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JRAという病気(日本中央競馬会ではない)

表題の病名を聞いたことのある方は決して多くはないだろう。
現在では「JIA(若年性特発性関節炎)」と呼ばれているらしいこの病気(私も今調べて初めて知った)、20年ほど前は「JRA(若年性関節リウマチ)」と呼ばれていた。
難しいことはわからないが、本来菌やウイルスなど外敵と戦うはずの免疫機能がおかしくなって、間違えて人体の方を攻撃してしまう膠原病の一種で、名前の通り若年層(多くは小児)が罹る病気である。
膠原病は種類によっていろいろと出方・深刻度が異なるが、私が罹患したこの病気の基本症状は、長く続く高熱と、あちこちの関節炎だった。

今でもわかっていないことの多い珍しい病気なので、私も自身の経験としてしか書けないが、誰かの役に立つかも知れないし、当時を振り返りながら20年越しに記録してみようと思う。
あくまで主観の、古い日記と思ってお読み下さい。


11歳の真夏、中学受験を控えた小6の私は、今まさに始まらんとする「受験の天王山」こと夏期講習を迎えていた。
当時私は成績が伸び悩んでいて、母から提示された1日10〜12時間の勉強時間×1ヶ月という頭のおかしくなりそうなスケジュールに目を回しながらも、志望校へのモチベーションと母からのプレッシャーで、やるしかないと半ば自暴自棄ムード。
前年に北方から引っ越してきたばかりの身に、関西の暑さはとにかく堪えた。1年前の5年生の時も、人生初めての夏バテ→夏風邪で高熱を出し、点滴を受けたくらいである。幸い1週間で回復したが、日差しはきついし、聞き慣れないくまぜみの声も耳につく。
有り体に言えば、疲れ切っていた。

7月最後の土曜日は、通っていた学習塾の副塾長と面談の予定があった。私の成績を悲観した母の希望である。
母はいつもピリピリした人ではあったが、この頃には成績を理由にキレることが増えていた。私は己の成績以上に、母の機嫌に怯えていた。

土曜日の16時頃、ふと寒気を覚えた。熱を測ってみると37.6度。面談に備えて洗面所でメイクをする母に声をかけた。

「熱があるんだけど。」

母の後ろ背には、西陽が差していた。

「何度?」
「37.6」

昼間に私と口論してから不機嫌だった母は、吐き捨てるように「7度台なら行きなさい。副塾長との面談なんて他に機会がないんだから」。発熱する身体に負担には感じたが、母の言うことも尤もと考えた私は是と応えた。

17時、面談を受ける。
非常に理路整然と、冷徹なまでの楽観で合格プランを示す副塾長が、私は少し苦手だった。べつだん人見知りもしない私が、目を見ることのできない唯一の人間だったが、母は彼を全面的に信頼していて、1時間ほどの面談の後に「われわれが全力でサポートしますから。今日から夏期講習がんばりましょう」と言われて、多少機嫌を直したようだった。

18時過ぎに面談を終え、寒気が抑えがたくなっていた私は、事務室で体温計を借りて熱を測った。
38.6度。
体温計の数字を見た仲の良い事務員さんが、仰天して言った、「帰りなさい!」。母は「今日から夏期講習なのに」とごちゃごちゃ言っていたが、副塾長の「最初に躓いては良い受験勉強はできない。今はしっかり身体を休めなさい」という言葉に、渋々従い帰宅した。

翌朝も熱は下がらなかった。週が明けても下がらなかったので、前年の夏バテの時に世話になった地元の病院で、前年のように点滴を受けた。
それでも熱は下がらない。高い時には39.6℃。39.8℃。毎日暑かった。世間も暑かったし、私の頭も熱かった。何より、毎日毎日朝からくまぜみがうるさかった。毎日「夏期講習が」という母もうるさかった。
1週間が過ぎると、熱が下がった。朝だけである。
朝には36.8℃程度に下がる。だが、昼頃からまたガタガタと寒気を催し、午後には39℃を超える。
そんな調子が3日続き、40℃を超えるようになったところで、小学生の私でも「これは夏風邪なんかじゃない」と理解できた。同時に「ほんとに死ぬかも知れない」という思いがすとんと胸に降りてきて、恐ろしくてたまらなくなった。
夕方放送の忍たまを見ながら、必死に身体を冷やそうと冷タオルで全身を拭く私を、4年生の弟が異様なモノを見る目で見ていた。
気化熱に震えてさらに上がる体温を見て、「死んじゃったらどうしよう」と泣き出した私に、母は「明日もう一度病院行くから」と面倒そうに答えた。

