キリストから学ぶ

オリンピック組織委員会の数人やDaiGoさんの炎上からしばらくたってなお、寄せられた批判コメントについて非常に違和感があるものが未だに記憶に残っていたのでそれについて考えてみた。

罪と石

炎上に際して寄せられた違和感のある批判とは、すなわち社会に出るべきではないというものである。曰く、取り返しのつかないことを言ったのだからもう2度と社会に復帰すべきでないや、許されないことをしたのだから表に出るべきではないというものである。
社会的に重大な失敗を犯した彼らは金輪際日の目を浴びることはできないのだろうか。彼らの失敗は彼らの未来を奪う、ひいては彼らが提供する価値を投げ捨ててでも糾弾するべきものだろうか。
そもそも人間は失敗なくして成長がない生き物である。行動に疑念が生まれた時、振り返って初めてその人は過ちを認めることができる。過ちを認めることで初めて正しさを認識することができる。社会的な立場ある人々が失敗を犯した時、それは振り返る機会であれども、それは決してその先を摘み取ってしまっていいものではない。人間は生産性が低くなったら殺処分されてしまう家畜とは違うのだから。
ここでふと考える。失敗を口実に追放を口にする人たちはどんな人たちなのか。「罪がないものだけが石を投げなさい」とはヨハネの福音書に書かれた言葉である。罪を憎んで石を投げようとするならば、その石は罪があれば自分に向かうこととなる。他人の振り見て我がふり直せとはよく言ったものだと思うのは、他人の罪を見て自身に石を向けているその精神性にある。彼らはどういう思いでその石を手にするのだろうか。

左頬の痛み

特定の属性で持ってその行動を指摘することは差別と言われる。属性とはその人の一面であり、その全てではない。その人の中にある属性があったとしても、その全てではなく、また反対にその属性全てがその人ではない。にも関わらず属性を否定するという考えは果たしてどこからくるものであろうか。属性に対する蔑視、優越感、無知など、様々な要素が挙げられるだろうがいずれもに共通することは当人にとって彼らは「対等ではない」という意識を持っていることだろうと思う。当然、対等ではない相手のために配慮などはしないし、共感を持つことなどあり得ない。なぜならば、それは共感を持つこと自体が対等であるという立場を保障し得るからだ。
なればこそ、「右の頬を殴られたら左の頬を差し出せ」に学ぶことは多いように思われる。マタイの福音書に登場するこの言葉の真意は、対等な立場に立たせるものと言われている。要するに、被差別の立場を変えたければ、差別主義者にスーパーチャットを投げ入れることができれば、差別関係は瓦解する。差別主義者は本来下に見ていた立場から、金銭を受け取る側となる。自身の生活を保障する一部に自身より下が入り込むということは本来あり得ないのだ。なぜならば、「その方々に生きる糧をいただいている」に相違ないのだから。左頬の痛みは、対等と強かさの証明として忘れはしないだろう。

最後に、炎上騒動で見られる最も恐ろしかったことを書こうと思う。彼らは弱者の味方に立って強者に立ち向かう形を作り出す。それは弱者への愛を謳って強者へ鞭を与える存在であろうとするようにすら感じられる。このことの異常性を感じられる人はどれだけいるだろうか。感覚的には昨今のsns流行やコメントを見る限り、ほとんどいないのではないかと思わざるを得ない。某番組の現代版悪人成敗や、先に上げた炎上をはじめ、あまりにも強いを挫くことに迷いがない、あるいは強きを虐殺することに快感を感じる世の中になり始めているのではないかと感じてすらいる。大人になれなかった大人たちという言葉があるように、歳を重ねたからと言って大人になれるわけでないのでいるが、無自覚でいるが故に大人になれない大人たちが多く溢れてしまっているのではないかとすら感じる。先に述べたように弱者への愛を謳って強気と戦う彼らに、弱者への愛は存在するのだろうか。
数とは絶大な力となり得る。弱者の味方が数をそろえた時、それは強者となり、弱者と戦う構図へと形を変える。弱者への愛を謳って戦うものたちは、弱者への愛を持って弱者を挫いてしまう。彼らはその矛盾に気づかず、庇護すべき、助けるべき人たちに鞭を撃ち続けるのかもしれない。
「汝の敵を愛せよ」とはそんな苦悩から生まれた言葉ではないかと思うことがある。失敗から立ち上がらせる立場にあるべき人が、失敗を理由に人を挫くなどということがあってはならないのだと、たとえそれが汝の敵であっても庇護せねばならないのだと強く思う。誇りを持って弱者の側に立つと決めたなら、その属性に関わらず常に弱者の側に立てなければならない。石を投げるべき罪を間違えると石は自分に向かうのだということをゆめゆめ忘れてはいけないだろう。敵を愛することが難しいのは確かであるが、そんな時ことそ左頬の痛みとともに得た強かさで持って汝の敵を愛せよと私は思う。

以上私がたったいま思考したことの書き出しであった。主観100%、うらどりなしの内容となっているが、共感してもらえたならばこれに勝る喜びはないし、指摘があればもちろん大歓迎である。私はこの記事を書いたことで、読んでもらうことで、過ちに気づき、成長することができる。

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