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エッセイ【小学校教員から○○教員へ】

最初に言っておきます。「#一歩踏み出した先に」をつけていますが、たぶん踏み出した私の途中経過という感じです。
このエッセイは今の自分の思いを乱暴に書き綴っています。備忘録的な感じです。「こんな考えの人がいるんだ」的な感じで読んでいただけると幸いです。

小学校教員のいいところ

私は小学校教員をしています。大学でも大学院でも初等教育を専攻してきました。小学校教員以外を考えたことはほぼありませんでした。
小学校教員がいいと思った理由はたくさんあります。教員経験も少ないため,現職の方に聞いたことも込みです。ざっくりです。
(1)担任制:全教育活動を見取れる。
  ①教科横断ができる 
  ②様々な活動における児童のよさを見取れる
(2)発達段階:一生懸命な姿や成長する姿を6年(最長)見取れる。児童自身頑張ることをよしとする素直さや風土がある。
(3)学校風土:みんな同じ職員室があり担任制である。みんなでがんばろうという風土が比較的ある。
(4)授業研究:小学校は部活もないため土日の授業研究会や学校の研究会  が充実。熱心な参加者も多い。小学校教員は母数も多いため、参加者が必然的に多くなることもあるのだろう。
(5)休日土日は必ず休み。ただし部活のある地域もあり。小学校教員になるための教員採用試験を受けた大学4年のころは、「好きな人と結婚しで出産して。。。子育てがあるかもしれないから休みはきっちりあった方がよい。」という考えを自然に抱いていました。そのため土日休みが確約されている小学校教員がよいなと思っていました。もちろん、この考えを否定するわ けでは全くありません。自分だってラブロマンティックイデオロギーにを前提にした人生にあこがれを抱かないこともないからです。ただし,大学院に入ってこれを中心に人生を考えるしんどさやそもそもこの考えが自分に合わないことに気づきました。これに向けて人生設計をしようとすると自分の心のバランスが取れなくなりました。悩んでいた時に読んだ山口真由さんの家族法に関する本は、目の前を少し明るくしてくれました。
(6)自身の経験や特技が直接生かせる:全教育活動に直接かかわるためいろんなことが生かせる。例えば、ピアノや英語(教員採用試験で加点あり),書道,ICTなど。
(7)倍率:受かりやすい:私は院の入試も同時で受けました。同時に受かりたいという思いが強かったです。

ほかの業種や校種も考えたこともありましたが,これらをよさを踏まえて小学校教員を選択しました。

小学校教員になった理由

私の両親はどちらも教員です。私が教育の道に入ったのも、両親を見ていたため自分がその職業に対するイメージが沸きやすかったことも影響しています。
学生時代、「何でもできなければ私には価値がない」とずっと薄っすらと思っていました。「努力をしても自分の能力には限界がある。そんな私が最大限に能力を高く見せて生きていくためには、親からの情報が不可欠なのでは。」そう考えていました。
また、あとづけですが教育という学問に興味をもったことも。高校時代司書の先生に勧められた大村はまの「教えるということ」を読んだとき,胸が熱くなった記憶は事実です。

また,教育という学問に興味をもったこと以外に環境的なものも大きいです。私は両親から教員になれとすすめられたことは一度もありません。しかし、どことなく「あなたは教員に向いている」というメッセージを向けられていたように思います。教育現場を知っている親なりの愛情だったのでしょう。これは私の想像ですが、全く異なる職種にいくよりも、知っている職種の方が安心ですし、アドバイスしやすい。親戚にも教員は多いので、教員ならではの感覚というのが私には染みついていると思ったのでしょう。

すべての校種の中でも「小学校教員向きだ」と両親は思っていたようです。器用貧乏(というかすべてをまんべんなくこなしたいという気持ちが強い)なところや”両親が思う私の性格”的に合うと思ったのだと。学生時代は自分の鬱屈さやこじらせ感(やっていたことは違いますがマインド的には「女子をこじらせて」の雨宮まみさんにそっくりでした)がいやで,”健全になろう”とを歩こうと必死でした。学生時代のあるあるでしょう。そこで得たこともたくさんあります。それに私は自称進学高⇒普通の国立大学卒です。高校教員である私の親からすると高校教諭は高学歴の教員も多く、シビアな面もあるのですすめなかったのかもしれません。まあ自分の校種をすすめること自体少し無理があるかもしれませんね。

主に2つの観点から教師になった理由を述べてきましたが、つまるところ以下のような私の考えが強かったからだと思います。

今までの環境や身に着けてきたことを無駄にしない生き方がしたい。

この思いが私は強すぎました。勉強してきたことを無駄にしたくない。院でも初等教育を学び、その後小学校教員になったのも何事もまんべんなくこなそうと頑張ってきたそれまでの自分を捨てきれなかったから。そもそも教員を選んだのも、自分の生まれた環境があるから。後悔は全くしていません。だって、その時自分が納得して選択してきたから。
でも大学院生になって違和感が生まれた。

