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自由の追求〜社会的弱者の不自由脱却を目指して〜

※本記事は主として、私が思う妥当か不当かの判断、考え方、価値観についてまとめたものにすぎず、合憲違憲、適法違法といった法律的な議論について書いたものではありません。
(法律を勉強したことのある、あるいは現在している読者に対する注意書きです。それ以外の方は、この注意書きを無視して読み進めてください。)

『自由』とはとても尊く、貴重で、重要なものであり、誰しもが平等に手にすべきものである。

『自由』の尊さや重要さについては誰しも理解できると思う。なぜなら、おそらく誰しも、その程度の軽重を問わず『自由』を抑圧された経験があるだろうからだ。
私は子供のときの体験(他人の権利が絡むので詳細な説明は避ける)から、『自由』を抑圧され、侵される苦しみは十分身にしみてわかっているつもりである。

また、このような『自由』を何の見返りも無しに好き好んで自ら抑圧されたがる人間もおそらくいないであろう。

このようなことは、革命といった数々の歴史的事件からも理解できよう。

したがって、原則として人間は『自由』であるべきなのだ。

しかし、各個人の『自由』は互いにぶつかり合うことが想定され、その利害対立の調整のため、例外として『自由』を制約すべき場合がある事も明らかだ。

もっとも、上述の『自由』の尊さ、重要さに鑑み、例外としての『自由』への制約が許容されるのは、当該制約がしっかりとした理由に基づく必要最小限度のものとなっている場合に限定されると考えるべきである。

そして、上述の例外として正当化されない不当な制約については、これをやめさせるべきこととなる。
そのためには何らかの制裁、罰則を法律等のルールで定めたり、といったことが必要となる。実際そうなっているし。

なお、この制裁や罰則も『自由』に対する制約となりうるため、その場合は別途上記例外として正当化されないかを検討する必要がある。

ところが、現状の日本社会を見ると、上記例外として正当化されない不当な制約がまかり通ってしまっているのが現状である。
おそらく大半の人が何らかの形で経験したことがあるであろう理不尽、不条理といったものもここに含まれよう。

特に社会的弱者とされる人達(子供、マイノリティ、LGBT等…)への不当な制約が放置されているといったことは、(昔よりはだいぶマシだろうが)まだまだ多いと感じる。

生活保護の議論でも示されるように、こうした社会的弱者を保護、支援することは、それ以外の者にとっても究極的には利益となる(治安の向上、治安悪化の防止等)。
このことは、逆に社会的弱者を見捨てることは、それ以外の者にとって損失となりうる、ということを意味する。

したがって、社会(主に社会的弱者以外の者、特に財力や権力を持つ者)は、社会的弱者を積極的に保護、支援すべきである。これは社会の義務ともいえよう。

私も自己の経験上、社会的弱者とされる人達の立場に同情を禁じ得ないので、何らかの形でこうしたことに関わっていきたいと思っている。

最後に本記事のまとめ。

・『自由』は尊いので、しっかりした理由に基づく必要最小限度の制約以外には服するべきではない。

・社会は社会的弱者を積極的に保護、支援する義務がある。


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