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最後の電話

今も後悔していることがあります。

父が亡くなり、
それまで父の介護をしてきた母は
すっかり疲れ切っていました。

父と二人で住んでいた家を出て、
私の家に近いところへ、
引っ越ししたいと言い出し、
母は、小さな一人住まい用の借家を借りました。

父との思い出がいっぱいの家を
離れたかったのかもしれません。


新しい気持ちで
また心機一転という気持ちだったと思います。

まだ、そのころは自分で運転もしていました。
新しい家のご近所でお友達も作り、
家に招いてお茶したりもしていました。


しかし、
だんだん、ゆっくりと、
母は変になっていきました。

風呂場のお湯の出し方がわからない、
と電話。

え?今までの家と同じ蛇口だよ?
と言っても、何かぼんやりしていたり、

ある日は、
確かにまだ少し残っていたはずのエビが、
どこを探してもなくて、
食べたの?と聞くと
知らんと言う、

狐につままれた気分で
しょうがないから違う食材で
ピラフを作りました。

その後、
何故か、ジャムの空き瓶に入った
数匹のエビが出てきて、
なんで、こんなところに?
と、ビックリしたこともあります。


私の息子、つまり孫が遊びに来てくれた時、
ついに、
「どうして、この子はあんたのこと、
お母さんっていうの?」と聞いてきたのです。

え?

何言ってるの、私の息子やん、
あなたの孫じゃないの。

そういうと、照れ臭そうに
ああ、そうやった、

と、少し笑いました。


少しボケてきたかなぁと
思っていたけれど、
それでも単純に老化だろう、
くらいに思っていたのです。

まさか、認知症の始まり?
と、ちらっと思いましたが、
それを受け容れることは
私にはとても難しく、
慌てて、打ち消したのを覚えています。


冗談やめてよ、
しっかりしてよ、
と言い続けていました。


たぶん、あのころ
いろんなことが、わからなくなり始め、
母は不安だったんだろうと
今頃、思います。


しょっちゅう、私の携帯に
電話がありました。

いつ来るの?とか
みかんが食べたい、とか。

仕事中だからあとで、
と何度、電話を切ったかわかりません。


そして、とうとうあの日がきました。

私は仕事を終えて、電話をしました。
今から買い物をして、
それから、そっちへ行くからね、
30分くらい待っててね、と。


そしてスーパーで
晩ご飯の材料を買っていると
カバンの中で携帯が鳴っているのです。

見ると母でした。

さきほどの電話から10分もたってないのです。

「今、買い物中だから」と短く言って切りました。

荷物をいっぱい抱えた
スーパーの中で、
電話に出なくちゃならなかった状況が
私を妙にイラつかせていたのです。


レジを済ませ、
母の家に入るや否や、

「買い物してから行く、って
言ったでしょ?
なんで30分程度が待てないの?」

と自分でもびっくりするほどの声で
怒鳴ってしまったのです。


返事も聞かず、
買い物を台所へ運び、
すぐに料理にかかりました。

野菜を切ったり、
お味噌汁を作ったり、
お魚を焼いたり、と

かなりたってから、
やけに家が静かなことに気づき、
後ろを振り向きました。


すると、母が
先ほど私が怒鳴った時の姿勢のままで、
固まったように、
部屋の真ん中に突っ立っていたのです。


どうしたの?
何してるの?

と手を引いて椅子に座らせました。

「だって、あなたが
そんな怖い声で怒るんやもん・・」

と母は、半べそをかいていました。

ごめんごめん、と母をなだめて
晩ご飯を一緒に食べたけれど、
私のモヤモヤは、くすぶったままでした。


翌日、また私は仕事へ。
今日は何度、電話がかかるだろうと
重い気持ちでいたのに、
なぜか、携帯は一度も鳴らない・・・

あれ、昨日のが堪えたかなぁと
こちらからお昼休みに掛けてみました。

ところが出ません。

何度かけても出ないので、
ちょっと心配になり、
早めに仕事を終え、行ってみました。


母は携帯電話を前にして
困ったように座っていました。


「どうやって掛けたらいいのか
わからなくなって・・・・
そしたら掛かってきたんだけど
どうやって出たらいいのか、
わからなくなったの・・・」と。


掛けるのは、この短縮ボタンだよ、
出るのは、ここを押してね、
と、ゆっくり教えました。


でも、母から電話がかかることは
その後、二度とありませんでした。


あの日、
スーパーへかかってきた電話が
母からの最後の電話でした。

その電話に
冷たい対応をしてしまったこと、

うるさい、とか
うっとうしい、とか
思ってしまったことを、


私は、どのくらい後悔したかわかりません。


今日と変わらない明日がある、
どうして、そう信じ込んでいたのだろう・・・

今日が最後だとわかっていたら、
絶対に、あんな言い方はしなかったのに。

突然、失ってしまうことがある、って
知っていたはずなのに。


母はそれから間もなく、
骨折から車いす状態になり、
グループホームへ入所、
そして2年半後、亡くなりました。

でも、その2年半は、
毎日、今日が最後だとしても
絶対に後悔しない笑顔で、
またね、と言うことに決めていました。


もしかしたら、母も私も、
あの2年半は、一番幸せな時間だったかもしれません。


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元気ライフサポートコーチの福谷その子です。

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