8月第1週の終わり、もう一度地元の病院へ訪れると、女医さんが深刻そうな顔で「紹介状を書きますから、今日じゅうに市民病院へ行ってください」と言う。
有無を言わさぬ口調に気圧された母に連れられ、空いている午後の市民病院に移動すると「すぐに入院して下さい」。
あれよあれよと言う間に入院した。テレビカードで見た病室のテレビでは、多摩川に現れたアザラシ「タマちゃん」を盛んに報道していた。
私は「いつでも医者が診てくれる」空間に入院できたことに、心底安心した。

初めの一週間は、波がありながらも高い熱が続いて朦朧としていた。
眩し過ぎる青空を写す窓ガラスに、カナブンが飛んできてはぶつかっていく。
変に楽観的な父が見舞いにきて、「病院の裏手が田んぼだから今度遊びに行こう」と言った。熱でそれどころではない私は「そう」と答えた。
弟がきて、手持ち無沙汰そうに帰って行った。
祖母が関東からきて、私の付き添いで病室に寝泊まりしている母と、何やら話し込みながら食堂へ行った。
隣のベッドに入院した女子中学生が、彼女の母親に「もう治ったから退院しますって先生に言うのよ」と念を押されていた。
世間では無菌性髄膜炎が流行っているらしい。何度も医者に首を持ち上げられ、「痛みがないか」と聞かれて首を振った。
血液検査の結果は、炎症の値を表すCRPが高い。血沈がどうこうとも言われた。高熱以外の症状はないが、途中から点滴に追加された抗生剤はきいていないようだった。

2週目には、起き上がれるようになった。とはいえ熱は下がらない。「朝には平熱、昼から高熱」、そのサイクルに慣れただけだ。
病院食はまずまず美味しい。毎日食べたものと排泄と、1時間ごとの体温を記録する。毎朝点滴の針から採血をされる。ずっと点滴針を刺している左手の甲は、じわじわ漏れた点滴液でぱんぱんだ。
父が見舞いにきて、「火の鳥」の文庫全巻セットを置いて行った。入院のお供には重過ぎて胸焼けする内容のそれらをひたすら読んでいたら、まさにお局という感じの婦長から「受験生なのに勉強しないで漫画ばかりね」と言われた。(この人は私がなぜ入院しているのか知らないんだろうか。)
弟は夏休みの間、関東の祖母に預けられることになったらしい。
付き添いベッドで寝泊まりしていた母が、ある晩とうとうキレて「いつまでこんな腰痛い中やんないといけないのよ!」とヒステリーを起こしたので、面倒くさくて「じゃあ帰れば?いいよ」と答えたら、何やら喚きながら帰って行った。仮設ベッドのなくなった病室は広くて快適だった。
主治医というものがいることを認識した。若い男の先生だ。シュッとしている。新しく医局に来た女医さんもかわいらしかった。初めましての挨拶をしながらアレルギー検査の注射をする人は、彼女が初めてだった。
レントゲンを撮られる。銀色の注射器で造影剤を入れてガリウムシンチを受ける。冷たいジェルを塗ったエコーを受ける。私はストレッチャーに乗せられて、検査のために病院じゅうを上下する。熱も毎日規則正しく上下する。病名はわからない。医者たちの顔がだんだん渋くなっていくーー。

