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陸奥の剛腕は噂に違わぬ。

夏の甲子園が近付くと私が思い出す1つが2007年の事だ。昨年の優勝校である仙台育英には球場を響動めかす投手がいた。

名は佐藤由規

私が東京ヤクルトスワローズのファンになる原点はここからだった。投球フォーム、球速、球のノビ、変化球のキレ、マウンド度胸。全てに惚れた。球速表示以上に速く見えたり、ブレーキのかかる変化球を見ると恐らく現代で言う回転数は物凄かっただろう。

1回戦は智弁和歌山

いきなり名門同士の対戦だった。魔曲・ジョックロックは何度も飲み込んできた攻撃力が抜群という印象が強い。そこで魅せたのは三振の山だった。直球で空振り三振を奪い、直球で見逃し三振を奪い、スライダーやフォークで仕留めてくる。終わってみればジョックロックに動じない完投と17奪三振。ミットから響いたのは風船が割れたかのような音。智弁和歌山・百戦錬磨の高嶋元監督もベンチで苦笑いだった事が珍しかった。実況の「陸奥の剛腕、噂に違わぬピッチング」という台詞は今でも聴こえてくる。

2回戦は智辯学園

17奪三振で止まらなかった。本当の衝撃はここからだった。2回戦は智辯学園と対戦。立ち上がりから奪三振で飛ばした。4回裏、甲子園が震えた。ワインドアップで投げた直球がミットに収まった直後にそれは起きた。スコアボードに表示されたのは

155㎞/h

球速表示に甲子園は響動きの声。実況も「え!?・・・お聴きの歓声の通りです。」と間が空いた瞬間のみ現実を疑うかのようだった。由規の顔に少し笑みが見えた。手応えを感じる1球だったのだろう。高校野球・甲子園史上最速は今も破られてはいない。2回戦で敗退も強烈なインパクトを残した。私がどうして夏の甲子園となる度に思い出すのかは私がスワローズファンになったキッカケだからなのだ。

由規が入団する
チームのファンになる!

そう決めていた。とはいえドラフトでスワローズが指名するとは限らない。どの球団が指名してどの球団がドラフトで交渉権を獲得するか分からない。当然だが。由規を指名したのは記憶が正しければ5球団だ。1/5の確率で古田兼任監督が手を挙げた。

自分がスワローズファンか…

ファンになる前から知っている選手やOBは多かった。初めて覚えたプロ野球選手は飯田哲也さんだった。一久監督や古田臨時コーチ、宮本慎也さん、岩村さん、ペタジーニという印象は強い。

当時を振り返るとにわかに近かった。今では〝代打の神様〟と呼ばれている川端を当時は「凄い逸材が出てきた」と言われても最初は「そうなの?36番か。覚えておきます」というくらいだ。気付けば背番号5だったが由規に目が行きすぎた。

由規を追った

プロに入って160㎞を計測。しかし故障をした。
育成枠に落ちても戸田球場に足を運び「いないかな。」と思いながら。何度か足を運んでいるとスワローズのユニフォームをした1人がランニングをして終えたように歩いてきた。

由規だった…

憧れを目の前にした時ってこんなに言葉を選ぶのは難しいのかと感じた瞬間だった。私は「サインお願いします!」と色紙とペンを渡した。由規に育成枠は似合わない。必ず支配下に上がるべき方と思い「サインに書く背番号は11でお願いします!」と要望した。由規は笑顔で「はい」と返事を。欲を張ってしまい「握手して下さい!」とお願いして頂いたり小声で「神宮で待ってます。」と伝えた。あの日の私は願いを込めただけかもしれないが、私なりに気持ちの全てを伝えたくて必死だった。そして由規は裏切らなかった。黄緑のユニフォームで神宮のマウンドに背番号11として帰ってきた。その瞬間がどれだけ嬉しかった事か。神宮から大歓声。それだけで地から這い上がってきた事に凄さは伝う。

東北楽天に移籍したり
独立リーグに行ったり
最近の情報では日本を離れたり

それでも野球人生である以上
応援をしている。

青春は密である限り。

【あとがき】
本書は読んでいただき、誠にありがとうございました。今回は東京ヤクルトスワローズのファンになったキッカケとその選手について書かせて頂きました。目の前で大ファンの方を見た時、言葉の選択が難しいものだなと感じました。それをエピソードに書くとこれだけ濃密なんですね。
頑張れ!由規!

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