【赤色巡りレポ①】 東京・吉原遊郭 【日本最大の遊郭→ソープ街】
今回から、本格的に赤色巡りを記事にしていこうと思っている。第一回目はやはり吉原にしよう。
※探訪記公開に際しての覚え書きはこちら。
以前記事にしたような個人的な思い入れを抜きにしても、遊郭といえばやっぱり吉原。
なんといっても江戸幕府の公認遊郭(江戸吉原、京都島原、大阪新町)の1つであり、日本最大の遊郭でもあった、遊郭の代名詞とも言える場所。
最近話題の「鬼滅の刃」はもちろん、様々な漫画や小説、ドラマ、歌舞伎や浮世絵など、古今のカルチャーの題材となっている繁華街である。
吉原の歴史は意外と新しく、江戸時代から。もとは日本橋近くの郊外(葦がたくさん生えた葦原だったことから吉原と呼ばれた)に幕府の許可のもと作られたが、火災と規模拡大によって浅草寺裏手の田園地帯・新吉原(現在の台東区千束)に移転された。
現在では日本最大のソープランド街として、今でもその出自を色濃く伝えている。
また、町の名前や地形に遊郭時代の名前や形、ソープランドの合間に赤線当時のカフェー建築が残っているのも見応えのあるポイント。
今回は2度(2016年、2024年)の吉原探訪を振り返りながら、写真と共に記事にしてみたい。
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1回目(2016年秋)の探訪記録から紹介したい。
当時私はまだ吉原を「元遊郭」としてしか知らず、赤線はもちろん、ソープランドが何なのかもよくわかっていなかった(他風俗との違いもわからなかった)のだが、町並みや地名に、小説で読んだ「吉原」の世界の名残を強く感じた、印象的な訪問になった。
写真も始めたばかりで下手だったし、ソープランドの入り口にコワモテの黒服さんがあちこち立っているのを見てテンパりながらの訪問だったので、色々と未熟だが、当時初めての赤色巡りということで、ご容赦願いたい。
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旧吉原遊郭の現在の最寄駅は、東京メトロ日比谷線の三ノ輪駅。昔は田んぼだらけだった吉原近辺は箕輪(みのわ)という地名で呼ばれていたそうで、漢字は違うが同じ音の地名が残っているのは感慨深い。
駅から土手通りという大通りを南東へ歩いて15分ほどで、旧吉原遊郭のエリアに到着する。
文章だけだとわかりにくいと思うので、加筆した地図を以下に示しておく。
赤いエリアが遊郭だったのだが、見事に整形に計画・区画整備した跡が窺える。
以降の記録はこの地図と見比べながらだとわかりやすくお読み頂けるのではないかと思う。
訪問当時、季節はちょうど秋の初め。金木犀の香りが漂い、民家の庭先に実った柘榴が色っぽい。また、吉原に近づくにつれ、周辺に建つ建物も歴史のありそうな古いものが増えてくる。
土手通りから「吉原大門」の交差点を西へ入ると、大門跡を通って吉原エリア。この交差点はその名の通り、元は川沿いの土手にあった。当時の客は、川を渡る舟を使って吉原を訪問することが多かったようで、このあたりに船着場があったのだろう。
この交差点の袂には、「見返り柳」という一本の柳の木が立っている。
土手に生えていたこの柳は、吉原を題材にした作品などにもよく登場する目印。
元は山谷の方に生えていたのを、この位置に移されたという。
遊興を終えて帰る男性客が、この柳の下に立って吉原を見返し、名残を惜しんだと言われていることから、「見返り柳」と呼ばれてきたそうだ。
(ちなみに、吉原だけでなく全国各地で、柳の木が花街の心理的な目印となっている例は少なくない。)
交差点北側から見る土手通りと見返り柳(右側)。昔は川沿いだった土手通りの向こう、アイストップに、今はスカイツリーが聳えている。
さて、ここの交差点を右手に曲がると吉原の大門へ向かう道。
緩やかな上り坂になっており、繁華街としての吉原が外界から見えないように、道は大きく蛇行している。
話には聞いていたが、実際に訪れてみると、思ったよりその曲がり具合が急で驚いた。
ここは「衣紋坂」あるいは「五十間通り」とも呼ばれ、遊郭に遊びに来た男性が「衣紋(着物の襟)を整えながら歩いた」ということから名付けられたそうだ。
現代で言うと、女性とのデートの前にネクタイを締め直す男性のような心持ちだろうか。
衣紋坂を抜けると、そこは大門。……とはいえ、ここに門が立っていたのも今は昔。名残などないだろう……と思いきや。
なんと通りの両側に「よし原大門」と書かれた道標のような街灯が立っている。こんなしっかり表記されているとは……!
