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私のおじいちゃん。

記憶に一番古いおじいちゃんは
怖くて、寡黙な人だった。

昭和の父らしく(私の勝手なイメージだけど)
時間にはすごく厳しかったし、お箸の持ち方も厳しかったし、行事ごと含め慣習的なものに対して重んじる方だったと思う。

そして、車の運転が荒い。笑
いつも結構攻めた運転をするものだから、車のトラブルが起きるんじゃないかとヒヤヒヤしてた。

なんなら、私が車酔い酷かったのも、車に弱かったんじゃなくて、おじいちゃんの運転のせいじゃないかな。笑

趣味は野球と相撲で、いつもラジオを聴くから片耳はずっとイヤホンをしていてたし、

試合を見るために家には必ず3台はテレビがあって、

一緒に住んでた頃は、唯一、日曜夜のちびまる子ちゃんの時間帯だけは譲ってもらってた気がする。

小さい頃から、おじいちゃんと会話らしい会話をした覚えはあまりない。

こうしなきゃいけない。
あーしちゃだめだ。
と言われ、ウンザリすることも正直多々あった。

けど、なんだかんだで
おじいちゃんは孫にとても甘く、

それこそ、運動会だったり行事ごとには必ず参加してくれていたし、

子供ながらにおじいちゃんは私のことが好きだなあ、と思ってたので笑

あんまり喋らなかったけど、おじいちゃんのことが大好きだった。

成人式の日は、とんでもなく大雪で
車で移動するのも一苦労だったけど、
この時も、おじいちゃんが車で送り迎えしてくれた。

目の前でスリップしてる車を、当たり前のように、さっと手助けしてた。

コロナ禍だった莉雄くんの運動会には
人数規制があったから代表して2人でいった。

教室で見なきゃいけなくて、私に見やすい位置を譲って、自分は立って応援してた。

コロナ禍は毎日のようにテレビ電話をした。
正直、仕事で疲れてた時は話したくない時もあって顔を出さない時もあったけど、

ゆなちゃんはそこにいるの?と声をかけ、身体を気にかけてくれた。

よく考えれば、父よりもおじいちゃんと過ごして時間の方が圧倒的に多い。

小さい頃から父は不規則な仕事で、
家で会うタイミングがあまりなかったし

大学生の時に離婚してからは、
ますます会うことも少なくなった。

今でも、もちろん父のことも好きだし、
これはこれで良い距離感だと思ってるが、

小さかった弟にとっても
当時の母にとっても
私と妹にとっても

男であるおじいちゃんの存在は、やっぱり、おばあちゃんとはまた違ったものがあったと思う。

おじいちゃんは、何か社会に対して成し得た人でもなければ、特技があったとしても表に出すような人でもなく、信じられないくらい社交的でもなかった。

はたからみれば、うちに籠った人だし、ぶっきらぼうな人にみえたと思う。

けど、言葉にはせずとも伝わるほどに、家族を愛し、家族のことを想ってる人だった。

そんなおじいちゃんは、最後まで、皆んなに世話をかけさせることなく

弱った姿を見せることなく

いつもと変わらないおじいちゃんで
本当にぱっと逝ってしまった。

JTBを辞めて、今ではどんな仕事をしてるか全然分からなくて、とても心配をかけたんじゃないかな。

いつからか、仕事のことは聞かなくなった。母には言ってたみたいだけど、健康で過ごしてくれてたらそれだけで良いよって、私には何も言わずにいてくれて、ありがとう。

妹がスポーツトレーナーとして活躍していて、母もセカンドキャリアとして看護師を頑張っていて

私は私で一生懸命やっていたけど、明確に「これをやってるよ!」と上手く伝えられないことが本当にもどかしかった。

だから、何者にもなる必要はないと分かってても、何者かになりたかった。

自慢の娘になりたくて、自慢の姉でありたくて、自慢の孫になりたかった。

まだ少し私のそれに対しての葛藤は続くかもしれないし、どうなるのか私も分からないけれど、

私のことを信じてくれる人がいて、受け入れてくれる人がいて、たくさんの愛ある人たちに囲まれているから、どうか心配しないでね。

私はまだそっちには行けないけど、ちょっと先に向こうの様子を下見でもしといてよ!

ではでは、また!


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