他の選択肢


違和感が生まれた自分の思いを細かく分類して、何が自分はしたいかを考えると高校国語科教員という道が生まれてきました。これは1年前から考えていたことです。(ほかにも博士号への進学,私学小学校教員や海外の日本人学校、他県で教員などの迷走しましたが。。。これが一番しっくりきました。)

もっと国語について深めたい。教え方に対する専門性、児童理解の専門性だけではなく、国語科という教科に対する専門性をもっと高めたい。もちろん高校では部活や進路指導など忙しいと思います。生徒の進路に関する責任も大きなものだと思います。
しかし、授業に関わる時間は高校の方が時数的に多いです。1日で国語に割く時間は 国語科の準備や授業時間/その他の教科の準備や授業時間+休憩時間(児童と遊ぶ)+給食準備+事務作業+学級に関する業務・校務分掌などなどです。
他にも高校だと、国語科の中でも様々な担当科目をもてますよね。
正直、新採として業務に追われてしんどい中、私を1番救ってくれたのは、子供の笑顔ではなく国語科の面白さでした。国語科を通して子供に関わることが一番楽しいです。
もちろんこどもへの支援もおざなりにしたくないし、目の前の子供を何とかしたい
という気持ちもいつももっています。力をつけなければという切実感もあります。けど責任感と国語科の楽しさは別の問題です。

国語に割り当てられた時間の多さや教科では国語を通してのみ生徒に関わることができる
(担任になればそれ以外もあるが)ことが今の私にとっては大きなメリットです。また、高校の学校図書館に携われることも魅力的です。大変な業務もあるとは思いますが、やってみたいです。なかなか自分の希望通りにいかないとしてもいつかは関わりたいです。私にとって高校の読書体験はかけがえないです。
読書によって作者の思考を追随し、そして自分なり考えを導き出す。そうした体験を一度でもしておく意味。高校を卒業して社会人になる生徒にとってはそうした学びのラストチャンスかもしれません。別に皆が本好きにならないといけないとは思いませんが、何かあったときに本を手に取れる人になってほしい。小学校・中学校に比べて読書率が減少する(様々な要因があるが)高校生にとってどのように生活に読書を組み込むか、図書館を通して実践してみたいです。

 
 今は、高校教員としての素養も能力も(志望動機も)足りないので、それは継続で補いたいです。才能も実力もない私ができることは執着とそれに伴う継続しかないと思っています。

その可能性を残しつつ、今お世話になっている学校や先生方に不誠実にならないよう初任校にいる間(教育委員会が決めている年数)は小学校教員を全うしたいですね。小学校教員になったことは全く後悔していません。やりがいもあります。学校もそこで働く先生もとても素敵です。こんな先生になりたいという人柄や能力をもている方もたくさんいます。また、大学院生時代も素敵な小学校の先生にたくさん出会っています。小学校という環境やそこで出会ったつながりはかけがえのないものです。だけど、自分の人生に対するワクワクを持ち続けるためにはそこにずっといるのは違う。このままここにずっといると,自分の大切なものがなくなりそうな感覚になるんです。

まあ、なかなか決心つかなかったのはそれだけ小学校のまつわるもろもろが素敵すぎたからでしょうね(笑)

以上、 #たぶん一歩踏み出した先に  でした。

最後までとりとめのないことを読んでいただきありがとうございます。至らないところも多々ありますがこれが今の私の思いです。


※補足(このエッセイの足りないところや私にとっての書くことについて)

何度か読みなおした結果、この文章だけだと国語の何が好きか、国語の授業のどのような瞬間が楽しいか、人生に対するワクワクって?などが分かりません。今後はそれを言語化していきたいです。課題です。

院生のころゼミでは、他のゼミ生の文章を読んで、この人は何を伝えたいか?どのような認識をもっているか?それを引き出すためにはどうすればよいか?どのような手法や考えがよいか?などたくさん考えてきました。そのため自分の文章においても読み返すときは「この人は本当は何を思っていて、どこまでが文章に書き起こすことができていて、書き起こせていない(無意識的,あえて書いていない)部分はどこで。。。」など考える癖がついています。

自分自身、院の時はたくさん文章(論文作成に関する諸々)を書いたため、自分の文章にたくさん向き合ってきました。そこでは何を書いて何を書かないかなど自分の物事に対する認識の仕方が明らかになりました。なんだか研究をしているのか、はたまた研究という枠組みの中の自分の認識と戦っているのかよく分かんなかったですね。それに自分がしっくりくる感覚そのままを研究に反映させる難しさ。。。自分の感覚が納得する考えや思想を文章にする難しさ、考えや思想が身体化する難しさ。。。複雑なことを単純にするのではなく(そうするとこぼれ落ちるものがあり乱暴なまとめ方になる)、複雑なことを解像度をあげて捉える難しさ。。。

「書くこと」は自分の世界の認識を表す行為、自分の人生を物語る行為なのだなと改めて思いますね。


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