また、大門から吉原の反対端までを貫くこの目抜き通りは、江戸時代から「仲之町」と呼ばれているが、これも同じように地名として表示されている。
さすがに遊郭時代に名物だった桜並木(道のど真ん中に生えていた)はないが、街路樹が柳で、風流の名残まで感じられた。
これには初訪問だった当時も感動してしまった記憶がある。
遊郭の歴史などは黒歴史として隠したがる地域が多いと聞いていたし、現代の吉原はソープランド街として、煌びやかな歌舞伎町のような街になっているのだろう……と思っていたので、昔を意識できる街並みが残っていることには本当に驚いた。
当時は赤色巡りに際して、ネットではなく本で前準備をしていたので、地名や地形の知識はあったものの、こういった情景の期待値は低かったこともあり、余計に吃驚である。
その仲之町通りに沿って南下していくと、通り沿いに古めかしい建物が目につく。
遊郭は何も妓楼だけで構成される街ではなく、廓内で働くさまざまな人々が暮らしていたため、日用品を売る店や飲食店なども色々あったという。
これらはその名残りかもしれない。
仲之町通りから左右に伸びる脇道の名前は江戸町、角町と揚屋町、京町……本で読んだ通りに今も残っている。
町並みは現代的だが、私もさすがに妓楼建築が残っているような期待はしていなかったし、町名が昔のままだったことで十分に高揚した。
営業中のソープランドの方々に迷惑にならないよう、高速で写真を撮りながら歩いて行く……。
そういえばこんな看板も見つけた。
さすが日本最大級のソープランドの街。
性病である梅毒が日本でも流行するようになってから、遊郭で働く女性たちに最も恐れられたものの一つがこれであり、大きな遊郭や色街を抱える地域ではかなり厳しい検黴(性病検査)が行われたと聞いていたが、これはいわば現代の検黴所のようなものだろうか……。
目に入る情報全てが生々しく、まるで身体が半分タイムスリップしたような心持ち。
高揚感のままに歩いて10分ほどで大門と反対側の端に辿り着くと、吉原神社を発見した。
吉原が遊郭だった時代は、廓の四隅を含む5箇所に稲荷神社があったらしいのだが、昭和43年以降は、隣接の吉原弁財天と合わせて、ここに合祀されているそうだ。
境内には社務所の他に、ご神木らしき銀杏や、遊女にゆかりのある逢初桜、なんだかいわくのありそうなお穴様など、いろいろな見どころがあるが、当時の私が目玉が飛び出そうなほど惹きつけられたのはこちら。
境内の掲示板に貼り出された、吉原今昔図。
昔と現代の吉原を描いた詳細な地図である。しかもこちら、社務所で販売しているとある。一も二もなく購入した。
まさかこんなものが現地で手に入るとは思いもしなかったので、頭は完全にオーバーヒートしてしまった。
吉原神社にしっかり手を合わせ、帰路は地図と現在を見比べながら、動揺と物思いに耽った……そんな1度目の訪問だった。
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未熟ながらも衝撃的な訪問から早8年。
様々なSNSが普及し、YouTubeなどを通して花街色街をレポする人々が増えたこともあって、気付けば世間での吉原および遊郭の認知度はしっかり上がっていた。
私自身も多くの赤色探訪を経て、いつの間にか「全国遊郭案内」(昭和時代に発行された、遊郭巡りのバイブルとも言われる本)を買ってしまったりと、知識や認識もかなり深まっており……。
そんな折に久しぶりに上京する機会があったため、満を持して吉原を再訪することにしたのである。
今回は吉原に残る赤線時代のカフェー建築と、遊郭時代のいくつかの遺構を訪ねることにした。
(1回目の訪問時よりは、カメラの性能も写真の腕も上がっているはず……。)
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まずは遊郭時代の遺構から。