3週目、初めて病院のシャワー室で身体を洗われる。芋洗いのようだ。病院食は美味い。
病棟勤務の看護婦さんとは、ほとんど全てと仲良くなったし、車椅子でがらがら点滴を運びながらトイレに行くのにも慣れた。
母親が久しぶりに顔を見せたと思ったら、「塾の事務員から『夏期講習は受けられそうですか』と電話があったから、『うちの娘はもうすぐ死ぬかもしれないんですよ!』って返して切ってやったわ」と誇らしげに言われた。……いつの間にか「もうすぐ死ぬかもしれない娘」にされている。「娘につききりで看病する可哀想な母親」から「娘が死ぬかもしれない可哀想な母親」にシフトチェンジしたようだ。
それはともかく、3週目にして主治医から呼び出されたらしい父と母の空気は深刻だった。「マルクをしようと思うんです」と医者が言う。父は渋い顔。母はすっかり空気に酔って泣いている。私は母と同じにはなりたくなくて、「マルク(硬貨)?」と手でコインの形を作って半笑いで小首を傾げてみた。
その場でいちばん優しい顔をした医者が、「あらゆる検査をして、除外診断をしたんだ。あとは白血病か、それ以外かを診断するために、骨髄が必要なんだ」と言う。いたたまれない空気にいる医者が可哀想だった私は「いーですよ、減るもんじゃなし」とVサインをしてみせた。父も「お願いします」と。隣で大袈裟に目頭を押さえている母親は、全員無視である。そんなことよりも白血病がめちゃくちゃ怖かった。
医者と両親が話し合い、数日後に骨髄穿刺(骨髄に針を刺して検体を採取する検査)が決まった。

骨髄穿刺をする日の朝は慌ただしかった。食事やなんやかやに細かく気を配られ、検査の数時間前には右腰のあたりに、局所麻酔のための麻酔テープが貼られた。結論から言うと、これはほとんど役に立たなかった。麻酔針はそれでもそこそこ痛かったし、骨髄を抜く針はもっと痛かったからだ。
午前中にもうひとりの入院患者が検査を受けた後、午後に処置室に呼び出された。ベッドの上で麻酔されてうつぶせになると、両手とお尻に看護婦さんが3人も乗った。「え?」と戸惑ううちに、腰に違和感。硬いモノを揺さぶられるような吐き気。
入院して初めて採血をした時に「こんなことこれから毎日なんだから、いちいち痛がるのをやめよう」と決意して痛覚を切り離し、一度も泣かなかった私が、大泣きする痛み(というより吐き気)だった。
「もうやだぁ」「やめてぇ」と泣いて叫んだ。穿刺は結構時間も長かったので、吐き気と痛みは耐えがたかった。終わった時にはみんなが褒めてくれ、主治医がお姫様抱っこで病室まで運んでくれたが、私は間もなく意識を失った。

朦朧とする意識の合間に、関東から来た祖母や弟を見た。両親がパックのぶどうジュースをくれたが一口飲んでまた失神した。
翌朝起きた時には身体も鎮まっていてトイレも行けたが、昼頃にまた出始めた熱には失望した(穿刺は検査であり治療ではないので当然だが)。

気付けばお盆を過ぎた病棟は入院患者が減り、静かになっていた。熱が下がっているタイミングに静かな病棟を車椅子で移動すると、リノリウムの床がきゅむきゅむと鳴った。
外からは3階にもかすかに存在を主張する、くまぜみの声がする。

数日後、医者がまた両親を呼び出し、検査結果を伝えた。曰く「悪性ではない」。つまり白血病ではなかったということらしい。
私はベッドの上で腰が抜けるのを感じた。

「では娘はなんの病気なんですか?」
父が聞く。

「まだ薬を試してみないとわからないのですが、おそらく若年性のリウマチかとーー」
医者が答えた。

「リウマチ?関節どこも痛くないのに……」
びっくりして私が聞く。

「昨日やっと結果が出たのですが、どうやら最初の2週間ほどはマイコプラズマ肺炎だったようなんです。そのショックで、免疫が暴走してこういう病気になったのかと……10万人にひとりという珍しい病気なので、はっきりしたことは言えないのですが……」

検査結果が出るのが遅過ぎるだろうとか、肺炎と言うが咳のひとつも出なかったのにとか、言いたいことはいろいろあったが、父の「それで、予後は?」という質問を優先する。

「命に別状のある病気ではありません。大人になる前にほとんどが完治します。ただ、高熱と関節炎を抑えるためにステロイドとリウマチを抑える薬を使います。量がどの程度必要かは、これから投薬で様子を見ます」と医者。

