メッセージ性が好きでもなくってYeah

いつの間にかメッセージ伝えてますってそのものの活動をしてる自分は、「メッセージ性」っていうのがさほど好きじゃなくって。
わたしがやってることって見ようによってはそりゃもう、内から湧いてくるメッセージそのものの伝達なんだけど、「メッセージ性」はぜんぜん込めてないってことがポイントで。

しゃべりたいことをしゃべり、書きたいことを書いて表現してるが、メッセージ性なんてものは含んでないんだわ。んなことはしないタイプ。
本心からいって、みんな好きに生きてくれ、聞きたいやつは聞いてくれ、Yeah. のノリ。
そんな気持ちでおーうぇいず(always)発信、遠回しな意図なんも込めてない。であるから汲み取らなくて、おけ!(OKの意味だよ、桶じゃないよ、でも桶も「汲み取らなくて」にかかるダブルミーニングになるのが想定外)

ときどき思うの。たまにあるじゃん、音楽とか芸術作品なんかに意味を汲み取る分析。あれって作者の意図外のこともよくあるだろうなーって。
え、そんなメッセージ性込めてないんですけど? と作った本人は思いつつ、後付けで人が解釈した意味がひとり歩き。まるでそれが作品の代名詞。そんなことだってままあるんじゃない?

あとわたしが思うのが、ぜんぜんメッセージ性込めた発言なんかしてない人がまわりから勝手にメッセージを読み取られ、尊敬され、カリスマとかご意見番に祭り上げられるあの流れ。

ご意見番になんかさらさらなろうとしてない生き方の人ほど、ご意見番に祭り上げられるって現象。
んで、かわいそうに、気づいたらその人は祭り上げられてほんとにご意見番になっちゃったりして。いっぱしのコメンテーター扱いで、あちこち引っぱりだこ。
気づいたらその役割にput oneself in the shoes.
合わない靴に足ねじこんで、それが自分の歩く道になってる。

メッセージにはその人のそのまま言いたいこと、ストレートさを感じるが、メッセージ性ってやつは「受け手」が作り出すものなんじゃないか。
自分軸と他人軸ってやつじゃないか。
てことでこれは、メッセージ性じゃなくてわたしの直の感想なんじゃないか。


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