先述の今昔地図を見て頂ければわかるのだが、吉原遊郭は江戸時代当時、周囲に壁が立っていただけでなく、四角く堀で囲まれていた。
この堀は川などに繋がっていなかったことから流れがなく、真っ黒でくさかったことから「お歯黒どぶ」と呼ばれていたそうだ。
今では埋め立てられて堀自体は存在しないが、その跡が吉原周辺に残っている。
写真は吉原の北側、千束四丁目。昔の地図通りの地形が残っているので、お歯黒どぶを埋め立てて作った道路を見つけるのは容易だ。
この石垣は当時のものらしく、Googleマップにも「お歯黒どぶの石垣擬定地」と示されている。使われている石は大谷石というらしい。
下の方だけ色が黒いのは、お歯黒どぶの汚さに晒されたからだとも聞くが、真偽は如何に……。
とはいえ、ここに1m弱の段差があるのはどぶがあったから、というのは間違いがなさそうだ。
この高低差は通り沿いに続いており、吉原公園の入り口など、何ヶ所かに見ることができる(ちなみにこの吉原公園は大見世・大文字楼の敷地跡にできたらしい)。
吉原から逃げようとして溺れた遊女の死体が浮いたこともあるというお歯黒どぶの中から、今の吉原内を眺めると、しんみりしてしまうものだ。
さらに吉原の東側にまわると、花園通りという、真ん中に植え込みを配した大きな通りに出る。
こちらもお歯黒どぶを埋め立てた通りらしいが、うまく埋め立てられたのか、地形ゆえか、高低差はあまり認識できない。
お歯黒どぶに関しては探せばもっと遺構があるようなので、次回また探してみることにする(その際はこちらに追記する予定)。
さて、今度は吉原の南側に回ってみる。
一度目は吉原神社で引き返してしまったが、この先にも遊郭にゆかりの深い場所がいくつかあるのだ。
吉原のすぐ南には、台東区立台東病院がある。
現代的で大規模な病院だが、元は吉原病院という名で、警視庁によって作られた娼妓の性病専門の病院だったそうだ。
この病院のすぐ隣の道は、大門とは逆側の遊郭の出口であり、衣紋坂と同じように(あるいはそれ以上に)曲がりくねっている。
戦前の航空写真ではコの字形にまで曲がっているので、これでも少しは緩やかになっているようだ。昔の人は、よほど遊郭を外界から(視覚的にも物理的にも)切り離したかったらしい。
この道の先には吉原弁財天がある。吉原神社でも合祀されていると紹介したが、こちらの方が歴史は古く、遊女も含めた遊郭の関係者からも信仰を集めていたそうだ。
弁財天が吉原全体の信仰を集めていたことは、境内の玉垣を見ればよくわかる。
赤い文字で刻まれた名前をよく見ると、妓楼の名前が多いことに気付く。有名な角海老楼、大文字楼の他、川元楼、三浦屋、大和楼、日光楼などなど……ずらりと並ぶその名前は、よく見ると前述の今昔図に書かれた往時の見世々の名前である。
弁財天の境内には小さな噴水と池があるが、これは昔、弁天池と呼ばれた大きな池の名残である。
弁天池は昭和時代に埋め立てられるまでは50mほどの直径を有していたそうで、関東大震災の折には、遊郭内で火に巻かれた遊女や住民が水を求めて飛び込み、亡くなったことで有名だ。
その関係で、弁財天境内には関東大震災にまつわる慰霊碑や仏像が多く祀られている。
小さくてわかりづらいが、遊女の墓も存在する。
なお、弁財天の境内にある遊女墓は小さな墓石だが、三ノ輪駅前の浄閑寺には大きな遊女墓がある。
こちらは吉原のエリアからは少し離れるが、身寄りのない吉原遊郭の遊女たちが亡くなった後に無縁仏として葬られた、いわゆる「投げ込み寺」で、その歴史は長い。
寺の門を潜って左手にたくさんの墓石が並んでおり、遊女の墓は本堂のちょうど裏手に建っている。
この墓石の横にまわると、花頭のような形の鉄格子のはまった窓があり、その奥には骨壷が納められているのが窺える……。
