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政治についてまじめに考えてみた⑥ 石丸伸二考その六

岸田秀さんという心理学者がいらっしゃいます。
少し前の話になりますが、氏の『恐怖とは何か』と題された評論が高校国語の教科書に載っていまして、非常に鮮烈な印象を受けたことを今でもよく覚えています。

かいつまんで書くと、恐怖の心理的なメカニズムについて述べられた文章です。恐怖は自我との関連性が高く、自我に組み込めないもの、自我の安定を脅かすものが恐怖の対象となる、しかしいつまでも自我が広がらないのは退屈なので、時に「怖いもの見たさ」で、人は敢えて自我を崩そうとする場合がある、という内容です。

先の記事でも書きましたが、石丸氏は超絶ド級の変態です。政治家を標榜する人でここまで無私という存在を見たことがない、それくらい稀有な存在です。

石丸氏はマスコミに対してミラーリングの手法を使ったと述べられたそうですが、手法を使うまでもなく、人間関係は基本的に鏡と同じだと私は考えています。
心理学的にも鏡の法則というのがあるそうですが、私が言いたいこととは若干ニュアンスが違うかもしれませんので補足します。
例えば誰か見知らぬ他人と相対している場面を想像していただけたらと思いますが、相手の反応を予測する根拠は基本的に自分の経験則だと思うのです。
相手を心の中で責めたり打ったりしている人は、相手も自分を責めたり打ったりしてくるのではないかと考えますし、逆もまた然りです。
つまり相手を理解しようとする際の拠り所は自分の経験だ、というのが私の考える「人間関係は鏡」の中身です。

つまり、石丸氏の態度や言動の真意が理解できるかどうかは、石丸氏と共通する部分(無私な姿勢)が受け取り手の中にあるかどうか、というのが大きな要因になっていると考えています。
従って無私な部分がない人、または政治家とは我欲の塊のはずだという固定観念に縛られている人は、石丸氏の態度や言動が全く理解できないはずです。
つまり、石丸氏の態度なり行動なりを自我に組み込めない、または自分の自我を揺るがす恐怖の対象と捉えることになるわけで、そういう人が、何とか自我に組み込もうと説明を加えるために自分の中での納得解を導いて、恐怖の対象を排除しようと必要以上に攻撃的になっているのだと推察しております。

アンチの拠り所となっているのは、安芸高田市長時代の「名誉毀損裁判」「ポスター裁判」「居眠り市議に持病があった事案」辺りで、この辺りの説明を一生懸命に求めて石丸氏を叩こうとします。
そりゃわかるのですよ、そういう「我欲」的な部分をつついて、自我の安定を図りたい、というのが偽らざる心境かと思います。
しかしこれらも全て「公平無私」な態度から出てきているので実情を知るときっとアンチさんはますます自我のピンチに陥ります。

とあるYoutuberさんが「諍いの根本は価値観の相違だ」と仰っていましたが、正に「価値観が理解できないから叩く」「何で叩いているのか理解できないから叩き返す」というのが現在のアンチと支持者の応酬なのかな、と感じております。

少しスピリチュアルな感じなので苦手な方は苦手かもしれません。悪しからず。


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