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住む街について

大学生の頃か、卒業してからか忘れたけど、就職をしないという意思を持ち始めてから住む場所探しをしていた時期がある。

広島に住んでいるけど、鳥取に行き北海道に行き色々なところへ旅行に出かけた。時には海外にも。いずれは海外に住んでやる!なんて言っていたこともある。

だけどどこも良いところではあったけど、ピンとくる何かがなかった。だから住むことにはならなかった。それは住んでみるまでわからないこともあるけど、住む前に雰囲気などわかることもあると思う。怖いという感覚はない。

いや怖いという感覚を味わったのはアメリカのブルックリンという街。ニューヨークから地下鉄に乗って行ける場所で、夜は結構怖い雰囲気があった。もちろんブルックリンにも良いところはあると思う。数日しか滞在しなかったからわからないことだらけではあるけれど、優しさより怖さを感じる日々だったからニューヨークに遊びに行っても夕方5時くらいには泊まっている家に帰っていた。ただアメリカの地下鉄はWi-Fi環境が最強で、各駅に着いた瞬間バチバチにWi-Fiが使える。めっちゃ良い。笑

鳥取県や北海道は江別のゲストハウスに泊まったりしたけど、そこに自分が入れる隙間がないと感じたのか、コミュニティへの隙間がないように感じた。もう出来上がったコミュニティがあって、それは街よりも町よりも小さいコミュニティ。でもそこに遊びに行ったからこそ、濃いコミュニティに関わることができ、ここはこういうところなんだなと軽く感じることができた。

実家は田舎である。山と海が見え、宮島は厳島神社の赤い鳥居も少し行けば見える場所にある。本当に良いところだ。25年そこに住んでいたからか、その町を歩けば知り合いに会う。名前を呼ばれ、僕も返事をする。そんなのが普通にある町だった。僕からしたらこれが普通だった。が親友にしてはコミュニティが濃すぎるようだった。このことがお互いにとって良いか悪いかはどうでも良くて、ただ自分自身が住んでいるところと比べ、ちょっと距離が近すぎるよね。というだけ。ただ客観的に見てみれば、たしかにうちの町は濃いだろう。うちの町というだけに。笑

さあ、今住んでいる町のコミュニティはどうだろうか。以前よりも地域の人たちとのコミュニケーションはなくなった。道ゆく人たちが立ち止まって話をしている場面もあまり見ないし、挨拶が交わされるということも少ないように思う。お店のお客さんに会えば会釈くらいはできるけど、それ以上の関係にはならないかな〜なんて思ったりもする。ただそれを実現できる箱は持っていてそれが珈琲 いいかげん なんじゃないかな?と思っていて、ここは珈琲を境に人と人がちょっとだけ距離を近づけてお話しする。なんて場所だったらいいなとふと思った。

気になる本があれば、持っていってください。
そしていつか返しにきてください。

うちの店ではこれをやっていて、先日お客さんが一冊の本「ええかげん論」を持っていった。そうだよ。こういうのがしたくてお店をやっているようなものだ。もちろん珈琲も美味しいと言ってもらえるし嬉しい。それ以上に町に住む1人として、以前から住んでおられる方とのコミュニケーションの場として成り立ったら良い1例となったと感じた。

壁を感じるであろう最初の一歩。それはどのお店でもそうだと思う。ただその一歩を踏み出す勇気と、その勇気を受け止める寛容ささえ持っておけば、お店をやっていけるんじゃないかな。壁を乗り越えてやってきたお客さんにどれだけおもてなしの心で受け入れられるか。それに尽きる。そして小さな町の大きな場が完成していく。

そう思いながら、今日も新しいお客様を迎え、珈琲豆を買っていただきました。

小さくて大きなお店になるだろうよ。きっとね。

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