また、墓台には花酔の「生れては苦界 死しては浄閑寺」という歌が刻まれている。
花魁道中などで名を馳せた一見華やかな吉原は、しかし働く遊女たちにとっては「苦界」であるという、悲痛な現実を表しているのだろう。
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さて、1回目の訪問では江戸時代の遊郭としての吉原しか知らなかった私だが、調べてみると、春を売る町の歴史は江戸時代に終始したわけではないことがわかる。
明治・大正と時代が下って、遊郭の周りから堀や塀が消え、趣は変わっても、遊女という職業自体はなくならなかった。女衒による人身売買のような強制的なやり方は減っても妓楼は変わらず存在し、身体を売ることで食べていくしかない女性はたくさんいたのである。そしてまた、そうした職業や場があることで、世間のストレスが適度に発散されていたのも事実であった。
しかし、敗戦後にGHQが政治に介入するようになってからは、それまでのようにはいかなかった。
当時の「先進国」たるアメリカから見れば、売春が公的に認可されるなどありえないことであり、公娼たる遊女と、その遊女たちを抱える遊郭がその公的な立場を失うことになったのは、当然の流れだったのである。
とはいえ、いきなり全てを撤廃すれば、社会のストレスが反乱などGHQにとっても不都合な方へ流れてしまうことは必至。……ということで、昭和33年の売春防止法施行までの間は、花街や遊郭での売春行為は黙認されることになった。この黙認されていたエリアがいわゆる「赤線」である。
赤線という名前は、公安が該当地域を赤い線で囲っていたことからついた俗称だと言われている。
対照的に、赤線以外の場所で、黙認ですらなく勝手にそのような商売を行っていた地域は青線と呼ばれた。
話が逸れたが、つまり吉原も戦後、その「赤線」になっていたということだ。
そして赤線に当時よく見られたのが、カフェー建築だった。売春稼業があくまで「黙認」の中、遊郭のように大々的に客を呼ぶわけにもいかず、また妓楼のような格式ばったやり方が時代遅れとなる中で、カフェーは彗星の如く現れた営業形態だった。
一見は普通の飲食店(今でいうスナックのような感じ?)でありながら、そこの「女給さん」とよろしくやることが暗黙の了解のような場所。
そしてそのような沈黙の中の宣伝方法のひとつとして、カフェーは往々にして、一風変わった外観をしていることが多かったのである。
そのいくつかを紹介していこう。
こちらは吉原の大門近くに遺っているカフェー建築。元の屋号は「黒潮」と「マスミ(満寿美)」。
目につく面は洋風なテイストだが、実は内部は普通の木造家屋。カフェーにはこういった、いわゆる看板建築が多い。
こちらは元の屋号が「プリンセス」。ちょっと寄宿舎のようでもある。
こちらは現役ソープ街の通りに残る、旧屋号「白菊」。看板建築の形がはっきりわかる。
よく見ると通りに面した表面に扉が2つあるのが見て取れるが、これはカフェー建築によくあった形式だ。入り口と出口を分け、内部でも入る人と出る人のルートを分けることで、知り合い同士などが鉢合わせして気まずくならないように、動線が作られていたという。
ちなみに旧白菊の背後には、隣接するようにアパート様の建物が建っている。
入り口の灯りには「白菊(?)荘」と書かれており、旧白菊とも関係があるように思われた(もしかしたら女給さんが住んでいたのかも?)。
旧白菊の向かいには、現役ソープランド「角えび本店」が営業している。
ここは元「徳兼」というカフェーだったそうだ。
ちなみに「角海老」というのは弁財天の玉垣にも名前があった、遊郭時代の大見世の屋号でもある。なかなか粋な命名だ。
角えびの裏には旧屋号「日の出」が。
