだけありましたが、他に競合がないぶん一泊の費用が高く、そこに泊まるかそれとも病院に泊まるかと話し合っていました。病院の二階病棟には見舞客用の応接室があり、八畳ほどの広さに長ソファーと一つと一人掛けソファー二つがあるだけでしたが、絨毯敷きの床に寝ようと思えば、大人四人くらいは何とか寝られる広さでした。

容体が急変したときのことも考えてやはり病院に泊まった方がいいということになり、夕方になって親戚の誰かが夕食の買い出しに出掛けました。食事を済ませて一息つき、それでも母の容体が変わらないので、応接室に行き交代で休もうということになりました。

病室に残ったのは私と二人の叔母でした。残ったとはいえやることもないので、それぞれがソファーや簡易ベッドに横たわり仮眠を取ろうとしていました。それだけみんなが母の容体に安心していたということです。もしかしたらこのままの状態で一晩かそれ以上はがんばってくれるのではないかと思うくらいに、おだやかでした。

けれども死へ続く道の過程で、容体の変化は常に急にやってくるものなのです。

夜九時頃のことでした。呼吸が急に弱くなり、数値モニターから警告音が鳴りだしました。ナースステーションから駆けつけてくれた看護師が母の状態を確認すると「みなさんはどちらですか? すぐに呼んできた方がいいです」と言いました。

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