自分主体論から若者メンタル問題を考える


落ち込みやすい時期が来てしまったようでどうにも頭が動かなかったこの二日間、頭の中では会議が行われているのにそれが文章にならなかった。

かわいいイラストで落ち着くことにする。お絵かきした人はすごいね。

さて。


あなたは本当に自分のことを主体に考えているだろうか。

今日はそのことについて話そうと思う。



ベットで暑い中めんどくさいことしかない学校から帰った後の抜け殻になった私はおととい、昨日と

自分に滅多打ちにされていた。


「大学をやめるとしてお前には何ができるんだ?」

「なんもできないじゃないか」

「ほかの人にできることなんてないじゃないか」

「へっぽこしか作れないくせに、文章も続けられないくせになにになるんだ」

そんなことが渦巻く。こんなとき、前を走っているかっこいい人々のかっこいい一言がすべて身を引き裂き始める。


「とっとと動かなくちゃ」

その一心でここに文章を書いて、ネタをさがして、本をよんで、イベントに参加してきたが。

問題は休んでいるときに、動けないときに怒られることだ。


「とっとと動け、なんもできない癖に休むな」


うるさいな。無理な時は無理なんだってば。たく、なんでそんなことを言うんだよ。


まて、本当になんでそんなこと言うんだ??


休めないことから自分について考える

精神的に休むことができないというのは本当に作業効率にかかわり、悪い無限ループにはまり、作業には向いていない。


でも、なぜ休むことができないのか。

今回の場合は、自分の中で自分が文句を言ってくるから。


では、なぜ文句を言われるのか。

出てくるのは

「いろいろな人が動いているのに動けない状態って無益すぎる」

とか

「こんなんでへばっていたらなんも成果残せないじゃん。話せないしドロップアウトどころじゃなくなんもできねえよ」

とか。


すっごいマイナス思考ね。


これを分解しながらまたつっこむと、

「いろいろな人が動いている」というのは多分発信している人々。私がツイッターでフォローしている人々のことだろう。

でも、彼らは彼らできちんと休んでいる。タイミングがバラバラなだけで。絶えず動いているように見えるだけ。

「動けない状態が無益」というのは今の状態が嫌なのと体力や精神力の限界のギャップでやられているのだろう。


でも、この状態は果たして無益なのだろうか。無益だと考えているのは何故?


また、下のやつは。

「こんなんでへばっていたらなんも成果残せないじゃん。」こんなの、というのは日常生活だろうか。昨日は実質10時間労働だったがそれは?成果を残せないというのはこの文章に書いている時点で大丈夫なのではないだろうか。これも立派な成果である。それとも、成果の基準が違うのだろうか。


成果の基準は?


「話せないしドロップアウトどころじゃなくなんもできねえよ」話せないのは、それを恥じているからではないか。または、そんなもの見せられないというプライドがあるのではないだろうか。恥になる、プライドを傷つけるところのボーダーラインは?また、何もできないのなにも、とはどういうことをいうのだろうか。とりあえずここに書いている時点で書けているけれど、これはできないに含むのだろうか。


できている、の基準は?


これらの質問に対して私はどう答えたか。

「評価にならないから」「あこがれの人には届かないから」「他人に見せてもおかしくないように」「もっとしっかりと、だれが見ても大丈夫なように」

ここで気が付いたんですよ。


あれ?これ、「他人が基準」じゃない?


自分に基準が置けない心理

自分のことを考えているのに自分のことでなく他人のことを評価の基準にしているのはなんででしょうか?だって自分の人生なのになんでベースの判定が他人だとその人からクソって言われた瞬間にすべてが崩壊しちゃうじゃないですか。それは、人生的に損しかないじゃないですか。ほへえ。

だからなんで?って自分に聞いたら

自信がないからって言うのと共に

自分認めてくれないやん、って言われました。


自分が永遠にダメっていう……これか……。

永遠にダメって言われ続けたらなんもやらねえよなあ……。

でもどうしたらダメって言わないのか?


「自分で良いって言ってみる」と、友達に言われました。


自分に嘘ついてでもいいからとりあえず自分だけは認めろと。

まあ、やってみるしかないんだろうなあ。という感じです。

とりあえず。ここまで洗いざらいかけたのはえらいぞ、私。

ちゃんと文章になっている。偉いぞ、私。

憂鬱でも死のうとしていない、偉いぞ、私。


まあ、ちょっとはましになるわね。


まとめ

結果は出ていないから何とも言えないけれど、今回の記事の有用性はひとつ。

「若者のメンタルが弱い」の正体の一つに、基準が自分にないということがあるということ。

私は典型的な例だと思う。その人の基準で良し悪しを決めている人は怒られたときに、叱られたときに、基準が消える。その瞬間に失敗作になる。その注意が人格否定になる。これが何の原因で起きているのかはたくさんの原因分子があるが、結果として、怒られたときにやられてしまう人が生まれるんだと思う。

だから、前よりもマシになったこの脳内会議を公開した。

これでもマシであるあたりが闇だな。

そしてこれは、解決策が地道で即効性がないのでわかりにくく、放置されやすい問題だ。

しかも、そうでない人からしたら、知らんわ、で終わってしまう。

また、たくさんの原因があり、原因を解決するのは一人ではできないのに、精神論とか、根性論とかの「感情的な理論」で変えようとする人が多すぎる。

さらに悪いことに、私も含めて、本人もドツボにはまっている。

こんなに問題点が出てくる。わあ。大惨事だね。

まあ、とりあえず私はこの友人に教えてもらった自分ほめ戦法でちょっと頑張ってみようとおもうよ。

結果が出たら多分またかくよ。


メンタルがひどいみんな、のんびりゆったりでもいいから楽しくやろうな。

そして

メンタルがひどくないみんな、若干理解があるだけで、ひとはうれしいから。よろしくな。


ここまで読んでくれてありがとうございました。
























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