旅館か何かに転用したのだろうか?と思わせる外観だが、女性のための自立支援施設として活用されているようだ。
こちらは旧屋号「辰野」。2階建てだが、3階建てに見せるような窓の意匠がついた看板建築になっている。
そしてこちらが旧屋号「ゆうらく」。吉原で一、二を争う有名なカフェー建築である。
なお、ゆうらくの南には旧屋号「太閤」というカフェー建築があったはずなのだが、訪問時には既に更地になっており、向こう側のゆうらくがよく見えるようになっていた……。
こういった屋号のわかっているもの以外にも、カフェーだったのではないかと思わせる建物はたくさんある。ソープランドの合間に、こういった建物が遺っているのは吉原ならではだろう。
そういえばソープ街を歩いていたら、店の裏口にお盆に乗せられた御膳のようなものが置かれていた。
おそらく吉原周辺にはもっとたくさんの遺構やいわくの場所があり、そして同時に、「太閤」のように日々消えていっているのだろう。営業中のエリアであることもあり、遠方の身だとじっくり探すのは難しいのが口惜しいところだ。
さて、なんとか暑さを凌ぎながら、目星をつけておいた遺構とカフェー建築の諸々を巡って満足した後、〆にはこちらにお邪魔した。
花街色街好きにはもはや聖地となっているらしい、カストリ書房さん。日本で唯一の遊郭専門の書店である。場所は吉原弁財天の目の前。
どの棚を見回しても素敵な書物ばかりで、目についたものを何点か購入した。手のひらサイズの「全国女性街ガイド」をゲットできたのも嬉しい。
ちなみに、お土産に買ったのがこちら。
かつて吉原遊女が本当に惚れた男に、気持ちが誠であることを示すために小指を切って贈ったという言い伝えから作られた、遊女の「指切りクッキー」。ギョッとする見た目だが、味は本当に美味しくて二重にびっくりの逸品だった。
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最後に、2016年の1回目の訪問を思い出しながら、主だった場所を定点観測した写真も載せておく。
そしてこちらは吉原の外、三ノ輪駅までの周辺で見られる歴史ある建物の色々。
遊郭は各時代において流行の発祥地でもあったため、様々な文化と縁の深い場所でもあった。
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ここまで読んで頂ければわかるように、現在の吉原は「遊郭・赤線・ソープランド」と、さまざまな時代を経て形成された、”今”にしかない吉原である。
そもそも私が「吉原は現在どうなっているのだろう」と考え始めたきっかけは、京都の東映太秦映画村にて、「吉原通り」の精巧なセットを見たからなのだが、こういった風景が時代変遷を経て今の形になったというのも感慨深い。
ちなみに、今はリニューアル中で見られないが、この映画村の吉原では、役者さんによる再現度の高い(?)花魁道中を見ることもできた。
花魁道中とは、位の高い、人気の遊女が、馴染みの客を迎えに行く道中を、煌びやかな衣装と色っぽい歩き方で見せ物としてエンタメ化した、江戸時代当時のイベントである。
吉原周辺でも祭りなどの際に道中を行うことがあるらしいので、次はそれを目指して3度目の再訪をしたいと目論んでいる。
ずいぶん長くなってしまったが、他にもたくさん紹介したい赤色跡があることでもあるし、吉原探訪記は一度ここで筆を置く。次の訪問時には、また加筆していきたいと思う。
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おまけ。
筆者が個人的に好きな、吉原を題材にした作品を、メモを兼ねて紹介しておく。
吉原遊郭の世界にどっぷり浸ってみたい方は是非どうぞ。
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