笑顔になる父、せっかくの悲劇を失い無反応の母、そして私のその時の気持ちをなんと表せば良いだろう。
「命の危険はない」ーーなんて良い言葉だろう。
言うなれば"無罪放免"の心持ち。
気が抜けた。骨髄穿刺の痕がずきりと疼いたが、それすらも許せる気持ちだった。

それからの3週間の入院生活は、大変居心地の良いものだった。
プレドニン(ステロイド)とリウマトレックス(リウマチの薬)を処方された当初こそ、副反応でひどい悪寒と高熱も出たものだが、やがてそのピークは下がっていき、一日中平熱で行動ができるようになっていく。
静かな病棟で看護師さんにボードゲームを挑み、折り紙でプレイルームの飾り付けを作って手伝い、時々見舞いにくる父が持ってくる寿司を食べ、車椅子で廊下を走り回って怒られ、同じ病室に火傷で入院している2歳の女の子と遊びーーこんなにも充実した安心は、私の人生では一度も感じたことのなかったものだった。
窓から見える風景は次第に移り変わり、秋めいていく。
父が仕事を早めに切り上げてきた夕方には、車椅子を押されて病院の外庭を散歩するまでに回復していたが、その度に聞こえる蝉の声も小さくなっていった。

9月に入り、病棟窓から見える畦道に赤い糸のような彼岸花が見られるようになると、主治医が両親に「そろそろ退院しても良いだろう」と告げた。
私としてはもう何年でも病院で暮らしたいほど快適だったが、そうも行かない(なお、難病指定のため入院費は驚くほど減額されたらしい)。夏をまるまる失って、すっかり私の受験を諦めたらしい母が「もう勉強はせずに家でゆっくりしたらいい」と言ってくれたこともあり、退院は名残惜しくもスムーズだった。

1日2回の服薬、週1の通院。あとは小学校にも通わず、ただ食べて好きなことをするだけ。絵を描いたり本を読んだり……転勤族の私には、学校に恋しく思う仲間もない。
朝や雨の日、冷え込む日には節々が痛む。特に手首の内側。サポーターを着けて極力動かさないようにするが耐え難い日もある。時々熱も出る。
だが「受験」も「死の恐怖」もない静かな生活は、この上なく幸せだった。
こうしてゆったり生活する中で遊び程度に過去問を解いていたら、結局志望校に合格してしまったのはおまけの話である。

夏休みの発熱、そして入院生活での浮き沈みが激しかった割に、予後は素朴なものだった。
プレドニンの影響で顔がまん丸のムーンフェイスになったり、小学校の修学旅行が車椅子参加になったり、疲れが溜まると太腿に痛みのある紅斑が出たり、中学校では体育が見学になったり、一部車通学になったりはしたが、あくまで「その程度」である。あの夏の夕方の、足元がなくなるような死の恐怖に比べればなんということはない。
大きな事件と言えば、中学校に入った年の秋に、半年の通学の無理が祟ったのか、軽い再発をして熱が下がらなくなったことがあったが、2週間入院をしてプレドニンを調整したら落ち着いた(その間に英語の授業についていけなくなって成績がガタ落ちしたことの方が大問題であった)。

高校に上がる頃にはほとんど熱も関節痛もなく、通学も自力でできるし、体育も参加可能。お守り程度の微量のステロイドを飲み続け(副作用の骨粗鬆症を避けるためにカルシウム剤も飲んでいた)、高校3年にはそれも投薬終了・完治と相なったーー。


以上が私の拙い、JRA(JIA)の記録である。
幸いなことに予後もよく、尻すぼみな結末となったが、入院した当初、私や家族の受けた衝撃は大変大きなものだった。同じ膠原病のくくりでも命に関わるものもたくさんあるので、それでも私は本当に運がよかったと言えよう。
病因については未だにはっきりしないが、トリガーがマイコプラズマ肺炎だったとはいえ、今思えばそれまでの生活環境のストレスによるものが大きかったように思える。そちらに関してはまたいずれ。

命がけで闘った健気な物語も、確かめ合った家族の絆のようなものもない、ただの経験談ではあるけれど、誰か・何かの足しになれば幸いです。

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